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無名の美:Roland Kirkと棟方志功


  • 少し前に、Roland Kirkの「溢れる涙、The Inflated Tears」の中の「The Black and Crazy Blues」「これ、好っきゃねん」で採り上げた時に、ちょっと気になったこともあって、版画家、じゃなかった板画家の棟方志功の作品を少し図書館から借り出して眺め直した、というお話です。
    Roland Kirk
  • Roland Kirkは、小さい時の医療過誤で目が不自由になったジャズメンです。「自分の音」を求めて、サックスの古楽器に似たストリッチ、マンゼロ等を「発見」して、これを生かした演奏を聞かせました。その演奏は、ブルースの伝統に根ざしながらも、ジャズのイディオムを主体に、アヴァンギャルドな展開も辞さない、正に「独自の」としか言いようの無いスタイルです。恐らく、Thelonious Monkや、Charles Mingus等と共通するアプローチを採っていた、といえるのかもしれません。そしてその演奏の手段がかなり独特です。サックス奏者なら誰でもやる、ワン・ホーンで、ピアノトリオをバックにした演奏は余りありません。前記したストリッチ、マンゼロ等の楽器や、ノーズ・フルート、サイレンなどのキーを手探りで触りながら、何と同時に吹き鳴らすのです。下手をすると、ジャズメンではなく、チンドン屋と間違えられかねないアプローチを採るのが、この人の特徴です。聴けば直ぐに判りますが、当然ながら、チンドン屋とは全く異なる演奏です。更に、循環呼吸法を会得しているので、息継ぎの長ーい音群を聞かせる等、マルチ・リード奏者といっても、そこらのマルチ・リード奏者とは、これまた全く違うのです。これらが渾然一体となった演奏というのは、文字ではとても伝えられない、聴いて納得するしかない魅力を持っています。Nelsonもライブは見たことがありませんが、ヴィデオで見たことはあります。数種類の楽器を工夫して同時に吹いているのを見ると、「どうして、そこまでして、、、」という印象を受けますが、でも演奏自体を聴けば実にユニークで、しかも感動的です。そして、「これは、あぁでもしなきゃぁ演奏できないし、聴かせられない演奏だはなぁ」と納得できます。「眼が邪魔をする」というタイプのジャズでしょう。ジャズ曲と、オリジナルが主体の演奏は、強烈な体臭を伴っており、そのような汗、涙を出させるに至った過酷な体験を、エンターテイメントとしてのジャズに奇跡的に昇華させたような気がしています。正にジャズが必要としている「The One and Only」を地で行くスタイルです。
    棟方志功さん
  • 棟方志功さんは、青森市でこの人の美術館に行った覚えがあるので、青森の御出身でしょう。やはり独自のスタイルを持つ版画家です。Nelsonが最初に意識したのは、父が買った谷崎潤一郎の小説の装丁でした。今までにみたことのない版画で、仔細に見れば彫りは粗いのですが、それでも子供心に「えらい良ぇ版画やなぁ」と感じ入りました。翻訳すれば、「この人の版画には、凄い訴求力がある。こういう作品は、細部がキレイに彫れているかどうかでは無く、むしろガガッと彫り込む時の力強さを評価すべきであり、全体としての印象が大事なんだ」とでも言えばいいのでしょうか。それ程に強い印象を受けていました。ところで、棟方さんの家は、御商売が鍛冶屋さんだったそうで、子供の時から家業を手伝われていたようでした。父親の指示で運んでいた、鋳掛けたばかりでまだ熱い鉄器を床に落としてしまい、「何をしてるんだ。直ぐに拾うんだ。」と叱責されたことがあったそうです。「愚直な」子供であった志功さんは、反射的な動作でそれを手に持って運んだために、大やけどをしてしまったそうです。父親は、現場の勢いの中で叱ったつもりに過ぎなかったのに、まさかホントウに素手で運ぶとは、と反省します。そして、あらためて「この子はこういう度を知らない面があるから、叱る時にも気を付けねば、、、」と大いに悔やんだそうです。その後、志功さんは絵から版画に入り込み、御存知の通りに、最終的には文化勲章を貰うまでの芸術家になられました。その作風は、土着、官能、型破りなどのキーワードで語られますが、その中でご自身は「無名の美」ということを標榜されていました。そして、謙遜あるいは卑下の意味を込めて、自分の作品を「板画」と呼称されたそうです。方言丸出しの「わだば、ゴッホになる」という口癖にも、この人の側面が窺えます。
