ローズ・トゥ・ロード小説/『七つの想い』
『七つの想い』
林蔵
0.ファライゾン
その日、目覚めたときに、三つの想いがあった。
彼女の名はエマット。
それは自分に向けられたものなのか、それとも自分が感じたものなのか、彼女
にはわからなかった。
誰かをとても大切に思っている…「慈しみ」
誰かをとても愛している…「愛しさ」
誰が愛しいのか、誰を慈しむのか、それはわかる。愛しいのはエンダリューン
だ。慈しみは彼への想い。
なのに何かがとても悲しい…「悲しみ」
なぜ悲しいのか、どうしてもわからない。自分が悲しいはずはない。すると…
悲しんでいるのはエンダリューンなのか。
ファラノウムのエンダリューンは彫刻の天才と呼ばれていた。
八年前まではそうあったのである。彼がその師と、恋人と、右腕を失う前には。
今では彼の名を思い出すものもそう多くはない。
ユルセルームは七柱のスィーの神々、スィーラによって守護されている。そし
てそのうちデュールを除く六柱を祭る祝祭日が毎年祝われる。早春、年の始めの
イーヴォ祝祭日から、冬の最も寒さの厳しい頃に行われるアウル祝祭日までの六
日と、薄緑の月の蒔種祭、紫赤の月の収穫祭、これが常の年の祝祭日の全てであ
る。それに加えて四年に一度、閏年には、『デュールの厄日』がおかれる。他の
神々と袂を分かったとされる最後の一柱にして最も力持つ神、デュールに捧げら
れた一日として。
古の都、ファライゾンの首都ファラノウムは芸術の都としても名高い。それぞ
れの祝祭日には、各所で様々な展覧会が行われている。
ファラノウムの芸術院が主催する美術展は、その中でも最高の権威を持つもの
だ。公募された作品は、専門の教授や著明な工匠達の厳しい審査の元で選り抜か
れ、少数の作品のみが芸術院のホールを解放して展示される。
赤黄の月。夏の激しい熱さがようやく衰えを見せるころ。次の美術展はガルパ
ニ祝祭日。力と大地をしろしめす神を祭る祝日に、彫刻家達が技を競う展覧会が
開かれる予定だった。
今年の話題は、師匠の死の直前にファラノウムを去った彫刻家、ナーファルの
作品が出品されるという噂である。
八年前、芸術の都でもひときわ高い名声を誇った彫刻家にエスヴァーンがいた。
彼の名声はファライゾンのみならず、ユルセルーム全土に及び、祭壇を、城門を、
居室を彼の彫刻で飾りたいという希望は途切れることが無かった。
名声は彼が作り上げたものであったが、彼の二人の弟子、エンダリューンとナ
ーファルがそれに花を添えた。気難しく、ほとんど弟子を取らないことで有名で
あったエスヴァーン自ら、この二人の弟子がいずれは自分を凌ぎ、ユルセルーム
最高の彫刻家となることを公言していた。
最初の弟子”輝く富”ナーファルは、その名(それはこの地の言葉=ノルダレ
アで「装身具」を表した)に反して、人物や歴史的題材、果ては建築物など、大
規模な作品が得意であった。その作品は精巧を極め、彼の作る人物は魔物の視線
によって石に変えられたかのようであり、その『凍り付いたような』姿は観るも
のに美しさとともに畏怖の想いすら抱かせるのだった。
二番目の弟子、”命を彫る”エンダリューンの作品は、『魂を持つ』と言われ
た。彼の作品にはとりわけ小動物が多かった。描写の精緻さもさることながら、
しかしその本質は作品へ込められた暖かな想いであり、それは見る者に伝わり、
広く愛された。彼の作品の中でも特に良い出来の物は命の輝きを得て動き出すと
さえ言われたのである。
「…で、そのナーファルと言う人の彫刻を見るのをみんな楽しみにしてるんだっ
て。…エンダリューン…。どうしたの?」
そのニュースをエマットから聞いたとき、珍しくエンダリューンが顔を曇らせ
た。
エンダリューンはたいていニコニコしている。近所の子供達に学問や伝承を教
えていときはいつもそうだ。ボーッとした表情で何かを考えていることもあるけ
ど。いや、それも結構多いかもしれない。子供達に物語を話している最中に、夢
見るような顔でなにかを考え込んでしまうことすらある。それで、周りの人はみ
んな、ちょっと心配になってしまうのだ。エンダリューンが怒った姿を、エマッ
トは見たことがない。
しかし、その時のエンダリューンの表情は、痛みを堪えるかの様なもので、エ
マットには計り知れない何かの想いを味わっているかのようだった。
