What's 古事記 

T成立と背景   U構成と内容
V書名の由来   W『日本書紀』との比較
X古代王朝交代説 Y称号使用基準

<ちょっと蛇足…>
『古事記』において天皇の名は和名と漢風謚号で記されています。
  
*例* 和名:神倭伊波礼毘古命
      漢風謚号:神武天皇
和名とは純和風の名前のことで、一応こちらが正式なものです。漢風謚号とは後からつけられた名前で、かの『懐風藻』を著した淡海三船が最初に造ったとされています。こちらは現在でもお馴染みですね。but,当時の人は和名の方を用いていたようです。また、「天皇」という称号は第40代の天武天皇からで、それまでは「大王」と称していたらしいです。

T 成立と背景
『古事記』には太安万侶の手による序文がつけられていますが、それによると第40代天武天皇が『古事記』編纂を思いつき、第43代元明天皇の時代にやっと完成したとされています。712年(和銅5年)正月28日のコトです。
以下に、序文の天武天皇の言葉を紹介すると……

「私が聞くところによると、諸家のもたらした帝紀と旧辞とは、
既に真実と違い、偽りを多く加えているという。
今この時において、その誤りを改めないならば、
幾年も経たないうちにその本旨は滅びてしまうであろう。
この帝紀と旧辞とは即ち国家組織の根本となるものであり、
天皇の政治の基礎となるものである。
それゆえ、帝紀・旧辞をよく調べて正し、偽りを削り、
真実を定めて撰録し、後世に伝えようと思う。」

帝紀
とは皇統譜(天皇家の系譜)のことで、旧辞とは古い物語や出来事のことです。天武天皇の言葉の大意は「それぞれの氏族が“うちの先祖は○○の王子である”などという自分達に都合のよい出自や系譜を捏造しているから、ここらできっちりさせねば!」というコトなのでしょう。帝紀旧辞で成り立っている『古事記』は本来歴史書として編まれた書物だったのです。
 ……と、ここまでは書物上のことゆえ、それ以上のことは記されていないのですが、その歴史的背景には、当時天武天皇が推し進めていた,
中国化・中央集権化計画がありました。国号を「倭」から「日本」に改めたこと,「大王」号を「天皇」号に改めたことと同様、天皇家を中心とした国家樹立の一貫として、『古事記』は編まれたのです。しかし、『日本書紀』が正史となったのに対して、『古事記』はマル秘文書扱いとなり、公の場へは姿を現しませんでした……。

U 構成と内容
『古事記』は上中下の全三巻から成り立っています。
上巻には天地初発から天孫降臨まで、中巻には初代神武天皇
神倭伊波礼毘古命カムヤマトイワレビコノミコト)から第15代応神天皇品陀和気命ホムダワケノミコトまで、そして下巻は第16代仁徳天皇(大雀命オオサザキノミコトから第33代推古天皇豊御食炊屋比売命トヨミケカシキヤヒメノミコト)までの記載があり、大まかには上巻が神の時代、中巻が神と人の時代、下巻が人の時代と分けることができます。
上巻:<神の時代>
     
