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西鉄・大宰府駅を降り立った。
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| ここは、福岡県北部太宰府市。 |
| かつては、西国統治の拠点でもあり、外交・防衛の中心 |
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であった「大宰府」のあった地である。
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| ここから、太宰府天満宮まで歩いて見ることにしよう。 |
| 少しややこしい話だが、機関としての大宰府は「大」の字を |
| 使い、天満宮の名前では「太」の文字を使う。 |
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天満宮までの参道を歩く。
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太宰府は、7世紀前半に置かれ、西海道9国(筑前、筑後、
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豊前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隅)と、
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| 三島(壱岐、対馬、多褹)を統治していた。 |
| また、663年に白村江の戦いで、阿倍比羅夫率いる倭国軍が、 |
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唐・百済の連合軍に敗れて以来、防人(さきもり)と呼ばれる
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兵士がこの地に配置されるようになり、これも大宰府が所管と
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していた。
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大宰府政庁跡は、市内中心部、市役所の近くにある。
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太宰府天満宮にやって来た。
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ここでは、菅原道真が祀られている。
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道真は、平安時代の学者であり、宇多天皇に重用され、
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| 894年には、道真の進言で、遣唐使が廃止されるなどした。 |
| その後、醍醐天皇のもとで、位大臣を極め、右大臣となるが、 |
| 藤原時平の讒言により、大宰府に左遷されることとなる。 |
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その時に詠んだ、
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「東風吹かば
にほひおこせよ 梅の花
主なしとて 春を忘るな」
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という和歌は有名。
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太宰府天満宮は、905年に建てられた。
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903年に、失意のもとに道真は亡くなったが、
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遺体を乗せた牛車の牛が、急に動かなくなった。
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| これは、道真の遺志であろうと、京の都より、道真に追従した |
| 門弟味酒安行(うまさけのやすゆき)が、この地に墓を建てた |
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のが天満宮の由来である。
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太鼓橋を渡り、本殿へと向かう。、
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池は、「心」という漢字の形になっており「心字池」と呼ばれる。
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心字池の畔に、小さな社がある。志賀社である。
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鎌倉時代の1459年に建てられたとされ、重要文化財にも
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指定されている。
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| 海の神である、綿津見(わたつみ)三神を祀っている。 |
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こちらも、重要文化財の立派な楼門をくぐり抜ける。
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道真の死後、讒言をした藤原時平は、若くして急死。
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また、京では疫病や異常気象など不吉な事が続いたため
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| 「道真の祟り」と恐れられ、道真の怨霊を鎮めるために、 |
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墓所のあるこの地に、社殿が建てられた。
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造営にあたったのは、醍醐天皇の勅命を受けた、時平の弟、
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左大臣・藤原仲平である。
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本殿へとやって来た。
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社殿の完成したのは919年のこと。
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その後、兵火等により数度炎上したが、1591年(天正19)に、
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| 筑前国主・小早川隆景が、5年かけて造営したのが、 |
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現在の本殿である。
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桃山時代の様式を伝え、重要文化財に指定されてる。
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境内には、社殿造営のきっかけとなった「牛」の像がある。
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そう、天満宮のシンボルは牛である。
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全国各地の天満宮に同じく牛の像がある。
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