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京都散策記

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河原町丸太

数あまたの観光名所のある京都では、河原町丸太町は、
イマイチ、マイナーである。
しかし、それでも見所はしっかりある。
西国三十三所霊場めぐりの第19番札所でもある、
行願寺こと革堂(こうどう)である。
1004年、行円上人によって、今の上京区の一条小川に
創建されたのが始まり。
行円上人が常に革の衣をまとい、人々から「革聖」と呼ばれて
いたことから、いつの間にか、寺も「革堂」と呼ばれるように
なったという。
度々の京の都での大火により、寺は転々とし、現在の位置に
やってきたのは、江戸時代になった1705年のことである。
現在の本堂は1815年のもの。
 
 

堂内には、行円上人作と伝えられる、千手観音像が、本尊と
して安置されている。
 
 
 
 
 
 

さて、革堂のお隣には、一際、立派な神社がある。
下御霊神社(しもごりょうじんじゃ)である。
当初、上京区の御霊神社の南側にあったことから、
この名が付いた。
本殿は、1791年に、仮御所の内侍所を移築し、また
表門は、旧建礼門を移築したものである。
社伝によれば、809年に、不運のうちに亡くなった、
桓武天皇の第3皇子である、伊予親王と、その母である、
藤原吉子の霊をなだめるために、創建されたという。

長岡京への遷都を訴えた、藤原種継の子の、
藤原式家・藤原仲成は、妹の薬子平城天皇の寵愛を
受けていたため、重用され、権勢を誇っていた。
横暴な性格であり、無実の伊予親王と母の藤原吉子に
反逆の罪をきせて、謀殺した。
 
 
 
 

しかし、その権力も平城天皇から嵯峨天皇へ時代が移ると、
陰りを見せ、そこで仲成と薬子は、平城天皇の重祚を画策
するが、810年、嵯峨天皇が先手を打って、仲成を射殺させた。
伊予親王の謀殺から、わずか1年後のことである。
左写真は、舞殿の中にある、2基の立派な神輿。
 
 
 

祭神は、伊予親王、藤原吉子に加えて、後に崇道天皇
(早良親王)、吉備真備藤原広嗣橘逸勢文屋宮田麻呂
火雷天神、が加わり、「八所御霊」と呼ばれるようになった。
古来より、京都御所の産土神とされ、江戸時代の享保年間
には、霊元天皇が行幸し、祈願文を収めた。
 
 

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