 天地初発
      伊耶那岐命と伊耶那美命の国生み・神生み神話
      天照大御神と建速須佐之男命の神話
      大国主神の国造り神話
      大国主神の国譲り神話
      天孫降臨、天孫と山神の婚姻神話
      天孫の子と海神の婚姻神話
中巻:<神と人の時代>
★欠史八代
1 神武天皇神倭伊波礼毘古命カムヤマトイワレビコノミコト
2 綏靖天皇(神沼河耳命カムヌナカワミミノミコト
3 安寧天皇師木津日子玉手見命シキツヒコタマテミノミコト
4 懿徳天皇大倭日子*友命オオヤマトヒコスキトモノミコト*…金+且
5 考昭天皇御真津日子訶恵志泥命ミマツヒコカエシネノミコト
6 考安天皇大倭帯日子国押人命オオヤマトタラシヒコクニオシヒトノミコト
7 考霊天皇大倭根子日子賦斗邇命オオヤマトネコヒコフトニノミコト
8 考元天皇大倭根子日子国玖琉命オオヤマトネコヒコクニクルノミコト
9 開化天皇若倭根子日子大毘々命ワカヤマトネコヒコオオビビノミコト
10 崇神天皇御真木入日子印恵命ミマキイリビコイニヱノミコト
11 垂仁天皇伊久米伊理毘古伊佐知命イクメイリビコイサチノミコト
12 景行天皇大帯日子淤斯呂和気命オオタラシヒコオシロワケノミコト
13 成務天皇若帯日子命ワカタラシヒコノミコト
14 仲哀天皇帯中日子命タラシナカツヒコノミコト
15 応神天皇品陀和気命ホムダワケノミコト
下巻:<人の時代>★欠史十代
16 仁徳天皇大雀命オオサザキノミコト
17 履中天皇大江之伊耶本和気命オオエノイザホワケノミコト
18 反正天皇蝮之水歯別命タジヒノミズハワケノミコト
19 允恭天皇男浅津間若子宿禰命オアサツマワクゴノスクネノミコト
20 安康天皇穴穂命アナホノミコト
21 雄略天皇大長谷若建命オオハツセノワカタケルノミコト
22 清寧天皇白髪大倭根子命シラカノオオヤマトネコノミコト
23 顕宗天皇袁祁命ヲケノミコト
24 仁賢天皇意祁命オケノミコト
25 武烈天皇小長谷若雀命ヲハツセノワカサザキノミコト
26 継体天皇袁本杼命ヲホドノミコト
27 安閑天皇広国押建金日命ヒロクニオシタケカナヒノミコト
28 宣化天皇建小広国押楯命タケヲヒロクニオシタテノミコト
29 欽明天皇天国押波流岐広庭命アメクニオシハルキヒロニワノミコト
30 敏達天皇沼名倉太玉敷命ヌナクラオオタマシキノミコト
31 用明天皇橘豊日命タチバナノトヨヒノミコト
32 崇峻天皇長谷部若雀命ハツセベノワカサザキノミコト
33 推古天皇豊御食炊屋比売命トヨミケカシキヤヒメノミコト
 
★和名の称号は「命」に統一させて頂き、最も一般的なものを
  載せました。*は入力不可能な文字です。申し訳ありません。

V 書名の由来
“古事記”を“フルコトブミ”と読ませ、古い事が記された書物というコトから、『古事記』と呼ばれたのではないかという説が今日では一般的です。それが正しいかどうかは別として、欠史十代(24代仁賢〜33代推古)など、古い事以外は記さないぞという傾向が『古事記』にはしばしば見られます。

W 『日本書紀』との比較
『日本書紀』は『古事記』に遅れること8年,720年(養老4年)5月に成立しました。内容としては、神代から第41代持統天皇までの歴史が編年体で記されています。時代的に『古事記』と重なっている部分(神代〜第33代推古天皇記)がたくさんありますが、内容は微妙に違っており、『古事記』に比べると全体的に固いです。また、『古事記』と違って『日本書紀』には、「一書に云う…」という形で、多数異伝が載せられています。一応,二書とも歴史書なのですが、『古事記』が文学的色合いが強いのに対して、『日本書紀』は余計なものを出来る限り省いた完全なる(まではいきませんが)史書の形式をとっています。…もっとも史書とは言っても、本場中国の史書と違って、日本の場合はその王朝の人間が記しているわけですから客観性に欠け、記紀共どうしても主観的なコトは否めません。自分達の都合の良いように歴史を創作しているという箇所も結構あるかも…。その為、歴史学の分野では必ずしも有効な史料ではないようです。『古事記』は試作版で『日本書紀』こそが完成版である!という声もしばしば聞かれますが、日本の上代の本質を追究するのであれば……うーむ,やはり試作版で余り官僚達の手が入っていない『古事記』がおすすめです(古事記の世界ですし…)。

X 古代王朝交代説
 
天皇家の歴史は万世一系である!というタテマエはさておき、日本の王朝は実は何度か交代していて、大きく三つに分けることが出来るというのが戦後の通説らしいです。この説を最初に提唱されたのは水野祐氏です。氏は『日本古代王朝史論序説』の中で、初代神武〜第9代開化までを架空の存在として捉え、第10代崇神が本当の創始者であるとして、日本の古代王朝は第10代崇神〜第14代仲哀の王朝(崇神王朝)、第15代応神〜第25代武烈の王朝(仁徳王朝)、第26代継体以降の王朝(継体王朝)に分けることが出来るという「王朝交代説」を提唱されました。水野氏の説に従うと、現天皇家の実質的開祖は神武天皇ではなく、第26代継体天皇ということになります。
    