そして…。
その日からエンダリューンの部屋には、夜遅くまで明かりがともるようになっ
た。
1.ガルパニ祝祭日
赤の月2日前日。話題のガルパニ祝祭日がやって来た。
夏の熱さがようやく収まり、空の青さは秋を感じさせるようになっている。古の
建物の間を柔らかく吹きぬける風が肌に心地よい。一般にも解放された芸術院に
は、評判のナーファルの作品を一目見ようと、多くの人々がやってきていた。
だが、観客は、そこでさらなる驚きに出会う。
ナーファルの作品は噂に違わず素晴らしいものだった。人々が金賞の作品の場
所に見たのは、黒い大理石に彫り上げられた、ティンセヴァーン(小剣)を手に
苦悩する男の姿だった。
その目には深い絶望が、その唇からは途切れることの無い慟哭が、そうしてそ
の手が血に染まっていることまでもが、見るもの全てに感じられた。
その短剣を持つ男の姿は…エンダリューンに似ていた。
その彫刻を見たとき、エマットの全身が震えた。何故だかわからないが、魂が
熱い。馴染みの無い感情に翻弄され、胸に痛みが走る。有るはずの無い思い出が、
しかし捕らえきれずに流れていく。
「ねえ…これは…なに…。」
苦痛に灼かれたようにエマットが声を上げる。
そうしてエマットは、「憎しみ」を覚えた。
どうしてその想いを得たのか、彼女には理解できなかった。
だが、そんなエマットの様子にも気づかず、エンダリューンはその作品を見つ
めていた。始めて見るエンダリューンの厳しい横顔によぎる想いを、エマットは
半分も理解することが出来なかった。彼女の知る想いに、それにあたるものはな
かったから。
やがて茫然とした様子で、他の作品へ向かった人々は、しかし銀賞の場の信じ
られない作品に驚きの声を上げた。
ナーファルと並んで天才の名を欲しいままにしたエンダリューンの作品を、そ
こに見出したからである。
エンダリューンの右腕は、肘から先が無い。八年前エスヴァーンとその娘が殺
されたとき、真っ先に疑われたのはエンダリューンだった。ナーファルはその頃
既にファラノウムを離れていたし、工房を付属したエスヴァーンの家の鍵をもっ
ていたのはエンダリューンだけだったから。
それだけなら、彼の人柄を知るものは決して信じはしなかった。だが、密告に
より、彼の部屋から彫像が…決して許されない邪神、血の涙をながす女神の像が
見つかったとき、彼を弁護してくれる者はほとんどいなかった。その像と、その
像が指し示すものからもたらされる畏怖は、彼を応援する多くの人々の口を塞ぐ
に十分だったのである。
そして、エンダリューンは一言も弁解しなかった。
証拠不十分で彼が釈放されて一月の後、その夜、彼の元に芸術院の除籍を告げ
に出向いた職員が、物音と苦痛のうめきに驚き、右腕を失った彼を発見しなけれ
ば、そこが医術の都でもあるファラノウムでなかったなら、そして、エンダリュ
ーンが若く、体力と幸運に恵まれていなかったなら…、人々が失ったものは彼の
右腕だけではなかっただろう。
彼の左腕には、彫材を得るための斧が握られていたという。
そのエンダリューンの作品を見て、人々は再び息を飲んだ。
そこには一本の腕があった。肘から先の部分で断ち切られたの様な右腕が。軽
く指を曲げ、何かを捜すかのように伸ばされた男の手は、エンダリューンの失っ
た右腕であろうか。
それは、昔の彼の作品には及びはしなかったが、しかしそれを知る人には確か
に彼の作品であると信じられた。その腕には、力強い意志と、獲得への希望と、
そしてなにより命の息吹が感じられたから。
エンダリューンとエマットの後ろで、突然哄笑が響いた。驚いて振り返ったエ
マットは、そこに、背の高い、黒髪の、痩せこけた、だが強烈な眼の光を持つ男
を見出した。
「久しいな。エンダリューン。しかし驚かされたよ。左腕だけでそれ程の作品を
作り上げられるとは、まさに天才の名に恥じぬと言うべきだな。」
そうしてエンダリューンの口からもれたかすれた声は、エマットをさらに驚かせ
るに十分だった。
「ナーファル…。」
「おまえが、おまえが再びノミを持つとは、信じられなかったよ。」
「あなたがこの街に帰ってこなければ、私も再び彫刻に向かうことは無かったで
しょう。私は…私ができる最高の仕事を既に終えているから。」
「最高の仕事…?」
エンダリューンは答えない。
