「このようにフランスの主権も仏印の領土保全も尊重することを約し、対支作戦のための暫定的なものでしかない〔北部仏印進駐のための〕日仏協定(後略)」(かっこ内、筆者注記)
(P543)
「仏印進駐と同じ昭和一五年の春、ノルウエーとデンマークが独軍に占領されるや、これら両国の属領たるアイスランドとグリーンランドがドイツの手に陥るのを予防するため、英国は機先を制して五月にまづ二万の兵力を以てアイスランドを占領し、同島のノルウエー自治政府はこれを承認した。我軍の北部仏印進駐の四ヶ月前のことであった。」
(P543)
「三国同盟を推進した当事者の動機と目的は何処にあったのか。当時首相であった近衛公の手記によれば
「……日米関係は悪化し、殊に支那事変以来両国国交は極度に行詰った。(中略)ここに於て唯一の打開策は独伊、更にソ連と結んで米国を反省させる外なくなった。即ち日独ソの連携も最後の狙ひは対米国交調整であり、その結果としての支那事変解決であった。余は対ソ警戒論者であった。対ソ接近を好まざる余が日独ソの連携に賛成したのは、これが米国との了解に達する唯一の途と者へられたのみならず、ソ連の危険は日独が東西よりソ連を牽制することで緩和し得ると信じたからである」(前掲『平和への努力』)
三国同盟に踏み切った我国当事者の真意はほぼここに尽くされていると思はれる。」
(P558)
「戦後、三国同盟の推進者としての松岡に対しては仮借ない批判が浴びせられてきたが、かれの真意図はあくまでも米国を説いて支那事変を終局せしむる点にあった。
(中略)
事変解決の条件としては満州国の承認と冀東地区の中立化だけとし、ただこれだけの約束で日本は支那と仏印から一兵も残さず撤兵する−これが松岡の東亜和平の構想であった。(岡村二一「回想の松岡洋右」『正論』昭和五十二年一月号所収
(中略)
「結果から見れば松岡は誤算を犯したことになる。だが、我方の宥和政策を以てしても、或いは三国同盟を含む松岡の和平構想を以てしても何ら反省も改善も見られなかった硬直した米極東政策は、歴史の大局から見て正しかったと云へるだろうか。誤算をしたのは松岡だったのか、それとも米国だったのか。」
(P558〜559)
「三国同盟が論議された頃、ドイツ不信感、対米衝突を危惧する意見などが一部にあったことは事実だが、それらは近衛の指摘する通り、ドイツの敗退を科学的根拠により予想せる先見の明に基づく冷静な判断とは云ひ難く、国際的な政治力学による三国同盟論に対抗するだけの力はなかったのである。」
(P559)
「米国が三国同盟を故意に曲解したとは云はぬ迄も、同盟についての認識が甚しく不十分であり、かつ同盟の真意を正しく理解するための誠実な努力を怠つたことは争はれぬであろう。」
(P561)
「当時、仏印の本国たるフランスはドイツに降伏し、フランスの二つの政権のうちドゴール政権は英国にあったのであるから、ドゴールが仏印の管理を英米に依頼する可能性は十分にあった。即ち米英側が先手を打って仏印を占領しないという保障はどこにもなかったのである。」
(P572)
「乙案は甲案不成立の場合、事端の発するのを未然に防ぐための暫定協定案で、日米の通商関係を資産凍結前の状態に復帰させることを条件に、南部仏印の日本軍を北部仏印に移駐すること、また日支和平が成立するか太平洋地域に公正な平和が確立する上は日本軍を仏印から撤退することを約束するもので、要するに南部仏印進駐以来、日米関係の悪化した経緯に照して、取敢へず事態を南部仏印進駐以前の状態に復帰させようとする案であった。」
(P600)
「翌二十一日、来栖大使はハルに単独会見し、三国同盟には何の秘密条約も存在しないこと、また米国の対独参戦についての解釈は日本が自主的に行い、他の締約国の解釈に拘束されるものではないことを説明した無署名の書簡を提示し、これによって日米交渉が促進されるものとハル長官が認めるなら、大使は即座に署名して長官に手交することを申し出た。
だがハルはこれさへ握りつぶした(来栖『日米外交秘話』及び『泡沫の三十五年』)。来栖は三国条約の調印者だ。その書簡を米国が公表すれば、三国同盟は即刻一片の死文と化した筈である。」
(P602)
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