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今まで、スコータイ、アユタヤ、ロッブリーといったタイの遺跡、歴史を見てきたが、ついに近代の歴史、第2次世界大戦時の遺構にやって来た。
カンチャナブリは日本軍によって開拓された軍事物資輸送基地である。
まず、最初にJEATH戦争博物館に訪れる。
「JEATH」と「DEATH(死)」が掛詞になっているが、このカンチャナブリに関与した国、「JAPAN」「ENGLAND」「AMERICA、AUSTLALIA」「THAI」「HOLAND」の頭文字を表わしている。
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1942年ミッドウェー海戦で壊滅的な打撃を受けた日本軍は、制海権を失い、ビルマの最前線にいる日本軍への補給路が断たれてしまった。
そこで浮かび上がった案が、タイとビルマ(現ミャンマー)を結ぶ鉄道計画、すなわち「泰緬鉄道」の建設だった。
建設はビルマとタイの双方から着手され、労役には、イギリス、オーストラリア、アメリカ、カナダなどの捕虜兵士が投入された。
左写真は、当時の捕虜兵の寝起きした場所の再現。
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左写真は、博物館に展示されていた当時の建設の様子。
一説には10万人の奴隷労働者と6万8000人の捕虜兵士が投入され、30万人以上が亡くなったというが、この数字は連合国側の数字であり、真相は闇の中だ。
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こうして、泰緬鉄道は多くの犠牲の元、1943年10月に完成した。
バンコクから出発し、タイ国境を越えて、ビルマを横断し、ラングーンにつながるイギリスの鉄道網に接続するという、壮大な事業であった。
カンチャナブリ付近が特に難所で「死の鉄路」と呼ばれた。
左写真は、当時の、カンチャナブリのクワイ川を渡る鉄道の様子。橋はまだ木製だった。
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当時走っていた列車は、今は綺麗に整備されて、左のように保存されている。
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左写真の列車は、資材の「補給車」として使われており、最盛期には、一日1000トンもの補給をビルマに送っていたという。
しかし1945年4月以降、日本軍はビルマから撤退し、鉄道も放棄された。
結局、泰緬鉄道は21ヶ月運行されたにすぎなかった。
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クワイ川鉄橋駅の様子。
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戦後、クワイ川の木製の橋は解体された。
また、性急に造られたために非常に状態の悪かった線路も、1940年代に建設し直され1957年、終点のナムトク駅までの路線が完成した。
ビルマまでの接続はできず、ビルマ政府は全線開通を要望したが、実現しなかった。
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>>トップページ>>目次>>第8話「カンチャナブリA」
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