Eric Dolphy --塀の上の歩行者そして椎名麟三--
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Eric Dolphyは、よく言われるような塀の上の歩行者なのか、と言うお話です。
Eric Dolphyの印象
- 何とも独特の、しかし魅力あるジャズを演奏するEric Dolphyについて良く使われる形容に、レンガ塀の上を、信じ難いバランスを維持しながら、塀の左右どちら側にも降りることなく、至芸の足取りで進んでいく、という言い方があります。塀の右側は従来のハードバップ、左側はフリージャズ、その境界でどちらか一方に完全に染まるということなく、その両方の均衡を巧くとって進んでいく、というのです。彼の演奏を聴くと、確かに聴きなれたハードバップとは違うし、かと言って彼の時代に見かけられたフリージャズとはまた違います。そして、この形容から想像されやすい「どっち付かずな」感は全くなく、堂々と、しかし他の人とはかなり違う独自のスタイルのジャズを聞かせてくれます。この形容に違和感を持つ余地が有るとすれば、Eric Dolphyの足取りを「塀の上の歩行なので危うい」と受け取っている向きもあるからでしょう。確かに、そう受け取ってしまいかねない表現です。以下にも述べるように、Eric Dolphyは結構キッパリとした演奏振りであり、それを危うそうだと思わせるのは当たりません。むしろ、こう言う方が当たっているのかもしれません。テレビのCMで、人や車が水面を移動していく映像が使われます。実は、水面直下に足場が用意してあり、その上を移動させてあのように見せているのですが、仕上がりとしては水上歩行に見えます。当然ながら、移動はスムーズであり、何の危うさも見て取れません。そして言うまでもなくこの制作者は、キリストだか、モーゼだかの奇跡の水上歩行を念頭に置いているのです。そう、Eric Dolphyの歩行は、そのような水上歩行者の自然さと、ある意味で奇跡的な巧妙さがない交ぜになっている点に大きな特徴があります。このようにEric Dolphyは、塀上歩行者ではあるが、音においても、その精神においてもかなり確固とした印象があり、奇跡の水上歩行の自然さを伴っています。
Eric Dolphyの演奏
- Eric Dolphyの演奏について、色んな人が色んなことを言っていますが、Nelsonはこう見ています。この人は、実に正統な楽器扱いをします。Phil Woods、Jessie Davis、Chris Potter等、そして一寸スタイルは古いですがNorris Turney等と共通して、楽器をフルに鳴らします。その強弱のアクセントが実に鮮明で、まるでエフェクターのエクスパンドを使っているみたいです。ブワッと吹く時に、大人にとっては小さくは無いにしても、大きくて扱いかねると言うほどではないアルトサックスという楽器の管が、本来の動作をしていると言う感じです。その共鳴部分全部が、「あァ、ボクはこんなに鳴れるんだ。こんな風に鳴らしてもらうと、何か体の中の澱が全部吹っ飛んで、気持ち良いや。温泉に入ったみたいだ。極楽、極楽。」と言っているようです。更に感嘆すべきは、そのアルトの音が決して割れることなく、スムーズな大音量なのです。Multi-reed Playerである彼は、フルート、バスクラにおいても楽器扱いは抜群です。そういう音出しであるとして、音の流れは、上記した人とはかなり違います。肉声とよく言われるように、何だか人が話しているというか、叫んでいるような吹奏です。この奇妙なシンコペーションは、余り例を見ないのですが、例えば名盤Pithecanthropus Erectus/ Charlie MingusでMcLeanやMontroseが挑む、猿から直立猿人への移行期の混乱をイメージさせるサックスの音を想い起される方もいるかもかもしれません。音程自体は、一寸聴きには外しているようでいて、サポートの音と聞き比べると、通常のコードの枠内にはまらない自由さがありますが、しっかり曲の流れとマッチした音を選んでいます。次にスィング感ですが、この人のスィングは通常の「乗れる」スィング感とは少し違いますが、大局的にはスィング感をキープしています。しかも、こういう大掴みで自由度の高いスィング感の人に良くあるように、実感するスィング感は結構強烈です。
もう少し具体的に
- このように、この人は50年代から60年代にかけての通常のハードバップの人とは、かなり異なるジャズを聞かせます。ある意味でバップをもっと判りやすくしようとしたハードバップの流れを踏まえているものの、「美しい音を聞かせる」というよりも、「本当の音を聞かせる」と言うのに近いのだと思います。例えば、You Don't Know What Love Is(1964)という恋歌がありますが、古今東西の名演が多いこの佳曲をEric Dolphyは例えようもないほど美しく聴かせてくれます。同様の佳曲、Like Someone in Love(1961)もため息が出る演奏です。更にWarm Canto(1961)でのフリギアン・モ−ドに乗せたクラリネットのソロや、やはりフルートのMiss Ann(1964)が好きな方も多く居られます。誰が聞いてもEric Dolphyだと直ぐ判る特徴を備えた上で、しかも楽しく、キレイな演奏がこのようにあった上で、例えばFire Waltz(1961)はどうでしょうか。これはその一か月前にMal Waldron名義で録音した(1961)事があり、その再演ということになりますが、更に熱気がこもっています。それに、Epistrophy(1964)や、Stormy Weather(1960)を聴くと、上記した「本当の音を聞かせる」ことを目指す演奏姿勢があることに同意頂けるでしょう。ここでは、怪異、奇矯、破天荒等という形容も頭に浮かぶかもしれませんが、それだけでは済ます訳には行かない、人間の真実を眼前にしたときのような感動と、魔力があります。