「俺が帰ったことでおまえが再びノミを取る?笑わせるな。右腕を失ったおまえ
になにができる。その『腕』はそれなりに見事だが、しかしおまえの昔の技に比
べれば明らかに劣る。まして師匠や俺の技には比べものにならん。何のためにそ
の作品を出展したのか、理解に苦しむな。
今更、右腕を失ったことを後悔しているのか?」
ナーファルの唇にあきらかな嘲笑が浮かぶ。
「いや…これは、私にとって必要なものだったのです。」
エンダリューンの静かな返答と、その後に続く行動。静かに自分の作品に歩み寄
った彼は、それを右肘の、彼の失った腕のあった場所へと運び…。
そうしてエマットは、人々は、見たのだ。ただの木製の彫刻にすぎなかった右
腕が、そのあるべき場所に触れるやいなや、あたかも彼本来の右腕であるかのよ
うに、少しずつ人の右腕に変っていく様を。
茫然と、声もなく立ち尽くしていた観衆達の前で、最初に自分を取り戻したの
はナーファルだった。彼はかすれた声で呟いた。
「お、おまえは…自分の右腕を…彫り上げて…再び私の前に立つのか…。再び私
からすべてを奪うというのか…。
なら…。私がそれを滅ぼしてやる。」
すべてを奪った?エンダリューンが?エマットには信じられない。
「おまえに決闘を申し込む。
次のオザンの祝祭日までのスィーラの祝祭日と、ディールの厄日の六回、おま
えと私の作品を比べ、敗れた方が彫刻を捨てる。
どうだ…おまえに受ける勇気があるか?」
「勝負は七回としましょう。今回は私の負けです。あの作品は…素晴らしかった
…。」
エンダリューンの声に、ナーファルの顔色が白く変る。
「おまえに…おまえごときに…。」
その時、別の声が割り込んだ。
「その立ち会いは、我々に任せて貰えないだろうか?」
そこには、審査員達を伴って立つ芸術院彫刻科の教授の顔があった。その面に
老いを写さない、永遠の生命を約束された古き妖精の、しかし確実に重ねた歳月
を感じさせる声。ゆったりとしたローブにつつまれて、それ自体が人の理想を彫
り上げたかのような姿。エスヴァーンと最も親しく、それゆえ二人の弟子もその
薫陶を受けた妖精の。その技はエスヴァーンをも凌駕すると言われながらその作
品を見た者はほとんどいない。
「このホールで、今からあと六回、二人の作品を見せて貰いたい。我々が、自身
の魂に賭けて、それを評価しよう。必要な材料は我々が提供しよう。君達の作品
には十分その価値がある。どうかな。引き受けて貰えるかね?」
エンダリューンの顔に、その時まるで苦痛に耐えるかのような表情が浮かんだ
のに気付いたのは、エマットだけだったかもしれない。だがエンダリューンは静
かにうなずいた。
「次は三ヵ月後の…ザリ祝祭日、そしてデュールの厄日だ。忘れるな!」
そう言い残してナーファルは去った。その顔色は、紙よりも白く、その手が微か
に震えているのをエマットは見た。
2.ザリ祝祭日
秋が深まっていった。最初はぎこちなく反応するだけだったエンダリューンの
右腕は、紫赤の月の収穫祭が終わる頃には、すっかり彼の一部になっていた。
その年の収穫祭にも、数多くの展覧会が催されたが、人々の関心は二人の彫刻
家の対決に向けられていた。
エンダリューンは、子供達に学問を教えるのを辞めてしまった。昔のように彫
刻に打ち込むために。ザリの祝祭日までの長い期間、彼の部屋からは槌音が聞こ
えた。
エマットにとって、エンダリューンが彫刻に向かっているのを見るのは楽しみ
だった。子供たちの笑い声が聞こえなくなったのは少し残念だったけど。
彼のノミは、石や木の塊にすぎない物から命を削りだしていく。ときどき手を
休めたときにエマットに向けるエンダリューンの笑顔は、彼女を幸せな気分にし
た。
しかし、エンダリューンの顔に時々よぎる苦悩は、エマットの心をざわめかせ
もしたのである。
街を飾る街路樹の木の葉が色づき、そして散っていった。風に冷たさが増し、
人々は外に出る時外套を手放さなくなった。
一年の内、夜が一番長い時期が訪れた。ザリ祝祭日の到来である。
大気と知恵と、移ろい行くものを統べる神の日、紫の月二日前々日、冬の寒さ
は十分に厳しくなっていたが、二人の作品を見るために集まった人の列は、芸術
院の前に長く続いていた。
エンダリューンに同行したエマットは、紫の布に覆われた巨大な作品が二つ並
