十九世紀末、ロシアは極東に着々と勢力を伸ばした。おくれてきた帝国主義として、その膨張政策は露骨であった。一九〇〇年の義和団の乱のあと、ロシアが満州に居座ったことが日露戦争の直接の起因となった。満州と朝鮮は陸続きであり、満州にロシアの勢力が根を下ろせば、いずれ朝鮮半島も手中におさめる。そうなれば、島国日本は自国を有効に防衛する手段がないのである。 こういう情勢認識は、当時は世界の文明国の庶民レベルにいたるまでの常識であったらしい。 「ロシアの極東における侵略行為は、アメリカの無学な労働者のあいだにまで常識になっていたし、かれらは「シナと朝鮮のつぎは日本がとられる』というように、その情勢を理解していた」と司馬は書いている。 だから、日露戦争は日本にとって自衛の戦いであった。「祖国防衛戦争」であった。こういう戦争の性格が、第二次世界大戦後の日本人にはわかりにくくなった。 (P56〜P57) 『産経新聞』に一九九六年の一月から「教科書が教えない歴史』というタイトルで連載することになり、われわれ自由主義史視研究会の仲間で手分けして書くことになりました。一回国に私は、「ペリーに知らされた白旗の意味」を書きました。一八五三年にペリーが来航した時、彼は二本の白旗と一通の手紙を幕府の役人に手渡しました。その手紙は次のような文面でした。 「日本が鎖国の国法をたてに通商を認めないのは、天の道理に背き、その罪は大きい。通商を開くことをあくまで承知しないならば、我々は武力によってその罪をただす。日本も国法をもって防戦するがよい。戦争になれば、こちらが勝つのは決まっている。降伏する時は、贈っておいた白旗を押し立てよ。そうしたらアメリカは砲撃を止め、和睦することにしよう」(松本健一「白旗伝説』新潮社、をもとに表現をかえた) それまで、日本人は白旗は源氏の旗印と考えていたので、それが国際法で降伏を意味することは知りませんでした。 アメリカは友好的に開国・通商を求めてきたのではなく、はっきりと戦争をしに来たのだということです。ですから、アメリカの歴史の教科書には、「日本は二度、アメリカに降伏した」と記述してあります。一九四五年の降伏は誰にでもわかるのですが、一八五三年、正確には翌一八五四年の降伏は、現代の日本人は誰も知りません。「一度降伏したって、一体何のこと?」ということになってしまうのです。 (P126〜137) 「石橋は戦前、日本が持っていた満蒙権益はもちろん、全植民地を放棄すべきだ、ということをある時期主張しました。これは当時、満蒙は日本の生命線だと考えていた日本人の感覚からは考えられないことです。石橋は実際に植民地からどれほど経済的利益を得ているのか、という観点から算盤勘定をしたのです。彼には「まず功利主義者たれ」という論文があるように、植民地所有は道徳的に悪だから放棄しようというのではなく、日本の国益を徹底的に追求する立場から権益放棄を主張したのです。 石橋の計算の結果では、当時、日本が持っていた植民地はすべて持ち出しでした。日本は植民地から決して経済的利益を引き出していない。しかも満州を維持するためにアメリカと対立することになる。アメリカは戦前も日本の最大の貿易相手国でしたから、何の利益にもなっていない植民地を維持するために、アメリカと対決することは算盤勘定にあわないということになります。 従って、日本は植民地を維持することによってアメリカと対立するのであれば、植民地を放棄して、自由貿易で生きる方針をとるべきだ。日本が率先して植民地を放棄すれば、西欧諸国は大いに困るだろう、という論説を石橋湛山は展開していました。こうした石橋のような大胆な発想がなぜ、当時、主流にならなかったのだろうかと私は考えるのです。 しかし、石橋のウィーク・ポイントは安全保障という問題が視野から抜け落ちていることです。最近の石橋湛山研究もこの点が盲点になっています。確かに石橋の問題定義は素晴らしいのですが、安全保障という観点から見て本当にそれが出来たのかという問題は検討の余地があります。 もう一つ、アメリカが本当に日本に自由貿易を許す体制を作ったかということが、まったく別の問題としてあります。事実はそうはならなかった。一九三〇年代に恐慌が始まると、アメリカは高い関税で日本商品を世界市場から締め出すということをやったのです。それによって、日本は追い詰められ、戦争に突入したという側面があります。」 (P135〜137) では、そういう事態になっていたらどうだったか。子どもが言う「犯罪者を先頭に立てた」というのも、歴史的事実なんです。ソ連は満州を攻めてくるときに、犯罪者だけで構成した部隊を先頭にもってきた。政治犯ではありません。監獄から出てきた凶悪な刑事犯を集めた部隊があって、彼らにやりたい放題の略奪・強姦をあえてさせたのです。ひとしきり好きなだけやらせておいて、その後から、今度は憲兵隊のような正規な部隊が来て、先頭の連中を取り締まって銃殺していくわけです。そういう非常に卑劣なやり方をスターリンは平気でやったのです。そのことはディベートをしていた子どもたちも初めて知って大変驚いていました。 (P142〜143) 「日清戦争前の日本の軍事費の規模は、対GNP比で二・一パーセントに過ぎないというのです。戦後、一九五五年頃の日本の軍事費の対GNP比は二・七パーセントです。戦後の平和憲法下の時代よりも、明治時代の軍事費の比重が小さい。明治時代が「富国強兵」の時代であり、軍事大国をめざした時代であったというイメージは、本当は間違いなのです。」 (P151〜P152) |
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