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| さて、木屋町通沿いには、高瀬川が流れている。 |
| 高瀬川は江戸時代に角倉了以という豪商によってつくられた |
| 「運河」だ。二条木屋町から伏見を経て、宇治川に合流する。 |
| ここでは、底が平たく舷側の高い「高瀬舟」が行き交い、 |
| 京都大阪間の物資の輸送を担っていた。 |
| まさに、京都経済の「大動脈」であった。 |
| 木屋町の町名も、このあたりに、高瀬川を利用して、盛んに |
| 商いをしていた、材木屋が多かったことに由来する。 |
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| 四条木屋町から、その高瀬川沿いに歩いて行くとすぐに、 |
| ひときわ立派で、レトロな建物が現れる。旧・立誠小学校だ。 |
| 立誠小学校は、1993年に、京都市中心部の児童数の減少から |
| 閉鎖されまたが、京都市が「観光の拠点としたい」ということで、 |
| 建物は残された。 |
| しかし今のところは、地元住民がテニスコートとして利用したり、 |
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残っている校舎や体育館を使って展示会などが催されたりして
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| いるのみで、具体的な話は出ていない。 |
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| 立誠小学校の入口の脇には角倉了以の石碑がある。 |
| 了以は、京都の豪商の家に生まれ、朱印船貿易により、 |
| ベトナムと交易をし、莫大な富を得た。 |
| 53歳のときに、京都保津川の開削を行い、丹波から米や |
| 材木などの物資が、険しい山道を通ることなく都へ運べるよう |
| にする。その後、更に市内へ物資が搬入できるように高瀬川 |
| を造営したのだ。ほか、富士川、天竜川、などでも同様の |
| 事業を行っている。 |
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| 木屋町通を高瀬川沿いにさらに北上すると、まもなく三条通に |
| さしかかろうという場所に、乱立する居酒屋に埋もれるように、 |
| 小さな寺がある。瑞泉寺だ。 |
| 豊臣秀吉の甥、豊臣秀次の墓がある。 |
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| 豊臣秀次は、秀吉とともに天下取りの戦に明け暮れる。 |
| 賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、四国征伐、小田原攻め、 |
| と、秀吉の戦った主要な戦では、常に大きな役割を果たしていた。 |
| 天正19(1591)年には秀吉の子・鶴松が幼くして亡くなったこと |
| から、秀吉の養子となり、関白職にも就き、豊臣姓を名乗る。 |
| 住まいも聚楽第に移り、名実ともに秀吉の後継者となる。 |
| しかし秀頼が生まれたことにより、秀吉と対立するようになり、 |
| 京の三条河原で、正室、側室、子ら30人以上とともに、処刑 |
| されてしまう。 |
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| 瑞泉寺前から東へ100メートルほど進むと、「坂本龍馬寓居之跡」 |
| と書かれた石碑が見つかる。 |
| この場所こそ、京都における海援隊の詰所であった。 |
| もとは、酢屋嘉兵衛という材木商宅。 |
| 海援隊は、総員58名で、土佐藩の海軍。 |
| 坂本龍馬が隊長で、隊士には、明治維新直後に締結された |
| 不平等条約の改正に奔走し、1894年にイギリスとの間で、 |
| 治外法権の撤廃を成功させた陸奥宗光もいた。 |
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関連リンク
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>>三条・四条歴史散策マップ
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