んでいるのを目にした。片方は、エマットもよく知っているエンダリューンの作
品、もう一方はもちろんナーファルの作品だろう。
そこには審査員達と、ナーファルがいた。ナーファルの顔には一層のやつれが
あったが、あの目の輝きだけはさらに強く、エマットはそれを見ると戸惑いを覚
えた。何故かその眼差しに見覚えがある様に思われたから。
やがて、まず、エンダリューンの作品から布が取り除かれた。
そこには、紫がかった白大理石を彫り上げた、翼を持つ馬、今にも駆け出しそ
うな躍動に満ち溢れた天馬の姿があった。大気を司るザリに仕えるにふさわしく、
大きく広げた翼は風をはらみ、その体を天へと押し上げようとしていた。瞳には
強い意志が宿り、これから向かう目的地を確固たる瞳で見つめていた。
エンダリューンの右腕がもはやかつての物に劣らぬことを知り、人々は息を飲
んで、その天馬を見つめた。そして、ナーファルの作品が示された。
そこにあるのは、巨大な樹の根から彫り上げられた鷲と馬、一羽の巨大な鷲が
馬を襲っている。馬の目は絶望に開かれ、吐く息や傷から流れ出す血すら感じら
れるその作品は、先のガルパニ祝祭日の作品に決してひけを取らない大作であっ
た。
やがて、審査員長が判定を宣言した。僅差ではあったが、審査員のより多くが
選んだのは、エンダリューンの作品だった。
だが、エマットはナーファルの作品から目を逸らすことができなかった。その
馬の傷ついた瞳に、聞こえるはずの無い断末魔の声に、あるはずの無い記憶が重
なって、覚えのない感情の高ぶりを覚えたからだ。それは、既に彼女が知った憎
しみに近く、しかしそれとははっきり異なる想い。なぜそう感じるのか、訳もわ
からぬままに…
エマットは、「怒り」を覚えた。
いつのまにかナーファルの姿は消えていた。
3.デュールの厄日
デュールの厄日は、四年に一度、閏年に暦を調整するために設けられる。ザリ
祝祭日の次の新月の日。追放されたとされる神に捧げられた日。
エマットは知らなかった。その頃の彼女は夜の空を見上げることは無かったし、
暦のことも詳しくはなかったから。ザリ祝祭日の日、月はほとんどその姿を影に
覆われていた。新月、デュールの厄日はすでに翌日であった。そうしてエマット
は、その日のためにエンダリューンが作品を作っているのを、目にしていなかっ
た。
二日続けて、エマットとエンダリューンは芸術院へと向かった。エンダリュー
ンは小さな細長い包みを手にしていた。それが今日の作品なのかどうか、エマッ
トは知らなかった。昨晩、エマットが眠りについてから作られたのか、それとも
エマットの知らないうちに仕上げられていたのか、しかし、それはあまりにも小
さく見えた。
「ねぇ、それ、今日の作品?時間なかったの?ちゃんと出来てるの?」
エマットの問いにエンダリューンが少し困った顔で、しかし微笑みながら答える。
「時間が無かったんじゃなくて、いや、時間が無かったのも確かなんだけど、で
も今日はこれがいいと思ったんだ。会場で見せてあげるから、ちゃんと出来てる
かどうかはエマットが確かめておくれ。」
そう言われるとエマットもそれ以上聞くことはできなくなった。
昨日と同じ部屋に、既にナーファルが来ていた。漆黒の布で覆われた彼の作品
も。
それは、昨日の彼の作品と同じ程の大きさのものであった。ナーファルは同時
に二つの作品を仕上げていたようだ。作品のボリュームという点では、どう考え
ても、エンダリューンの方が不利だろう。
これほどの大作を二つ、たった三ヶ月でしあげるナーファルと言う男の才能は
それだけでもすさまじいものだと言えた。
二人の彫刻家と観客が入室し、そうしてまず、ナーファルの作品から布が取り
除かれた。そこに人々が見たものは、デュラの…北方の魔の統べる国、デュラの
黒龍騎兵の姿であった。
それはあまりにまがまがしいものであった。かつて、一度だけこのファラノウ
ムと、ユルセルームと呼ばれるこの世界全体を滅亡寸前まで追い込んだデュラの、
最も忌まわしい黒龍を操る騎兵の姿。
しかし、人々はそれに惹かれた。黒大理石からなる黒龍の血走った目と、瘴気を
発する口と、面甲に隠されながらも獲物を凝視する騎士の視線…それは人々の恐
怖をえぐるがゆえに、人々を魅了する力を持ち得た。デュールの日、デュールの
