「大東亜戦争への道」中村 粲 展転社 

 中村 粲 Nakamura,Akira(1934.4.24) 獨協大学・外国語学部・英語学科・教授

  [歴]東京大学・文学部・英吉利文学科
  [会]軍事史学会, 明治聖徳記念学会, 東大英文学会
  [研]東亜戦争研究
  [業]"大東亜戦争への道"展転社(1990)
     "大東亜戦争はなぜ起ったのか"日本政策研究センター(1991)
     "日本弁護論"研究社出版株式会社(1976)

  (電気・電子情報学術振興財団編『研究者・研究課題総覧(1996年版)』紀伊国屋書店 第1分冊 P787)

「 支那に於ては、支配者は戦争に敗れると自分の国も民も棄てて遁走する慣はしがある。柳条溝事件の際も、遼寧省は東北政権首脳が全部逃亡したため、治安維持のため遼寧省治安維持会が生れ、袁金凱が長に就き、于沖漢らがこれを補佐することになった。王永江、衰金鎧、于沖漢は満洲文治派の指導者であった。

 東京裁判での片倉衷(事変当時関東軍幕僚付、十月に関東軍参謀)の証言によれば、右治安維持会に若干の日本人が維持会側の希望により顧問として入った事実はあるものの、関東軍は一切関係しなかった。
実際、日本政府も参謀本部も満洲独立運動に声援を与へたことはなく、それどころか幣原外相及び南陸相は九月二十六日付で「日本人の満洲に於ける新政権樹立運動に関与することを厳禁する訓令」を発したほどであった。 かういふ訓令に従って日本の文武官憲は独立運動との関係を避けたものの、満洲独立運動が支那人、満洲人、蒙古人の問に確立されるに至って日本側はこれを無視できなくなったのである。
 (中略)
 一九二〇年代、満洲の民は張作霧・学良父子二代に亙る秕政と苛斂誅求によって坤吟のどん底に喘ぎ続けた。彼等奉天軍閥は兵を養ひ、戦争を起すために不換紙幣の奉天票を乱発し、税金は数年先まで前払ひさせる程の暴政であった。満洲事変当時、張学良政権の軍事費たる、実に国家予算の八五パーセントに上ってゐたことはリットン報告書も承認する事実だった。彼等が満洲人の怨嵯の的になったのも当然だった。
 張軍閥の圧政を憎む満洲文治派の知識人達は、中国本部の戦乱から満洲の平和安全をまもる「保境安民」運動を起し、広く満洲住民の共感を得たが、この運動の行きつく先は必然的に満洲独立であった。満洲を独立国家とすることは満州人の念願だつたのである。それ故にこそ、事変勃発勃発直後の九月二十四日、袁金凱は遼寧省に二十六日煕洽は吉林省に二十七日張景恵らは特別行政区に二十九日湯玉麟は熱河省に于し山は東辺道に、更に十月一日張海鵬はとう南にそれぞれ独立を宣言したのである。
 このやうな短期間にかくも多数の独立宣言が出されることは、事件以前に独立への機運と素地がなければ到底不可能である。
 (中略)
「以上の考察により、満州各地の独立運動が整備されていくと共に、関東軍がそれらの指導者と連絡を図ったことはあったにしても、独立運動そのものは何ら日本側の工作によるものにはあらずして、満州民族の内発的な動きと意志の表明であったことが明かであらう。
 (P312〜313 JISコードに無い漢字はひらがなに改めた。以下同様)



 「因に当時、蘭印全産油量の七四パーセントは英国系資本が、残余の二六パーセントを米国系資本が支配してゐた。」

 (中略)

オランダ側は欧洲大戦に於ける英国の最終的勝利を信じて居り、また米国依存の念が強く、米国の力で日本を牽制せんとして、米・英・豪の共同防衛にも秘密裡に参加してゐた。それ故、米英が健在である限り、蘭印には日本との会商を成功させる意思はなかったのである。されば〔1940年〕九月の三国同盟成立以後は、蘭印は殊更に我国を猜疑し、加へて米英の妨害や圧力もあり、日蘭石油交渉は暗礁に乗上げ、十一月末日、小林使節は日本へ召還されたのであった。

 (中略)

「 蘭印側は、日本側の石油・ゴム・錫等の戦略物資の輸入要求は対独再輸出のためであると猜疑した。これに対して我方は、日本の国土狭小と支那事変の二点を要求の理由として挙げ、将来の衝突を避けるため協調的態度を求めたが、オランダ側は、いざとなれば対日一戦も辞さぬと大見得を切り、頑な態度を変へようとしなかった(板垣前掲論文)。
 (P548)

 大東亜戦争への道 中村粲 2へ続く



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