
五月の朝。ぼくは気持ちよくめざめた。
うーん、と、のびをする。
ベッドをおりたら、木の床は、しっとりとつめたくて、なんだか足が重い。
昨日の体育で、たくさん走ったせいかな。
居間で、パパとママがテレビを見ていた。
吹雪みたいなテレビ画面だ。
ザーザー音のあいまに、アナウンサーの声がきこえる。
「ザー、この異常気象は、ザザー、かげろう水とよばれてザザー、世界中でおきています」
ママが、ふりかえってぼくを見た。
「カイト、今日は、かげろう水だから、学校お休みですって。よかったわね」
「えっ、お休み? かげろう水ってなに?」
パパもぼくを見た。
こまったような顔だ。
「会社も休みだ。車も電車も動かないなんて、とんでもない異常気象だ。テレビの電波がみだれてるのも、そのせいだ」
車も電車も動かない?
どういうことだろう。
百匹の猫がひっかいたみたいなテレビ画面を、ぼくはしんけんに見つめた。
アナウンサーが、マイクにさけんでいる。
「ザサー、地球の近くを通った彗星が、ザザザ、地上の水をひきよせて、ザザー、水の分子がザザー、異常な動きを、ザザー」
猫のつめあとの下に見えたのは、飛行場を飛び立てない飛行機に、車のない道路。
飛行場で働く人たちは、月面の宇宙飛行士みたいに、よらりよらりと、重たそうに歩いている。
ああ、だからおきた時、足が重かったんだ。こしまで水につかって、プールを歩くみたいだったもの。
ぼくは、おおきく息をすってみた。
ゼリーみたいな空気が、のどから胸に、ひんやりひろがった。
なんていい香り。森の香りかな。
両手をひろげて、鳥みたいに、ばたばたさせた。わっ、なにこれ。すこし体がうかんだ。
目の前の空気が、ゆらゆら、ゆれている。
パパが説明してくれた。
「彗星に水がひっぱられたから、空気ぜんたいに水の分子がうかんで、かげろうみたいにゆれているんだ。だから、かげろう水」
「かげろうって?」
「夏のアスファルトの上で、空気がゆれるのを見たことがないかい? あれがかげろうだ」
かげろう水か。ふしぎだな。
「ママは、かげろう水、好きだわ。おきたときから、お肌がぷるんぷるん。赤ちゃんのほっぺみたい。ほら、すてきでしょ」
ほおに両手をあてて、まんぞくそうにママが言った。
「水という水が、いきいきと動いているそうだ。体の中にも水がある。その水の分子が、ひとつひとつ、元気になっているんだ」
パパは、首をコキコキと、気持ちよさそうにまわして、うっとりと目を細めた。
テレビの声が言った。
「ザザ、人間の体の六十パーセントは水分、ザー、病気の人もザザー元気になってザザ」
ふーん、そうなのか。
そういえば、画面の中の人たちは、みんなにこにこしている。
「パパ、外に出てみようよ」
ぼくは服をきがえ、パパといっしょに、よらーりよらりと、家の外に出た。
外のかげろう水は、家の中より重かった。
道路には、車がいない。
うれしくて走りだしたけど、ぜんぜん進まなかった。
地面をけると、ふわりと体がうかんで、一歩で、かるく1メートルは進める。
うん、これはいいや。
のら猫が、よらりよらりと、ぼくの横をとおりすぎた。
スズメが電線にしがみついていた。
ずっと空高くを、飛んでる鳥もいる。
空を見上げて、パパが言った。
「地面に近いほど、かげろう水が濃いんだ。高いところは、かげろう水がうすくて、カラスやトンビには、飛びやすいんだろう」
ぼくのおへその前を、すいすいっと、とおりすぎたものがいた。
「わっ、パパ、魚だよ!」
川の魚が、空中を泳いでいたんだ。
「かげろう水は、やっぱり水なんだな」
なっとくしたように、パパが言った。
こんどは、川ガニが泳いでいった。
「パパ、海べだと、イルカやクジラも空中にいるのかな。そうだ、川はどうなってるの?」
「よし、カイト、川に行ってみよう」