厄日にこれほどふさわしい素材はあるまい、と、観るものは皆思った。
ついで、エンダリューンの作品が顕された。だが、そこに人々が感じたのは、
とまどいと…失望だった。そこには黒檀でできた一本のティンセヴァーンがあっ
た。エンダリューンの作品としては珍しく、まるで金属でできた本物の小剣がそ
こにあるかのように精緻に仕上げられてはいたが、観るものが小剣一本にどれほ
どの想いを感じられるというのだろう。
やがて、審査が始まった。が、それは予想されているよりもさらに短かった。
そして、判定は、皆の予想を裏付けるかのように、ナーファルの勝ちを告げた。
だが、エマットの反応は違った。彼女は再び、今まで味わったことの無い新た
な感情に、魂を揺さぶられていた。そして、有り得る筈の無い記憶。
彼女は見てしまった。それと同じティンセヴァーンが、誰かはわからないなが
ら自分の大切な人の命を断つ場面を、同じ剣が自分の胸に埋まる様を。
それは彼女に混乱と、絶望と、そうして…。
エマットは、「恐れ」を覚えた。
もはや、その場所に留まることはできなかった。エマットは、ただひたすら、
居心地のよいエンダリューンの部屋に、本来自分のあるべき場所にと急いだ。
だから、人々がナーファルに賛辞を送っている間にも、ナーファルの顔が青ざ
めている事を見る事はなかった。
いつのまにかエンダリューンの姿も消えていた。
それから長い間、エマットは外に出ることができなかった。
冬の寒さは厳しさを増していった。次の祝祭日まで、一月半しかなかった。時
は容赦なく流れていった。
最近、エンダリューンは制作中の作品をエマットに見せないようになった。も
ちろんエマットにとって、見ようと思えばそれは簡単なことだったが、エンダリ
ューンがいいと言わなければそうしたいとは思わなかったし、また、少し怖くも
あった。
4.アウルの祝日
一年の最後の祝祭日、青の月17日のアウル祝祭日が訪れようとしていた。そ
の祭日は最も寒い時期の祭でもあった。一年を通じて温暖なファラノウムにも、
その頃にはよく雪が降った。
エンダリューンの作品は二日前には完成していたらしく、既に昨日の内に会場
に運ばれていた。運び去られる前に、エマットは青い布に包まれたそれを見たが、
前回程ではないにせよ、今回も意外なほど小さいものだった。その高さは、エマ
ットの膝辺りまでもなかった。その小ささは、前回の記憶とあいまって、エマッ
トを不安にした。
勝負の行方を思うとき、恐れの想いが彼女を締め付けた。
水に関わるもの、海と雨と氷とそれら一切を統べ、それらによって命を育み全
てを包み込む神の祝日。
会場の前にはやはりおびただしい人が集まっていた。人々の話題は、前回のエ
ンダリューンの作品に対する失望と既に二勝しているナーファルの有利さを語る
ものが多かった。
確かに今考えても、あのティンセヴァーンが何故作られたのか、どうして作品
として示されたのか、エマットにはわからなかった。明らかに勝敗は決っていた。
いや、むしろあの戦いに敗れたことをエンダリューンは悔やんでいなかったので
はないか…そんな気すらした。ではいったい、この対決はなんのためだというの
だろう?いつもとは反対に、ぼぉっと考えごとをしているエマットを、じっと見
つめていたエンダリューンがふいに声をかけた。
「さあ、会場に行こう…でも、君はナーファルに会わないようにして欲しい。」
「え?でも、今までも何度も会ってるわよ?」
「今まではね。もうダメだと思う…。」
「どうして?」
「どうしても…。」
そこまでいうと、エンダリューンはわずかに微笑んで、先に立って家を出た。
その日も雪が降っていた。エンダリューンとエマットは、降り積もった雪に開
かれた人々の踏み跡をたどって芸術院に向かった。
エマットは、その答えを確かめたいと思ったが、何故か不意に確かめるのが怖
くなって、黙って後をついて行った。
会場につくと、そこは多くの人で溢れていた。
「一緒にいると、彼にもわかってしまう。君は中では離れていたほうがいい。」
言いおいて、エンダリューンが一人で先に入ってしまう。
心細いやらさみしいやらで、泣きたいような気分になって、それでもナーファ
ルがいないことを確かめながらエマットも進んでいった。
やがて、審査員が入室し、今度はエンダリューンの作品から示された。
