『忘れえぬ炎』/言葉にならない思い


       『言葉にならない思い』
                                    槙乃

  不意に起きた風が、彼女の長い髪をかき乱す。   パラパラと、真っ白な頁が流されていった。   思わぬ乱入者に彼女は深い溜息をつき、手を止める。  「何か、書いていたの? エファ。」  「え?」   振り向いた肩越しに、青年の後ろ姿が見えた。   その広い背に、金の髪に、降り注ぐ幾つもの木漏れ陽。   −彼には見えないはず、なのに...   疑問は、かすかな痛みを伴った。風化する事のない過去の悔い。彼から光を奪う  こととなった、一連の事件が脳裏に蘇ってくる。   だがそうした痛みも、彼の明るい声の中に消えていく気がした。  「だって、ペンを走らす音が聞こえていたからね。耳はいいんだよ、僕。」   エファは頬に触れてくるものをそっと払った。涙? いや違う。指先をすり抜け  ていくのは、茶褐色の髪。それはたしかに自分の髪だ。なのに時折、不思議な感覚  に捕らわれる。   何故、様々な色に染められていないのだろう。   何故、ユーモラスな髪型になっていないのだろう。   何故……   そう、道化のように。あの頃のように。   彼女は静かに日記を閉じた。  「ちょっと、思い出していたの。あの旅を。」    「鏡面の星精霊」  その男性(ヒト)は、星の光にも似た輝きを身に帯びていた。   繊細な工芸品にも似た銀の髪。凍てついた星の瞳。その肌は、透き通るかのよう  に白かった。人ではない。唯人に、この美しさを担えるとは思えない。  「奇麗…」   ふと、口をついて出た言葉。それは賞賛や、追従から生まれたものでは無かった。  もっと純粋な衝動。それは感動という名を持っていた。  「私など、その言葉に値しないでしょう。」   美しいが、感情のこもらぬ声が彼女に答える。   白い指先が、そっと傍らに差し延べられた。   その動きを追うエファの目に、小さな花弁が映る。普段なら多分見落としてしま  うだろう。それくらい小さな、目立たない花だった。  「この花が咲くのは、わずか一晩。この深い森の中、誰が愛でる訳でもなくその命  を終えます。それでも次代へ命を繋ぐ為、この花は咲き、実をつけるのです。この  生命の美しさに比べたら、姿の美醜など二次的なものではないでしょうか。」  「それでも…」   どう続けたらいいのだろう。エファは思わず唇を噛む。   気持ちを伝える手段として、言葉がいかに不確かな方法かと痛感してしまう。   まるで数百年の時を重ねた大樹に向かい、語ろうと努力しているかのようだった。  移りゆく時代を見続けてきてなお、静かなその瞳。他を圧する存在感に、自分など  ひどく矮小なものに感じてくる。   でも敢えて僅かな勇気を掻き集め、彼に問いかけた。  「命が美しいと言うのなら。あなたも、この地に生まれた美しい生命の一つに違い  ないでしょう? 妖精さん。」   彼の口元に笑みが浮かんだと思ったのは、気のせいだったろうか。  「…そして一瞬とも見える人生を懸命に生きる、貴女も。人の子よ。」   焚き火の中へ、彼は薪を投げ入れた。ぱっと火の粉が舞い、すぐ静かになる。炎  の影を映す瞳からは、感情の片鱗さえ読み取る事は出来ない。  「私の名を人の子が発音することは出来ません。でも最も近い言葉で表すなら、ア  ルセスィス。アルセスィス・フィリエ・エルダ、星の精霊。風の神ザリが、私を此  の地まで導きました。」   彼が顔を上げた。紛れもない微笑がそこにあった。  「何故でしょう、エファ。貴方と話すのが楽しい。もしかしたら貴女こそ私が待っ  ていた人なのかもしれません。」    「火中の児」   暗い炎(ほむら)が、青年の横顔を赤く彩った。   一瞬にして燃え尽きた書物は、灰となって彼の手から崩れ落ちる。   未知の文字により綴られた英知。その残骸を一瞥し、彼は冷ややかにつぶやいた。  「これは呪われしもの、忌むべきもの。西方大書庫司書官ドゥアゼン・レ・メルウェ  として、このようなものを放置しておく訳にいかない。」  「何も、燃やすことは...」  「これは、人外の手により記されたものです。残しておけば、必ずや災いの元とな  る事でしょう。」  「人のものではないから? 理解できないものだから? そうやって消し去るのが  本当に良い事なの?」   決して、責めるつもりで言ったのではなかった。司書官という知識を守るべき立  場の人物が、ここまで過激な行動に出る理由が分からなかったのだ。   だがその時、彼の目に浮かんだ悲痛の色。憎悪。苦痛。悲哀。様々な感情が複雑  に入り交じっていた。