タラント軍港の空襲 (中略) 小室 それで地中海の戦況はガラツと変わったわけですね。そういう前例を知って、おそらく山本五十六(連合艦隊司令長官)はニンマリとしたでしようね。スウォードフィッシュなんかに比べたら、日本の九七式艦上攻撃機は桁違いの性能を持っているわけです。攻撃の技術にしても、昭和七年まではイギリスに習ってきたんですけど、それからわずか九年でイギリスのレベルをはるかに追い越していた。 だから、イギリスにあんなことができるなら、いまの日本の機動部隊の力をもってすれば、十分にアメリカの戦艦群をやっつけられると。そういう意味で、日下先生のおっしやった地中海での前例というのは重要な意味を持っている。 日下 で、「もしもあの時、南雲さんが……」という最初のイフ物語から始めますと、小室先生は「こうすれば良かった」という、非常に興味深い指摘をしていますね。 (中略)
とくに、Uボートの活躍はすさまじく、一時、イギリスの海外交通路を遮断してイギリスの戦争継続能力を失わせそうでした。もし、ロイド・ジョージ首相が護送船団方式を発明して、これを頑迷固陋な石頭提督どもに強制しなかったならば、イギリスは戦争に敗けていたでしよう。 このことを反省して、ヒットラーとドイツ海軍当局は、第二次大戦の準備としては、イギリスに拮抗する大戦艦隊の建造なんかはじめから断念しました。 あとは、潜水艦に全力。 (P29〜30) 小室(中略) 何がなんでも、バルチック艦隊が極東へ来る前に旅順艦隊を全減させなければなりません。海上決戦主義にこりかたまらざるを得ない所以です。 それに、このことは誰もコメントした人がいないので念のためにつけ加えますと。もし、黒海艦隊がバルチック艦隊に合流しますと、日本艦隊より、多少、あるいはかなり優勢になっていたかもしれません。 幸いにも親日国トルコが、断固として黒海艦隊のボスポラス海峡通過を許しませんでしたので両艦隊の合流はありませんでしたが。事前には、これもまた計算に入れておかなければならないことです。 黒海艦隊は、かの戦艦「ポチョムキン」など新戦艦二隻を含み、あなどりがたい兵力でした。 どう考えても、日本艦隊は、軍艦を減らしてはならない事情にあったのでした。日本艦隊は、絶対に保全されなければなりません。艦隊保全主義が日本をがんじがらめにする所以です。 海上決戦主義と艦隊保全主義との尖鋭な矛盾。この矛盾こそが日本海軍を苦しめぬくことになるのですが、その端緒は日露戦争における矛盾せる戦略。 日本にくらべればロシアは、戦略思想的には楽なものでした。旅順艦隊は、艦隊保全主義一辺倒でよろしい。これにつきます。何もしないでグータラグータラしていても、軍艦を減らしさえしなければ大勝利疑いなしなんですから。 ロシアにもし、有能な戦略家がいたら、艦隊保全主義に徹していたことでしょう。そのうえに、もし日本軍が最後まで二〇三高地の致命的重要さに気付かなかったら。日露戦争は日本の敗けでした。 しかし何とも幸いにも(天佑とはこのことでしょうか)、ロシア皇帝ニコライ二世は、ひどく専制的なくせに気ままの移り気でした。 旅順港を動かないのが旅順艦隊にとってベストだと思いきや。ウラジオ艦隊は、ときどき出師して輸送船の常陸丸を沈めたり、佐渡丸を沈めたり……。日本の海上輸送を脅かしていました。 そうなると、どうしても旅順艦隊の無為が目に余ります。無定見の標本みたいなニコライ二世は、旅順艦隊をせっつきます。ウラジオヘ向けて出航せよ、と。 戦略的にいえば、このとき、ロシア太平洋艦隊(旅順艦隊)は、ウラジオヘ行ったほうがはるかによろしい。この艦隊が旅順にいればこそ、東郷艦隊はこれを有効に封鎖できます。ウラジオヘ行ってしまったら、もう完全にお手上げです。 ロシア艦隊を有効に封鎖しておけなくなったら、どういうことになりますか。