そこに姿を見せたのは、ラピスラズリを彫り上げたアウムイラ、小さな、まるで
歌龍の様な水龍の姿だった。
まだ卵から生まれて幾ばくもない様な、不釣り合いなほどくりくりと大きな瞳
をもち、それでも誇らしげに、小さな羽根を精いっぱい広げ飛び立とうかとする
ような。生きる喜びに溢れた龍。人々はそこに確かに命を感じたのだ。
次いでナーファルの作品から青い布が取り除かれた。そこには、海往く船。帆
一杯に風を受け、舳は波を切り裂いていく。硬い樫材にうがたれたその作品は、
堅牢な船体のきしみと、はためく帆の音と、潮の香りすら人々に感じさせたので
ある。
だが、人々は聞いた。ナーファルの苦鳴の声を。
そして、それを裏付ける審査員の判定を。
そして、エマットは感じた。ナーファルの魂の苦悶。足早に立ち去る彼の背中
の敗北のうめきを。
何故かは判らなかったが、聞き覚えがあった。
エマットは、「哀れみ」を覚えた。
5.イーヴォ祝祭日
冬がその冷たい息吹を吐ききって、満足して眠りにつく頃、春が、そして新た
な年が訪れようとしていた。枯れ果てた野原に、木々に若芽が芽吹き、風は日に
日に柔らかくなっていった。
一年の初めを祝う日。最初の月、白の月1日。イーヴォ祝祭日。七柱のスィー
ラの神を主宰し、称えられ、この街で特に敬愛される調和と叡智の神の名を持つ
日。
人々はこの日、神殿で祈りを捧げたあと、家で家族と共に過ごす。
だが、その年の聖都の祝祭日は、神殿に赴いた後、人の流れは芸術院へと向か
った。二勝二敗で迎えた技の戦いは、その頃では知らぬ者のない話題であった。
エマットもまた、人混みの中を芸術院に向かっていた。エンダリューンと共に。
しかしホールの前まで来ると、前回と同様にエマットは一人ぼっちになり、作品
の開示の瞬間を見る事のできる限られた、しかし少なくはない人々と共に会場に
とりのこされた。
ホール中央の台の上には、白布に覆い隠された二つの大きな塊があった。
いくばくかの時間の後で、エンダリューンとナーファル、審査員達が姿を表し
た。先に取り除けられた白布はエンダリューンのもの。そしてそこには。
そこにあるのは、一つの椅子だった。柔らかい曲線で構成された、しかし簡素
な椅子。やや華奢な印象すら受ける、白木で彫り上げられた椅子。
それだけだった。
それはいかにも座り心地が良さそうで、温もりを感じさせはしたが。そこには
何かが欠けていた。そう、そこに座る者の不在。
それは椅子でしかなかった。
それに心動かされたのはあるいはエマットだけだったかもしれない。
そこにあるべきものがなにか、わかるようでわからない。
エマットは、「やるせなさ」を覚えた。
人々からため息が漏れた。エマットの目はナーファルの顔に浮かぶ小さな笑み
を捕らえた。そうして次の白布、ナーファルの作品が示された時、人々の落胆の
声は歓声にとってかわった。
”暁けの白花の”大門、三大門の一つにして、ファラノウム王宮の城門。この
街の人々が親しむ魂の拠り所。白大理石に銀の象眼で装飾された白亜の門柱、月
長石と古樫を交互に継ぎ合わされた門扉をもつその門そのままに。まるで魔法で
縮められた実物かと思われるほどに。
勝敗は、明らかだった。
6.メディート祝祭日
季節はゆっくりと、しかし確実に過ぎていった。初春から咲き始めた果樹の花
は、やがて野山の草花へと彩りを移し、あたり一面の麦畑が金の海に変わる頃、
蒔種祭がやってくる。
それが済んで一月半の後、若葉の影が色濃さを増す頃。昼が最も長い一日、夏
立てる日、魂と死と月を司るメディートの祝祭日が訪れる。
前回のイーヴォ祝祭日からの間隔が三ヶ月を数える今回は、互いに大作が期待
されていた。
深緑の緑の中を、芸術院に向かった二人は、行き道、この勝負に関する噂を聞
き続ける事になった。そうしてその一方の当人がすぐ近くにいるのを知らぬ人々
の評は、多くがナーファル優位を語っていた。
やがて、会場に着き、エンダリューンと別れ、緑の布をかけられた作品が待つ
ホールへ足を運んだエマットは、そこで待つ人々の落胆の声を聞く事になった。
その理由はすぐにわかった。今回のナーファルの作品は予想に反してさほど大
きくはなかった。せいぜい子供の背の丈あたりのものだった。だがそれにもまし
てエンダリューンの作品の、なんと小さなことか。
エマットの両腕に簡単にかかえられるほどの小さな作品、それがエンダリュー