その激しさに、エファは息を飲む。  「あなたは、何も知らないからっ…!」   指先が血の気を失う程強く、彼は両手を握りしめていた。   たしかに、自分は何一つ知らない。彼の過去も、その身に受けた傷も。体だけで  はなく心にも残るそれは、今も新たな血を流し続けているのかもしれない。  「でも、ドゥーゼン。私はあなたの力になりたい。そう願っては駄目?」   憎しみを忘れて欲しい。口でそう言うのは簡単だ。痛みの大きさは、その傷の深  さは、受けた本人にしか分からないものなのだから。その全てを理解したい、出来  ると信じ込むのは、思い上がりなのかもしれなかった。単なる同情では、さらに相  手を傷つける結果に終わるだろう。   でも、彼の力になりたい。そう思っているのも事実なのだ。   彼、ドゥーゼンを動揺させた一冊の書物。今は灰となってしまったそれに、エファ  は視線を落とした。  「その為にも敵の事を知りたい。彼らの思想を、その歴史を。彼らと解り合える、  なんて期待してはいないわ。でも残された文献を見る事で、彼らが持つ残虐さの訳  を掴めるかもしれない。たとえ、ほんの少しでも。そう思うの。」   彼は表情を強張らせた。視線を外し、彼女から背を向けてしまう。   余計な事を言ってしまったのだろうか。不安が、エファの胸をよぎった。  「探索の件、公王様から聞いております。」   手にしていた本を、彼は棚に戻す。それは上質の皮が張られ、豪華な装丁が施さ  れた厚い本だった。彼はその行為を冷静に行おうとして、果たせなかったようだ。  固い表紙が木の棚に当たり、重たげな音を辺りに響かせた。   ゆっくりと、彼がエファの方に振り返る。   一時的にせよ感情を爆発させた事に、ばつの悪い思いをしているらしい。どう声  をかけたらよいか迷っている。そんな時の彼は、年相応の青年に見えた。  「…もし私に出来る事があれば、喜んでお手伝いしましょう。エファ公女。」    「甘香実」   ふわり、と甘い芳香が大気に溶け込んだ。  「あなた、旅をしているんでしょう?」   妖艶な花。無邪気な果実。そのどちらをも含む不思議な香りだった。   何の香水だろう。目の前の女性から、ほのかに香ってくる。   彼女の手首に巻かれた鈴が、絶え間なく透んだ音をたてていた。  「わたくしも、連れていってくださらない?」   招くかのような腕の動き。纏っていた紗(うすぎぬ)が風に翻る。その様は、蜻  蛉(カゲロウ)が半透明の羽を広げるかのようだった。揺れる長い髪はベールとなっ  て自らを取り巻き、濡れたような艶を放っている。   いきなり声をかけられ、エファは戸惑った。  「どうして、旅人だとわかるの?」   軽やかに踊る細い足。音楽と共に、舞姫は再びエファの側に降り立った。   観客の間から、羨望の溜息がもれた。その美貌に。その優美さに。  「あら、道化は旅から旅へと渡り歩くものでしょ。それに...」  「それに?」  「せっかくの祭りの日なのに、晴れ着を着ていないもの。」   舞姫の華やかな笑いが弾ける。  「さっき、怪しげな男に何かを売りつけられそうになっていなかった? あれは、  唯の水。そんな調子では、良いカモにされてよ。」   見ていたのか。いつそんな余裕があったのだろう。今日彼女は朝からずっと、こ  の広場で踊っていたというのに。   美しい舞姫。もしかしたらそれは、彼女のほんの一面にすぎないのかもしれない。  そんな女性が何故自分に興味を持ち、声をかけてきたのか。   好奇心が芽生えてきた。   「シジュール・ノネスティン。」誰かが親愛の情を込めて、彼女の名を呼んだ。   声のした方に向かって、シジュールは笑顔を振りまく。だがそんな彼女の仕草に、  微かな違和感をエファは感じる。観客に微笑む迄の、一瞬の空白。側に居なければ  気付かなかったろう、彼女の顔を過ぎったものに。   彼女は本心から笑っていない。そんな気がしてならなかった。  「あっと、今日は先約があるから、仲間になるのはその後でね。」  「先約って、誰と...」   深紅の宝石のように染められた美しい爪。その指先が、遥か中空に向けて捧げら  れた。まるで、祈りのごとく。   ひときわ高らかに、鈴が鳴り響いた。   風に踊らせた絹を再び我が身に纏い、彼女は天に向かって優雅に一礼した。   エファに軽くウィンクをして見せる。  「これがわたくしの仕事ですもの。仕事はちゃんとしなくてはね。」    「木陰に憩う飛竜」   薄明かりの中、一人の男性が静かに座っていた。   瞑想のように閉じられた両眼。独房の壁に軽く寄りかかった姿は、眠っているか  のように穏やかだった。まだ若い。