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中国への勢力圏の拡大がアメリカとの対立を導き、ひいては戦争をもたらすという意見は、満州事変の直前に当時関東軍参謀であった石原莞爾が主張していましたが、これは陸軍においてさえ一般的な意見ではありませんでした。
(ちなみに、石原は、満州を領有すれば、アメリカと戦争になるだろうが、それでも、満州を領有すべきだと主張していました。)
ましてや、一九三七年(昭和十二年)当時の海軍が中国との戦争が対米戦をもたらすと考えていたというのは、事実とはいえません。
例えば、米内光政海軍大将は、平沼内閣の海軍大臣時代の一九三八年(昭和一三年)八月八日の五相会議で、石渡蔵相から
「日独伊の海軍としては、英米仏ソの海軍と戦って、勝算があるのか、どうか」
と聞かれ
「勝てる見込みはありません。だいたい日本の海軍は米英を向こうにまわして戦争するように建造されておりません。独伊の海軍に至っては問題になりません。」
と答えています。
更に下って、一九三九年(昭和一四年)八月二一日の板垣陸軍大臣との会談でも
「支那問題に関し日本は仮令独伊と諒解ありとしても、英米を束にして向うに廻すこととなり、何等成功の算を見出し得ざるのみならず、危険此上もなし」
と主張しています。(「戦史叢書 大本営海軍部大東亜戦争開戦経緯」)
笠原氏が上記のような誤解をしたのは、
- 海軍が対米戦の準備をしていた(当時、アメリカは、「帝国国防方針」において日本の第一位の仮想敵国でしたから、海軍が対米戦の準備をするのは、国防上当然のことです)こと
- 海軍が南進政策を主張していた(実際は、南進論というより、北進論では海軍の役割 が殆どないため、国防政策上の比重が軽くなり、予算の獲得に支障を生じるため、北進論に反対している面が大きい)こと
- 海軍航空隊が中国で活躍したこと
等を結びつけてしまったためであると思われます。
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