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| 私が武蔵を好きになったのは、恥ずかしながら、吉川栄治先生 |
| の御本ではなく、それを基にして描かれた井上雄彦先生の |
| マンガ「バガボンド」からなんです。 |
| NHKの大河ドラマ(H14)の「武蔵〜MUSASHI」も大好きで、 |
| よく見ていました。 |
| そんな想いが昂じて、岡山県の大原町にある武蔵出生の地 |
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まで訪れてしまったのです。
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| 左は智頭急行宮本武蔵駅前にある「三人の像」。 |
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武蔵、又八、お通の三人の幼少時代の像です。
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駅前をすぎると、のどかな田園が開けてきます。
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| 広がる山河、田園を眺めていると、3人が無邪気に遊ぶ様子が |
| 目に浮かぶようではありませんか。 |
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少し歩くと、武蔵宅と云われるお宅があります。
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現役で生活に使われております。
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武蔵幼少の頃、父である新免無二斎がここに道場を構えて
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| いましたが、暴風雨により隣に生えていた欅の木が倒れてきて、 |
| 家も壊れてしまいました。 |
| そこで後に住んだ人が、その廃材を用いて、家を復元して住んで |
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いたのですが、昭和17年に残念ながら焼失して
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しまったそうです。
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ですから、昔から残っているのは大黒柱の位置だけであるとか。
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武蔵宅の前に「宮本武蔵生誕の地の碑」「吉川栄治先生
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記念碑」の2つの石碑があります。
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そこから程近いところに讃甘神社(さのもじんじゃ)という社
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がありますが、ここの言い伝えによりますと、
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武蔵が幼年時代、よくこの境内で遊んでいるときに、宮司さんが
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| 2本のバチを持ち太鼓を打っている姿を見て二刀流のヒント |
| を得た、というのですが、真偽のほどは明らかではありません。 |
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さて、大原町の中にひときわ立派な茅葺の家があります。
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平尾家です。
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慶長5年(1600年)武蔵が武者修行の旅に出る
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際に、ここで別れの杯を交わし、家系図や、十手(3本)を形見
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| として姉であるおぎん夫婦に残していきました。 |
| その後おぎん夫婦の2男が宮本家の跡を継ぎ、現在に至って |
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いるということです。
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家の横には当時から生えているという、樹齢400年のタラヨウの
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樹が今も繁っています。
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武蔵13歳の時にはこの作用町にて兵法者有馬喜兵衛と
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はじめての決戦をし、勝利しています。
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そして武者修行として、奈良の宝蔵院槍術の胤舜、
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柳生の里へも挑みかけます。武蔵22歳のことです。
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また、現在の京都の仏教大学のある洛北蓮台寺野で
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| 京都の名門吉岡一門の当主、吉岡清十郎を倒します。 |
| 大学内がその場所にあたるというのですが、何の跡も残って |
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いないそうです。
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23歳となった武蔵は京都、三十三間堂で清十郎の弟、
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吉岡伝七郎をも倒します。
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境内では、武蔵関連の映画の紹介などがされていましたよ。
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怒った吉岡一門の弟子達は当時まだ子供であった清十郎の甥
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吉岡源次郎を大将に見立て、一乗寺下り松の下で、十数名で
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武蔵に襲い掛かります。
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| しかし武蔵は弟子達を相手にせず、大将である源次郎を一刀の |
| 元に切り倒し、勝敗は決しました。 |
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下り松自体は、旅人の目印として、古くからその場所にあった
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らしいです。
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現在の松は4代目で、当時の松は、少し行ったところにある
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八大神社に大切に保管されています。
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八大神社の中には二刀を把持した武蔵の銅像もあり、
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いまも武蔵を偲ぶ、多数の観光客が訪れていました。
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関連リンク
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