一九三一年九月二二日、まだ柳条湖での爆発の余韻も冷めやらぬ頃、関東軍では、三宅光治参謀長はじめ土肥原賢二大佐、板垣征四郎大佐、石原莞爾中佐、片倉衷大尉らの幕僚が集まって「満蒙問題解決策案」を作成し、東京の陸軍大臣へ送っています。


 石原莞爾中佐の意見から明らかなように、関東軍はそもそも、満州を日本の領土にする計画を持っていました。

 しかし、満州領有計画は、あまりにも国際世論を無視した行動である上、九カ国条約を始めとする各種の国際条約にも違反する行動であったため、政府ばかりでなく、陸軍中枢の同意すら得られませんでした。
 このため、関東軍は、満州領有計画の放棄をやむなくされます。

 満州領有計画に代わって浮上してきたのが、満州を中華民国から独立させる、前述の満州独立計画でした。
 かくして関東軍は急遽予定を変更し「満蒙問題」解決のため、煕洽、張海鵬、湯玉麟、于し山、張景恵ら地元有力者への働きかけを開始します。

 煕洽に対する働きかけは、九月二三日に、早くも始まります。
 吉林を占領した、関東軍第二師団の多聞師団長は、遅れている吉林軍の武装解除の期日の延期する条件として、「軍が指定する四名の日本人を煕参謀長の顧問となすこと」を要求し、煕洽はこれを受け入れます。
(九月二四日 在吉林石射総領事から幣原外務大臣へ「日本外交文書 満州事変」第一巻 外務省 P一〇八、以下特に断らない限り書名は同一)

 その後、関東軍は、煕洽に吉林省の独立を要求し、「煕参謀長は軍〔関東軍〕指導の下に新政府の組織に着手」します。
 そして九月「二十六日臨時吉林省政府」が成立し「煕参謀長は各団体の支持に依り其長官となり」ます。
(九月二七日 在吉林石射総領事から幣原外務大臣へ P三〇三)

 しかし、無理矢理独立させられた煕洽に、独立に対する熱意があろう筈もなく、「煕長官は我軍の手前已むを得ず臨時政府を造りたるものにして作相との関係を考慮する為何処迄も遣り通す覚悟を欠く」という状況でした。
(一〇月七日 在吉林石射総領事から幣原外務大臣へ P三二九)

 湯玉麟に対する一〇月時点のの働きかけは、失敗しますが、関東軍はその後も湯玉麟に接触し、一二月三日には、関東軍の指揮に従うように記した、関東軍司令官の親書を送ります。
 結局「玉麟は之を承諾し若し軍事行動を起す必要あれば改めて其の方法及時期を支持せられたし」と答えます。(一二月七日 在北平矢野参事官から幣原外務大臣へ P三八九)

 于し山に対しては、懐柔のため「軍費十万元機関銃十挺弾丸二十万発(更に十万発後送の筈)の外毛皮外套及綿入軍服各一千着」が支給されました。
(一二月二日 在奉天森島総領事代理から幣原外務大臣へ P三八五)

 張海鵬に対しても、関東軍は、張海鵬が独立を宣言する一ヶ月以上前の一〇月「二十三日四平街より野砲四門及弾薬多量を列車によりとう南に輸送し張海鵬軍に引渡し」ています。
(一〇月三〇日 在鄭家屯大和久領事から幣原外務大臣へ P四五七)
 更に、黒竜江省の馬占山軍が一〇月「一六日午前江〔嫩江〕橋鉄道橋を焼却し」(一〇月一七日 三宅関東軍参謀長から二宮参謀次長へ P四三八)、張海鵬軍の北上を阻止した際、「とう昂線(中略)は満鉄の投資鉄道なるのみならず特産物出廻期迫れる此際至急修繕せざれば満鉄の蒙るべき損害大なるものあり(中略)満鉄としては軍の援(護)の下に強行修繕を行う外なし」(一〇月二三日 在奉天林総領事から幣原外務大臣へ P四四五)との要請を受けて、関東軍は、馬占山軍を武力で撃退して橋梁の修理を行います。

 上記の事実から判断して、中村氏の見解とは逆に、独立運動に対する日本側の工作はかなりなものであったことは確かです。

 そして、なによりも、柳条湖事件から僅か半月後の一〇月六日、関東軍司令部が「旧東三省政府〔張学良政府〕に対し同等の位置に立脚して国際正義を論じ得べきや外交交渉を談じ得べきや」として、張学良政府を満州から排除する旨の声明を出している(一〇月六日 三宅関東軍参謀長から杉山陸軍次官へ P三二六)ことから見て、満州建国が、満州住民の自発的な活動であったという中村氏の見解は誤っていると言わざるを得ません。


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