初代神武〜第9代開化 …架空
    第10代崇神〜第14代仲哀 …崇神王朝
    第15代応神〜第25代武烈 …仁徳王朝
    第26代継体〜(現在)  …継体王朝
この古代王朝交代の跡は、『古事記』の随所で確認出来ます。
(不可解な系譜,複数の名前等)


Y 称号使用基準
 『古事記』を読み進めていくと、命・王・御子・太子・王子など、多くの称号があることに気づかされます。その中で最もメジャーなものは、「命」ミコトと「王」ミコでしょう。この称号の使い分け基準については、『古事記』本文に特に記されてはいませんが、やはりコトバである以上、何らかの法則性がある!というのが自然でしょうということで、「命」と「王」の使用基準について少し考察しておきたいと思います。
「命」は上巻(神の時代)から用いられている称号で、その使い始めは創世の夫婦神,伊耶那岐命
イザナキノミコト・伊耶那美命イザナミノミコトです。それまでは、全て天之御中主神アメノミナカヌシノカミのように「神」が用いられていました。「命」が神・大神・大御神に言い換えられている箇所,「神」と「命」がダブルでくっついている箇所がありますから、恐らく「命」は本来神に用いられていた称号なのでしょう。
 一方、「王」号が登場するのは、ずーっと後になってからで、中巻(神と人の時代)に登場する第9代開化天皇の皇子,日子坐王
ヒコイマスノミコで初めて用いられます。余りに突然なので、何で急にまた…といった感じです。これについて、江戸時代の国学者で『古事記』注釈書,いわゆる『古事記伝』を記した本居宣長は、このようなコトを言っています。

  
「一見この『王』号の現われ方は突然のように思ってしまうけど、
  よくよく考えてごらんよ。この『王』は“ミコ”と訓むのだよ。
  “ミコ”と言えばイコール『御子』じゃないか。要するに、昔は
  『御子』というコトバをあらわすのに『王』の字を使っていたわけさ。
  従って、この『王』っていう称号は上代では普通に『御子』の意で
  使われていて、余りにもごくごく当たり前のことなんで、わざわざ
  『古事記』の本文に但し書きしなかったってことなのさ。
  だってそうじゃないか、わかりきったことを書く必要なんて、
  どこにもないだろう?」


この宣長説は現代でも大変有効で、諸注釈書も宣長のコトバを引用しており、「王」号突如出現!について言及している本というのは…殆どないのではないでしょうか。ついでに、当時の法律(養老律令……718年成立、757年施行。701年の大宝律令をほぼ踏襲)を確認しておくと、以下のようになっています。

 
 天皇の兄弟,皇子は「親王」とする。それ以外は皆「王」とする。
  但し、「親王」の五世は、「王」という称号を用いてはいても、
  皇族とはしない(継嗣令)。

『古事記』成立は712年なので、とてもきわどいところですが、日子坐王などは天皇の子であるにも関わらず「王」と称されているので、特に法律を考慮しなくて良いのでは?と思われます。とは言え、「王」が高位の皇族ではなく、その他大勢の皇族を指していたという当時の人々の意識を窺うことは可能でしょう。日子坐王が出現する開化記以降、「命」と「王」が併用されるようになるのですが、それと並行して、「命」は次第にその使用範囲を狭めるようになってきます。その使用範囲の対象としては、大きく次の4つがあげられるのではないでしょうか。

@天皇、もしくは後に天皇となる人物
A天皇に準ずる人物(例:倭建命,上宮之厩戸豊聡耳命=聖徳太子)
B皇后、もしくは後に皇后となる人物
B皇后に準ずる人物(例:高木之入日売命,中日売命,
                  弟日売命,弟橘比売命)
  
*詳細については、いずれ掲載致します。

従って、「命」と「王」には使い分けがあるということになるのですが、これ以外にも、『古事記』における称号には、それぞれ深い意味が隠されているのかもしませんね。ちなみに『日本書紀』は、はっきりと称号の使い分けを銘記しています。それによると特に貴い場合は「尊」、普通に?貴い場合は「命」というそうです。


素材提供元:月球儀工房