ンの作品であると知ったとき、エマットは自分の心が不安に揺れるのを押さえら
れなかった。エンダリューンを、信じてはいる。だが。
やがて、二人と審査員の入場。今回はエンダリューンの作品の側から布が取り
除かれる。人々が息を飲んで見守る中、作品が姿を表す。
メディートに従う使いの獣…。一羽の兎。
碧玉を彫り上げたその耳は遠くの物音を聞きつけたように前方に向けられ、そ
の瞳は驚いたように見開かれ、立ちあがって、何かあればすぐにも飛び上がりそ
うな、そんな愛らしい獣の一瞬の姿。
やがてゆっくりと、人々のため息が、しかし今回は満足の笑みと共に吐き出さ
れたとき、エマットにも、人々が、ファラノウムの人々がこの作品を受け入れた
事がわかった。死を司る神の祝祭日に示された、小さな命。定命の者達はその命
のきらめきを、老いる定めを持たない者達はそれへの憧れを。
そして、もう一つの作品からも緑の布が取り除かれ、そうしてそこにあるもの
を見たとき、
エマットは「無名の感情」を覚えた。
それは、言葉では説明できぬ胸に渦巻く想い。出口を求めて、しかしどこへ向
かっていいかわからずに身内を駆け巡る想い。人々の感嘆の声すら、エマットに
は聞こえなかった。人々の驚きの眼差しすら、エマットは見えなかった。
そこには、一人の倒れている女。胸に短剣を突き立てられ、今命が絶えゆく女。
死にゆく女の姿があった。彩色のない、象牙を彫り上げたその彫像には、流れる
血と共に失われていく命が見えた。驚愕と、痛みと、悲しみと。今途絶えようと
する最後の息吹。
その女は、エマットだった。
やがてゆっくり崩れゆくエマットの体を、エンダリューンの細い、だが力ある
腕が支えた事すら、エマットは知る事は無かった。だから、そのエマットを見て、
蒼白な顔で何事かを叫びかけたナーファルの顔も…。会場を後にするエンダリュ
ーンとそれを追うナーファルの間でかわされた言葉も。
しばらくたって気づくと、エマットはエンダリューンの部屋に居た。訳も判ら
ずに流れ続ける涙と、断片的に甦ってくる覚えの無い記憶。
そう、エマットは、「生まれるずっと前から」エンダリューンと一緒に居たの
だ。そうして、そこにはナーファルも、もう一人、とてもなつかしい人も。それ
は父だろうか?みんなが微笑んでいた幸せな日々。
どうしても欲しかった心。去って行ったもう一人の男。
月の無いある夜、物音に目覚めて父の部屋に行ったこと。そこに倒れている父
と、立ち尽くす男。その手に握られた短剣。男の叫び…。
「なぜあいつはすべてを奪っていくのだ!後から来たくせにすべてを!師匠の後
継者としての座も!俺が望んでえられなかった技も!そして、もっとも手に入れ
たかったおまえの心をも!」
胸を灼く痛み、体から命が流れ出していく。
今は、誰もいない。いや、エンダリューンだけがそばにいてくれる。それでも
いいとエマットは思った。もう帰らない日々。しかしエンダリューンはここにい
る。
自分を見つめるエンダリューンの肩に腕を廻し、そっと唇を合わせると、不思
議と涙が止まっていった。
後で聞いた所では、審査は紛糾したらしい。審査員の間の長い討論と、それで
も決まらない結論を出すための投票と、審査員長の最後の一票。たが、選ばれた
のは人々の予想に反して、(いや希望にそってだろうか)小さな兎であった。
そうして、それに異議を唱える者はいなかった。ナーファルでさえも。
7.オザン祝祭日
夏の日差しが肌を灼く頃、一年を通じて一番暑く、命の勢いが強まるその日が、
最後だった。全てを決める最後の一日。火と命の輝きを愛する神、オザンに捧げ
られた日。
その日、エンダリューンはエマットを伴って会場に赴き、そうして二人でホー
ルへと入って行った。それはエマットにとって嬉しい事だったが、戸惑いを覚え
た事も確かだった。いつもと違って、エンダリューンがずっとそばにいてくれる。
ナーファルの先の作品を知る人々…つまりここにいる全ての人々もエマットを
見て困惑の表情を隠せなかった。エマットこそが、ナーファルの先の作品のモデ
ルであると信じられたからだ。
ホールの中央には、金糸で織られた二枚の布で包まれた作品。しかし、片方、
エンダリューンの作品の大きさはどういうことだろうか。先の祝祭日から一月半