日露戦争の兵站路たる大陸への補給が危殆に瀕するではありませんか。ウラジオ艦隊の三隻の巡洋艦ですら、あれだけの大あばれをしたのでした。 (中略) 日露戦争において、はじめに分析するべき「イフ」は、開戦壁頭の旅順奇襲です。 明治三十七年(一九〇四)二月九日午前零時過ぎ、日本の第一、第二、第三の三駆逐隊は、旅順港外に櫛湖中のロシア艦隊を奇襲雷撃し、戦艦「ツェサレウィッチ」、同「レトヴィザン」、巡洋艦「パルラーダ」に損害を与えました。 この旅順奇襲は、当時、大戦果のように喧伝されました。しかも、この錯覚は、その後も訂正されてはいません。この無反省が、日本にとって、とてつもなく高いものにつきました。 ズバリ言えば、この旅順奇襲は大失敗です。 クラウゼウィッツも断言しているように、戦争の勝敗は戦争目的を達成したかどうかによって決まります。この視点からみれば、戦闘の成否も同様です。 日本の旅順艦隊攻撃の目的は、旅順艦隊の殲滅にあります。断じて全減させなければなりません。これが戦闘の目的です。 それなのに何か。当時の状況をよく思い出して下さい。ロシア艦隊は旅順港外に碇泊していたのです!港内ではなしに。それに、念には念を入れるというか何というか。防雷網もつけずに!! しかも、日本のために神さまが念には念を入れて下さって、艦隊勤務の士官のほとんどはマリア祭という行事で長官夫人の誕生パーティーが行われており、艦に居なかったのです!!! これほどまでに日本に都合のいい偶然が重なるとは到底考えられません。きっと神さまが用意してくださったのでしょう。それなのに日本は、神の賜物を受け取りませんでした。 (中略) いやそれよりも、決定的に重大なことは、乃木大将の第三軍が、はじめから主戦場に用いられた。このことです。これは大きい。 日本軍が主戦場と無関係な旅順を何故攻めたかといいますと、バルチック艦隊が来る前に旅順を落として旅順艦隊から根拠地をうばうためです。その旅順艦隊が全減していれば、急いで旅順を落とす必要はありませんし、攻囲戦も必要でありません。乃木大将の第三軍は、はじめから、満州(現在の中国東北部)の主戦場に転用できたはずです。 そうすれば、これらの諸会戦における日本軍の勝利は、もっと確実で、もっと大きく、わが方の損害はずっと少なかったに違いありません。 さて以上論じてきたように、緒戦における旅順艦隊の全減は、かくほどまでに絶大な影響を日露戦争全般の戦局に及ぼすものです。 それなのに、なぜ、立つやたちまち旅順艦隊の殲滅ができなかったのでしよう。 水雷戦隊(水雷艇、駆逐艦)、これを後援する巡洋艦、戦艦。すべてをうって一丸となした決死の全力攻撃。すべてをここに集中した攻撃。なぜ、これをやらなかったのでしょう。 海上権力史論のマハンも言っているではありませんか。勝利の秘訣は、意志の集中、力(兵力)の集中にあり、と。 日露戦争緒戦において、日本はこの集中をしなかったのでした。魚雷攻撃こそ日本海軍の得意技であると日本人は思い込んでいました。 しかし、日清戦争のときにくらべ、日露戦争のとき、とくに緒戦の二月九日の奇襲攻撃は、まるでなっていなかったではありませんか。 日清戦争のときの日本海軍の魚雷攻撃は、瞠目しても足りないほどすばらしかったではありませんか。 水雷艇で戦艦を撃沈するというアイディアは、そのときまで無かったものでした。全く破天荒な戦闘です。 明治二十八年(一八九五)二月二日夜、骨を刺す寒気をおかして、日本の水雷艇は、威海衛軍港にいる清国北洋艦隊主力を攻撃したのでした。 豊島沖・黄海……と日本艦隊は勝利を重ねてきましたが、−丁汝昌提督の「定遠」はまだ沈んではいませんでした。「定遠」は、「鎮遠」とともに東洋最大の巨艦で、その巨砲は、わが海軍羨望の的でした。いくたびかの勝利に輝くわが海軍も、砲撃によってこれを沈めることはできませんでした。