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| 四条から散策をはじめて、ようやく三条へやってきた。 |
| 鴨川沿いの河原は、いつも多くのカップルが等間隔で座って |
| いることで有名だ。 |
| しかしこの三条河原は、そもそも罪人を処刑したり、その首を晒す |
| 場所であった。先ほど紹介した豊臣秀次もこの場所で処刑され、 |
| 新撰組の近藤勇も処刑されたあと、この場に首を晒された。 |
| また歴史的な合戦もこの場で行われた。平安末期、平氏を京から |
| 追い出した木曽義仲は、源義経と、この三条河原で戦い、 |
| 負けて近江の国へ落ち延びた。 |
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| 三条大橋は江戸日本橋から始まる東海道五十三次の終着点だ。 |
| 橋のたもとには、江戸時代後期に十返舎一九が書いた旅小説 |
| 「東海道中膝栗毛」の主人公、弥次さん、喜多さんの銅像がある。 |
| 街道として、旅人が往来した在りし日の姿に思いを馳せる。 |
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| 三条大橋の東のたもとには、京阪電鉄三条駅があり、 |
| その駅前に高山彦九郎の像がある。 |
| 京都に住んでる人ならわかるだろうが、この場所はよく待ち |
| 合わせに使われて「土下座前」なんて呼ばれている。 |
| 高山彦九郎(1743-1793)は、群馬県の出身で、18歳の時 |
| 以来、合計5回上洛したが、京都に出入りする際には、この |
| 銅像のように、京都御所に礼拝したという。 |
| 明治維新の勤皇の志士たちは、彦九郎を心の鑑として仰い |
| だという。 |
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| 今度は、三条通を西に少しばかり進んでみると、パチンコ屋の |
| 店先に「池田騒動之址」の石碑が見られる。 |
| この場所こそ、新撰組が土佐、肥後藩の尊王攘夷幕派が倒幕の |
| 謀議を行っていたところを襲撃した池田屋事件の現場である。 |
| この事件では近藤勇以下20名の新撰組隊士が切り込み、 |
| 尊皇攘夷派20名を討ち取った。この事件で倒幕が1年遅れた |
| といわれるほど、尊皇攘夷派にとっては大打撃で、新撰組の |
| 名はこの事件以後大いに高まった。 |
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| さて、三条通の1本北側に東西に走る、御前通まで、少し足を |
| 伸ばしてみる。高瀬川沿いに少し大きめの石碑がある。 |
| 「佐久間象山、大村益次郎遭難之碑」である。 |
| 佐久間象山は信州松代藩の出身で、儒学や朱子学を修め、 |
| また西洋科学の導入で日本の殖産興業に貢献した。 |
| 彼の塾からは勝海舟や吉田松陰などを輩出している。 |
| しかし1848年、公武合体、開国論を唱えたために暗殺された。 |
| 大村益次郎は緒方洪庵の滴塾で学んだ兵学者で、この木屋町で |
| 暗殺されている。 |
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| 木屋町沿いには、他にも沢山、維新の志士たちが寓居した |
| 館の跡がある。三条木屋町交差点を少し北へ上がったところに |
| ある「武市瑞山先生寓居之跡」。 |
| 「三条四条@」でも少し解説したが、武市瑞山は、土佐勤皇党の |
| 党首で、尊皇攘夷派。京都の8月18日の政変後に投獄され、 |
| 1年後切腹を命じられた。 |
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| 武市瑞山寓居跡のすぐ隣くらいにあるのが「吉村寅太郎寓居跡」。 |
| 吉村寅太郎は1861年に土佐勤皇党に参加、寺田屋事件で |
| 捕らえられて、土佐に送還されるが、出獄すると脱藩して京都へ。 |
| 中山忠光を擁して同志30余名とともに天誅組を結成。 |
| 総裁の一人となり、大和国で挙兵し、五条の幕府代官所を襲撃、 |
| 代官ら5人を殺害した。 |
| 近隣の幕府領を朝廷領とし、年貢半減を布告するなどしたが、 |
| 挙兵した翌日に起った8月18日の政変で京都の尊穣派が一掃 |
| され、天誅組は孤立。諸藩軍の追討を受け戦死した。 |
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| 最後に、桂小五郎(木戸孝允)像を紹介する。 |
| この像は、長州藩邸跡に建てられている。 |
| 場所は、四条御前、ホテルオークラの敷地内。 |
| 桂は、このすぐ近くに幾松という芸妓と寓居していた。 |
| その地は今も「幾松」という名の料理旅館となっている。 |
| 幾松はその後桂の妻となっている。 |
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関連リンク
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>>三条・四条歴史散策マップ
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>>江戸散策記「靖国神社」(大村益次郎像)
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>>トップページ>>目次>>第44話「若一神社」
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