    自分の中から沸き上がる情念
  • 両者共に、異端というのが言い過ぎであるとしても、音楽学校や、芸大で勉強した、正統的な芸術教育を踏まえた芸術活動ではないと思えます。そういう正統的なスタイル、ではなく、もっと直截で、自分の中から沸き上がる情念をブッ付けるという感じだと思います。言葉でそういっても、音楽学校や、芸大は存在意義があるから存在している訳で、自己流というのは「言うは易く、行うは難し」です。しかし、このお二人は、その恐らくは孤独な研鑚の中で、「これじゃぁない」、「これでもない」、と彷徨い続けて、ついに「こうではないだろうか」というスタイルを築き上げられたのだと信じています。稀ではあっても、自己流がホンモノに繋がる、か細い道はあります。それを辿って行くことによって産み出された作品には、既成の概念を超えた圧倒的な迫力があります。志功さんは、強度の近視であったそうです。彫りこむ板に顔を擦り付けんばかりにして、一心に版画制作に当たっておられる写真があります。恐らく版画道からすると、こういう姿勢で作業をするのは邪道なのだと思います。身を清めて一室に端座し、おもむろに丹田に気を込めて、、、とまでは言いませんが、それなりの形がある筈です。でも、その写真に切り取られた志功さんの仕事ぶりは、志功さんが画題に肉薄し、集中されている姿勢を、モノの見事に表現している気がしました。描くべき対象、画材である板そして彫りこむ本人の、まったき一体化が、具体的にも、象徴的にもそこにあります。そこで、思い当たるのが、Roland Kirkです。Roland Kirkの演奏ぶりも、ただ事ではありません。数本の管楽器を同時に吹き鳴らしてハモラせた上で、その中の一本ではアドリブすらするのです。ヴィデオを見て頂かないと判りにくいんですが、Roland Kirkの一心不乱な演奏ぶりには、志功さんの仕事ぶりと通じる「止むに止まれない切迫感」が読み取れてしまい、お二人の芸術に打ち込む執念の凄まじさに撃たれてしまいます。そこで気付かされるのは、やはり、スタイルと内容の不可分性であり、お二人は正にそれを如実に肉体化された証左でもあります。
    崇高でもないが、捨てたものでもない「ニンゲン」の現実
  • 世の中には、Duke EllingtonやMiles Davisのように、誰もが尊敬する芸術家やジャズメンの一群がありますが、この二人はそういう権威や、尊敬とは無関係の方かもしれません。しかし、この二人の作品にこそ、人間的な真実があるような気もします。Roland Kirkの比喩において「チンドン屋」を挙げましたが、それは間違いであるとして、でも「平易な言葉で真実を語る」という困難にこの二人が挑戦していることも、忘れる訳には行きません。ライブでも、Roland Kirkは色んな要素が入り混じったゴッタ煮、時には醜悪、あるいは猥雑といえる程の演奏を聞かせています。しかし、そういう場を通して、またそういう雰囲気の中でもっとも生きて聴こえて来る、真実の露呈とでも言うべきものを感じるのは、どうしたことでしょうか。かしこまった、行儀の良い演奏からは感じ取れない、不真面目であり、かつ真面目でもある「ニンゲン」というこの困った生物の実態が、そこに表出しています。それ以上でも、それ以下でもない、崇高でもないが、捨てたものでもない、この「ニンゲン」というものの実像が、意外にも、こういう表現手法によって、掛け値なく、正直に描かれていると言えると思います。ジャズ界での位置付けとしては、「やはり野に置けレンゲ草」なのかも知れませんが、でも、そういう切捨て方では「ニンゲン」を描き出せない、というのがジャズの基本認識ではないか、という気がします。
  • 捨てゼリフ的に言えば、こうなります。「バークレィや芸大を出たからといって、人を撃つ芸術家になれるもんじゃぁない。」

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