女性的とも言える柔和な顔立ちをしていた。体  格は中肉中背といったところ。髪や肌の色も標準的なストラディウム人と変わらず、  特に人目を引く訳ではない。   その姿から天才的な戦術家を思い描くのは難しかった。  「もう、処刑の時間かい?」   足音に気付いたのか、彼が口を開いた。目は、変わらず伏せたままだ。  「死ぬのは、やっぱり怖いね。でも僕が戦った事で、父や友人達をこの恐怖から遠  ざけられたのかもしれない。…そう思えば少しは気が楽になるかな。」  「ディアリムイ・ベミオク将軍。私は看守ではありません。」   彼の目が開き、初めてこちらを見た。   エファは鍵束を探り、鉄格子に掛けられた錠を外す。鍵束の元所有者には当然、  監視室でお休みいただいている。無理矢理に、だが。  「さあ今のうちに早く、脱出を。」  「君は、誰?」  「ストラディウムの者です。」  「では、公王様の...」   そう呟いたきり、彼は動こうとしなかった。  「どうしたのですか。」  「僕に、君の手を取る資格があるだろうか。オルフ、そしてサカリアでの会戦。自  分の故郷を守る為とはいえ、あまりにも多くの血を流してしまった。それも、同族  の血を、だ。」  「ではこのまま裏切り者の汚名を着て、大人しく処刑されるつもりなの?」  「…僕は、そこまで強い人間じゃない。」   有無を言わさず、エファは彼を牢から引っ張りだした。自分より年若い少女の強  引な行動に、彼はびっくりしているようだった。なめてもらっては困る。これでも、  かなり修羅場をくぐり抜けて来たのだ。  「誰にだって、大切なものがある。それを守りたいと思うのは当然の事だわ。ねえ、  将軍。過去を悔やむのは何時だって出来るでしょう? でもね、ストラディウムは  崩壊の危機にあるの。公王の座をめぐる内乱、その後ろには、さらに大きな影を感  じられるわ。これを防ぐには、今行動を起こさなければならないのよ。」  「僕に、その手伝いをしろと?」   エファはうなずいた。  「ストラディウムの『人間族の大門』が破られる時は、あなたの故郷も失われるの  よ。それは、あなたの望むところではないはず。」   彼はようやく最後の迷いを断ち切ったようだった。  「この先に隠し通路がある。こっちだ。」   先導するように、彼は先に立って歩きだした。  「あの水路を見つけた時、僅かな希望を抱いて手紙を流した。楽観は、していなか  ったよ。でもどうやら最高の救出者が、僕を迎えに来てくれたようだね。」   肩にかかる重みで、エファは彼が眠ってしまったのに気付いた。   穏やかな風が、木々の葉を優しく撫でていく。   静かな午後だった。   首都ストラディウム第五層。彼女達がいる場所からは、城に続く街路が良く見渡  せる。時折、蹄の音が石畳の上を走り抜けていった。城へ向かう伝令だろう。まだ  各地には戦火の跡が色濃く残り、時折敵勢力の残党との小競り合いが続いていると  聞く。   まだ、あの苦難に満ちた探索の日々は遠い昔の事ではないのだ。  「あれは...」   伝令とすれ違うように、城門から歩み出てくる人物がいた。   その華奢な姿にエファの目は引きつけられる。   落ち着いた深緑のドレスは、町娘が着るようなシンプルな型のものだった。服よ  り明るめな同系色のリボン。両袖に編み込まれたそれが、唯一の飾りになっている。  上質だが華美に走らない衣装は、その女性の人柄を表しているかのようだった。   同時に服の深い色合いは、赤褐色の緩やかな巻き毛を一層引き立てている。   彼女の両腕には、溢れるばかりの花々が抱(いだ)かれていた。白い、白い花だ。  「アステノリエ様...」   この位置からでは遠すぎて、公女の表情までは判らない。   『彼方の礎』と賞賛され、公王に次ぎ最も人々の尊敬を集めているアレル家後継  者。供一人連れる事なく、その姿は城下に続く門の奥へと消えていった。  「いったい、何処へ...?」  「墓参りですよ。」   突然、声が降ってきた。エファは反射的に顔を上げる。   見覚えのある笑顔が彼女を迎えた。  「......ト...ルホ、さん。」  「お久しぶりですね。エファさん。」  「...又、そのような格好を...ここで何をなさっているのですか。」  「まあまあ。気にしないように。」   彼女の詰問を遮るように軽く手を振り、彼は隣りに腰を降ろしてきた。   エファは彼をさらに問いつめようとして、止めた。他人に言われなくても、この  人は十分責任を持って行動している。その事を良く知っているからだった。まあ、  町で盗み食いの噂を聞く度に、その確信が揺らぐのも確かだが。   