ぼくたちは、近くの川へ歩いて行った。
ドブ川が、すきとおっていた。
流れがゆらめいて、魚が見える。
ドブ川にも、魚はいたんだ。
流れに手をさしいれて、パパが言った。
「かげろう水と太陽の光が反応して、よごれが分解されたって、テレビで言っていたな」
ぼくも手をつっこんだ。
でも、どこまでが空気で、どこからが川なのか、わからない。空気と水のさかい目が、水面が、見えないんだ。
「底の方は、ぐっとつめたいね。いちばん底は、ふつうの水じゃない?」
でも、水から手をぬいたら、手はかわいていた。水ぜんぶが、かげろう水になっているんだ。
パパが、むねをはって深呼吸している。
「うまれかわったみたいに、いい気分だな。朝ご飯を食べてないのに、お腹もすかない」
「うん、気持ちいいね」
ぼくも、パパといっしょに、深呼吸した。
「ぺぺっ、なんだこれ!」
息をすったら、口の中に小魚が入ってきて、ぬけた前歯のすきまから、ぴちぴちとまた出て行った。
あっはっはと、パパが笑った。
「そうか、川や海のプランクトンをすいこんでるから、お腹がすかないんだ」
「プランクトン?」
「ああ、この空気を顕微鏡で見たら、ミジンコやカニの赤ちゃんが見えるさ」
家に帰ったら、ママはテレビにくぎづけだった。事件があると、いつもこうだ。
事件のことは、ママに聞け。
「ママ、かげろう水は、いつまで続くの?」
「夕方になればもとにもどるって。地球のうらがわでは、もう、もどりはじめているの」
なんだ、残念だな。
ぼくは、かげろう水でもっと遊びたくて、また外に出た。
道路や空き地に、子どもがいっぱいいた。遊んだことのない子もいた。
なんだか体がむずむずして、ぼくたちは一日中、きゃっきゃっとじゃれあって遊んだ。
かげろう水を泳いだり、ばくてんや、ばくちゅうをした。
どの子もみんなできたんだ。
サッカーボールをけったら、よらよらと動いて、ちっとも飛ばない。
ボールを手わたしたほうが早いから、サッカーがラグビーになった。
テレビゲームをしないで、こんなに外であそんだのは、もしかしてはじめてだ。
夕方になると、鳥たちは、いつもの高さを飛ぶようになった。
もう、魚は空中を泳いでいない。
なごりおしそうにパパが言った。
「カイト、川のかげろう水は濃かったから、まだあるかもしれない。川に行ってみよう」
ぼくたちはまた、川にでかけた。
まだ、空気と水のさかいめは見えなかった。
「もうすぐ、水面が見えるようになるのかな」
ぼくとパパは、川をみつめた。魚たちは、川の中を気持ちよさそうに泳いでいる。
西の空が赤くそまってきた。大きなお日さまが、山のかげにしずんでいった。
まだ、空は明るい。
ぼくたちは、じっと水を見つめた。
川のまんなかに、細い線がひかれたように見えた。
そしてそこから、すうううっと、水面がひろがっていった。
「パパ、かげろう水が消えたね」
「ああ、消えたな」
なんだか、さみしかった。
川の水は、まだすきとおっている。
川のまわりに、空き缶やペットボトルが落ちていた。
パパが、足もとの空き缶をひろった。
「きれいな川に、ゴミは似合わないな。にごっているときには、気にならなかったのに」
「かげろう水が消えたから、またドブ川にもどるのかな。このままでいてほしいよね」
ぼくもペットボトルをひろった。
そのとき、目の前で、ゆらゆらと動きだしたものがあった。
虫? 何匹もいる。
夕暮れの空を、上になったり下になったり。
まるで、おどっているみたい。
すきとおった羽。みずみずしく緑がかった細い体。体より長い二本の尾。
童話に出てくる妖精みたいだ。
パパが、目をみはった。
「カゲロウだ。きれいな川にしかいない種類だ。この川に、こんなカゲロウがいるなんて」
「この虫、かげろう水の、わすれものじゃないの?」
ぼくは笑って、パパを見上げた。