あまりの期間で、これだけの物が彫れるはずはない。それは、共に暮らすエマッ
トが一番よく知っていた。
やがてナーファルが会場に現れ、エンダリューンとエマットを認めた。いや、
ナーファルの瞳はエマットだけを見ていた。その目の中にある、たとえ様もない
恐れと理解不能な憎しみの他に、何故か希望と、憧れと、愛しさと…が見えた。
ように思った。
審査員の入室の後、ナーファルの作品から黄金色の布が取り除かれた。
オザンの愛する獣、誇り高く地を踏みしめ、獲物を狙うかのように耳を伏せ、前
方を見つめる獣。そこには一頭の犬の姿があった。
むしろエンダリューンの得意とする命ある獣。しかしその技量において、ナー
ファルは一歩も譲らなかった。人々は、エンダリューンの作品に覚えると同じ、
生命をそこに感じたのだ。
知らず、会場から拍手の音が響いた。それには、いままでのナーファルの作品
には見られなかった、命に対する理解があったから。それは一人の芸術家が、新
たな高みに登った事を知らせたから。
やがてエンダリューンの作品からも、布が取り除かれた。
そこにあるのは、一つの椅子だった。その椅子の背には、一匹の小さな水龍が止
まっていた。椅子の左側には、一匹の兎が立っていた。椅子の右側には、翼持つ
馬がいた。そうして唯一新しく、その足元に一頭の仔犬が居た。体を伏せ、頭だ
けをもちあげ、好奇心に溢れた目を前方に向けていた。
それは、未完成だった。
それが、未完成であると感じたのは、エマットと、ごくひとにぎりの人たちだ
けだったろう。多くの人々は、新たに加わった犬を賞賛しつつも、それと他の作
品との関わりを図りきれずに、戸惑いを覚えているのだ。
そこに何が欠けているのか、それを知っているのはエンダリューンとエマット
と…そうしてナーファルだけだったかも知れない。
エマットには抗うことはできなかった。自分がそこにあるべき事を知っていた
からだ。やがて椅子に歩み寄ったエマットは、それこそが当然である様に、そこ
に腰掛けた。
そうして、全てが完成した。
エマットは「喜び」を覚えた。圧倒的な、満たされていく感覚。
人々は、そこに一つの奇跡を見た。
残されたのは、椅子に座った一人の、美しい、娘の彫像。
いつの間にかエンダリューンの姿はなく。
そうして人々は見た。一人の男が、石になる様を。人々は聞いた。その心臓の
ひび割れる音を。しかし、その顔に見いだされるのは、救いの喜びか?
0.旅人
一つの伝説が終わった後も、人々の間で語られるプロローグがあった。
ラムザスの草原で、エルダの森で、アウロンの浜で、人々は旅人と出会ったと
いう。犬と、兎と、小さな龍と、翼持つ馬と…。
一人の男と、彼に寄りそう娘に。
補足:
かりそめの地、ユルセルームと呼ばれるこの世界では、道具や作品ですら想い、
感情をしばしば持ちうる。すぐれた作品や深い思いを込められた道具には『精霊』
が宿り、それらは大きく十種類に分けられた感情を持ちうる。これらはたいてい
最初は一種の感情に目覚めるだけであり、すぐれた作品でも二種の感情に目覚め
ることはまれである。
一種の感情に目覚めた状態の『精霊』は夢などによって所有者に認識しうるだ
けであるが、やがてその『精霊』のおかれた状況によって新たな感情を目覚めさ
せ、それに従ってその『精霊』の姿も徐々に他の人々にも感知されうるものとな
っていく。
十種の感情すべてに目覚めたものは生命と新たな肉体を得て転生すると言われ
ている。
ガルパニ祝祭日/赤の月2前日 (グレゴリウス暦9月23日頃)
収穫祭/紫赤の月17日 (グレゴリウス暦11月8日頃)
ザリ祝祭日/青紫2前々日 (グレゴリウス暦12月22日頃)
デュールの厄日/青紫2前日 (閏年の冬至後の最初の新月)
アウル祝祭日/青17前日 (グレゴリウス暦2月4日頃)
イーヴォ祝祭日/白1日 (グレゴリウス暦3月21日頃)
蒔種祭/薄緑17日 (グレゴリウス暦5月6日頃)
メディート祝祭日/黄緑3前日 (グレゴリウス暦6月22日頃)
オザン祝祭日/光17前日 (グレゴリウス暦8月8日頃)
後(赤)×腕○小剣を持つ男 憎しみ
先(紫)○天馬×馬を襲う鷲 怒り
後(黒)×小剣○黒龍騎兵 恐れ
先(青)○水龍×船 哀れみ
後(白)×椅子○大門 やるせなさ
先(緑)○兎×死にゆく女 無名の感情
後(金)△犬△犬 喜び