彼女のそんな葛藤も知らぬげに、トルホと呼ばれた青年は話しを続ける。  「あの方は月に一度は、花を持って出かけられていますね。」  「どなたの墓参りに行っているのですか?」  「知りたい? 後悔しない?」  「え? ええ。」   彼はひそひそと耳打ちした。  「オスレヴェーグ公王。」  「...怒りますよ。」   棘のある口調に眠りを破られたのか、夢現のまま側の人物が身じろぐ。   思わず、エファとトルホは目で合図し合った。彼を起こさないようにしよう。期  せずして二人の意見は一致する。   再び、安らかな寝息が聞こえてきた。  「アステノリエ公女は、町外れの墓地へ花を捧げにいっているのですよ。」   眠り人を考慮し、幾分声を押さえてトルホが言った。  「町外れというと...」  「あの戦争で、亡くなった兵士達の墓です。配下の少年兵からは、母のように慕わ  れていましたからね、あの方は。公女自身も、彼らを家族のように思っていたんで  しょう。」  アレル家一族とアステノリエ公女の間には、埋めようもない溝がある。   以前そんな噂を耳にしたことがあった。   それを裏付けるかのように、公女は生家に戻ることが無かった。戦争が終息に向  かいつつある今も、元帥達の為に用意された城の一室で生活しているという。   ふと、エファは自分の家族の事を考える。   長い旅の間、滅多には会えなかった。けれど何時でも暖かく迎えてくれた両親や  姉。改めて、自分は幸せな環境だったと感じる。長い放浪の日々も、帰れる場所が  あったからこそ耐えられたのだと思う。でも、あの人は…  「あの方は軍という組織の中に、今まで得られなかった肉親の絆を見いだそうとし  ているのでしょうね。」   エファの思いを汲み取るかのように、トルホがそう言う。   彼女は改めて青年の顔を見直した。   この人は、公女の事を良く見ている。理解しようとしている。あの誇り高い女性  は、きっと自分の弱さを自ら明かす事はないだろう。かえって胸の奥底に封じ込め  ようとしているのではないだろうか。けれど、それはとても辛く、悲しいことだ。  「あなたが、支え手になれば良いのに。」   彼は驚いた表情をした。やがてそれは、淋しげな笑顔に変わる。  「私なんて、あの方の眼中にありませんよ。」  「そんな事、ないわ。」   話を打ち切るように、彼は立ち上がった。幾分傾いた日差しがその姿を包み込む。  陽光の冠。その輝きは目に見えぬ者の加護のようにも見え、又、彼の孤独さを表す  象徴にも思えた。彼の、もうひとつの姿が持つ枷を。  「つい、長居をしてしまいました。それじゃエファさん、また。」  「オ......」   言いかけた言葉を、彼女は飲み込んだ。   わかっている。これは他人が口出しする問題ではない。   彼女は2人が好きだった。彼らの立場を、苦悩を知るほど、その思いは強くなっ  ていった。どうか幸せになって欲しい、そう願わずにはいられない。   でもそれは、自分の一方的な我が儘を押し付けているだけなのかもしれなかった。  「...今、誰かいたの?」   眠たげな青年の声が、彼女を現実に引き戻す。  「ううん。何でもないわ。」   多分、言えない。たとえ彼であっても、自分の中にある未整理の感情を打ち明け  る気にはなれなかった。どう言葉にしたら良いか、わからないといった方が正しい  かもしれない。思いだけが、溢れるばかりに渦を巻いている。   不意に、思い当たる。あの人の沈黙の理由を。それは今の自分の迷いに似ていた  のではないだろうか。   彼らには彼らの過去があり、今の思いがある。どんなに親しくなろうと、踏み込  んではならない領域が存在するのだ。それを寂しいと思うのは、感傷に過ぎないの  かもしれなかった。   彼女は目を閉じ、祈った。風の神ザリに。名を与えられし者、名も無き者、この  世界に存在する、全ての神に対して。   何を願っての祈りなのか、自分にもわからなかった。出会い、そして去っていった  人々の顔が幾つも胸に浮かんでは消えていった。   風がストラディウムを通り過ぎていった。神託でも啓示でもなく、ただ、静かに。   遠く、深い空の色。彼方の青さを、エファは何時までも見上げていた。                                      槙乃

[謝辞]
この作品は、林蔵がとても気に入っているユルセルームの小説で、作者の槙乃さ
んの許可を得て、@niftyのFCGAMERの第6会議室#1033の発言を転載したものです。
著作権は槙乃さん御本人に所属します。
転載の御許可を頂いた槙乃さんに心から感謝致します。
                                  林蔵