いや、逆に、「定遠」の巨砲によって、わが海軍だけでなく、百尺崖の戦いなどにおいて、わが陸軍までが、さんざん苦しみました。 その「……まだ沈まずや『定遠』は……」と軍歌にまでうたわれて人口に膾炙した「定遠」を、その根拠地威海衛軍港において攻撃し、これを撃沈しようというのです。 軍港内の敵戦艦を水雷艇が攻撃する! それまで誰も考えてもみなかった壮挙です。いや、壮挙というか無謀というか。何というか。 もちろん、生還を期す者なんか一人もいません。いるはずはありません。日本はハワイ真珠湾軍港の米戦艦を特殊潜航艇で攻撃しましたが、生還を期し得ないという理由で、これを特攻隊と名付けました。 パールハーバーの潜航艇攻撃が特攻隊ならば、威海衛軍港の水雷艇攻撃も特攻隊です。いや、水雷艇は水上で敵戦艦を攻撃するのですからその危険たるや水にもぐる潜航艇より大きいでしょう。特攻隊というべきか、スーパー特攻隊というべきか。 明治二十八年二月二日、闇に乗じて六号艇が防材を爆破しました。十隻の水雷艇が突破口から威海衛軍港に侵入しました。九号艇の発射した魚雷が「定遠」に命中し、ものすごい轟音とともに「定遠」は傾斜しはじめました。浸水はますます激しく、ついに沈没。 威海衛軍港にて清艦隊主力潰滅。日清戦争において敵艦隊に止めを刺したのは水雷戦隊でした。水雷艇による軍港内の敵戦艦攻撃。世界海戦史上、空前絶後の戦闘でして、威海衛軍港攻撃によって、日本水雷戦隊の名は世界にとどろきわたりました。 この日清戦争における水雷戦隊の大活躍にくらべ、日露戦争のときは、全くなっていなかったと言ったとて、言いすぎではありますまい。天与のチャンスたる緒戦の旅順港攻撃において、意志の集中、力の集中が、まるでなされていないのです。 開戦のとき、旅順口をめざして行ったのは第一、第二、第三駆逐隊の十隻だけでした。第四、第五駆逐隊は大連に向かっていました。ああ、何という兵力の分散。 もっと決定的であったのは、主力(戦艦隊)の用いかたです。 水雷戦隊(駆逐隊)が旅順港外の敵主力に必死の雷撃を敢行しているときに日本の主力はどこに居たのでしよう。ああ何と、旅順口から六十海里もはなれた海上を悠々と航行中であったのでありました。 連合艦隊司令長官東郷平八郎中将(当時)は、戦艦「三笠」「朝日」「富士」「八島」「敷島」「初瀬」装甲巡洋艦「出雲」「吾妻」「八雲」「常磐」「磐手」(「浅間」は仁川沖にいた)をひきいて旅順沖も、何と六十海里の海上にいたのでした。 もし、あのとき日本が、駆逐艦と水雷艇の全力をあげて旅順港外のロシア主力を雷撃していたら。 その直後に日本海軍の主力、六隻の戦艦、六隻の装甲巡洋艦がひかえていて、雷撃でひるんだ敵主力を急襲していたら。 ロシア旅順艦隊の主力、七隻の戦艦、六隻の装甲巡洋艦は全減していたでしょう。 何故、困難このうえない威海術水雷戦では大戦果をあげ世界に勇名をとどろかせ、神が与えたもうたようなチャンスがあった旅順水雷戦ではそれほどの戦果があげられずアメリカの戦史家の批判をあびるようにまでなったのでしょうか。よく反省する必要があります。 いや、日露戦争後、何故、旅順水雷戦不徹底の原因について徹底的反省がなされなかったのでしょうか。このこと、つまり「反省がなされなかった」ことについて反省がなされるべきであると思うのですが。 何故、威海術のときとはちがって、日露戦争開戦壁頭における水雷戦は不徹底なものであったのでしょう。このことの徹底的研究から大東亜戦争の真の敗因も発見されると思うのですが。 べつに、日本人の勇気が減退したからではありません。日露戦争における日本陸海軍将兵の勇敢さは世界の絶賛するところで、この点に関しては、一点の疑点もありません。 (P30〜P40) |
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