本当、正直、感じたまま、と言うと、自動筆記(Automatism)的な演奏等を目指す場合もありますが、Eric Dolphyの「本当の」は、60年代に現れたフリーの人のアプローチとも違います。あのように、リズム、音程、和音等の約束なんかを完全に無視して、「出したい音を出すんだもんね」、というやり方ではありません。恐らくしっかりと修行をし、楽器の訓練も経てしまったので、聴衆との心の交流のあり方に結構堅い芯があるので、フリーの人のやり方には必ずしも賛成できないんだと思います。その方面の試みとしてOut to Lunchがありますが、それ以上の突っ込みはしなかったようです。(余談)それとこれは時々聞く話ですが、このように楽器をフルに鳴らすことを憶えた人は、その爽快さに淫するところがあり、演奏中に一度はフルに鳴らさないと欲求不満を憶えるそうです。良い悪いは別にして、肉体が求めてしまうそういう欲求もあって、フルに鳴らす人達にはスタイルを超えて、共通した演奏の展開が感じられます。
話ががらりと変わりますが、、、
- 昔、椎名麟三という小説家が居ました。世間的には、戦後派の文学者と言う事になるのでしょうか。姫路近辺の出身の人で、電車の運転手などをしていました。20歳になるやならずの時期に、当時は非合法であった「主義」に絡めとられて、運動家として地下生活をします。2年もしないうちに検挙、投獄され、獄中で実存主義と出会います。何か感じるところがあったのでしょうか、小説を書くようになり「深夜の酒宴」でデビューします。学生時代に読んだ記憶のある「赤い孤独者」、「深尾正治の手記」等々は、今読んでも、素晴らしい作品です。そこでは、正しいに決まっている筈の「主義」を問い直さざるをえない自分に気付き、そういう心の持ち方にもがき苦しむ心境が露呈されています。その苦しい申吟を伴っただろう執筆生活を経て、「邂逅」、「美しい女」の発表前後からでしょうか、キリスト者となられて、安寧の心境に至ったんだと思います。その変化に読者は敏感に反応し、その帰依を巡る結構な議論において、転向、Aufheben(止揚)、入信等々の言葉が行き交いました。その中で言われたことが、Eric Dolphyのケースと似ていました。
椎名麟三の模索と安寧
- 椎名麟三がそれまでに発表した小説は、同じくレンガ塀の上を、信じ難いバランスを維持しながら、塀のどちら側にも降りることなく歩み続けていく、という言い方が当てはまります。塀の左側は「主義」であり、右側は結果的にはキリスト者の世界です。元は塀の左側にいて非合法活動などをしていたのですが、その生活に居心地の悪さを覚えて、それを小説執筆の中で吐露していきます。小説執筆の時点で、椎名さんはもう塀の左側から、塀の上にあがってしまって居られたのだと思います。その位置から書かれた作品には実存主義の色彩が色濃くにじんでおり、高い評価を受けました。そして上記したように、「美しき女」執筆前後からキリスト者への傾倒を深め、その作品は何とも言えない「安堵」、「静謐」の世界へと変化していきます。そこで出された難詰が、「そのように宗教に安易に救いを求めてしまって良いのだろうか。」、「文学者としては右するか、左するかの瀬戸際をもっと深く究め続けるべきだろう。」というものでした。Nelsonにはこれ以上突っ込んだ説明は出来ませんし、ましてどっちが良いのかなどは分かりません。恐らく、芸術の真摯な探求においては、右あるいは、左してしまっている芸術よりも、中途半端との声があるとしても右と左の間でもがく姿を、小説において赤裸々に描き出すことが必要だ、ということでしょう。個人としてのその人が進む方向を求めて呻吟し、トコトン納得するまでは孤独に模索すべきであろう、という議論だと思って、一応納得してます。ジャズのサイトにしては唐突だと思われるかもしれませんが、椎名麟三が右でもなく、左でもなく模索し続けた状況、それと似た状況にEric Dolphyも一時は身を置きました。同じ芸術家としてジャズの分野で、彼は当時隆盛を極めたハードバップにも飽き足らず、更に率直なジャズを追及しました。と言っても、簡単にフリージャズに行ってしまうのではなく、ハードバップの変形としての、奇妙に見えるかもしれないけれども、自分の肉声をストレートに伝える方法があるはずだと模索しました。そして、独自のスタイルを編み出して行く事に果敢に挑み、幸いにもBooker LittleやJohn Coltraneと巡り会えたことにより、それを成し遂げた。だからそれから40年近く経とうとする今も、我々はジャズと言う形式を通して聞こえてくる彼の肉声に心撃たれるのではないか、と思っています。
塀上の歩行者
- 必ずしも全ての芸術家がそうであるとは限りませんが、一般常識では明快なことであっても、自分の生き方においてそれ程簡単に決着してしまうことをよしとすべきでない場合があります。例え優柔不断、中途半端、との批判があっても、どのように考え、どこに逡巡し、どうしたいのか等を提示していく作業が芸術においては必要です。決め打ちしてしまえばそれで気は楽になるでしょうし、もう夜も眠れないと言う事はなくなります。しかし、納得しないまま単純に早急な決着のみを急ぐ事は、少なくとも芸術の世界では無意味です。椎名麟三は、彼なりの作業を経て、納得の境地に至ったのでしょう。そこまで来れば、それは人それぞれです。そして、Eric Dolphyのように、細いかもしれないし、誰も通らないかもしれない一本道、けもの道を自分の感覚だけを頼りに辿っていく、そう言う彼のジャズもそれなりの範囲の人々の心を捕らえ続けるに違いありません。キレイなジャズが嫌いではないNelsonも、そのようなEric Dolphyの演奏から聞こえてくる、或る男の肉声、その「本当の音」に、抗し切れない魔力を感じる次第です。
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