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 ペイント名誉毀損みつめメモ読書録リンク集

読書記録:読書感想あるいはメモ



憲法

『憲法はむずかしくない』 池上彰著 ちくまプリマー新書 ¥760 

 憲法論議が盛んになり、まずしっかり考える必要があるというガイド本。
 イラクなどを例にとり、どのように憲法ができるか書いている。
 法律はひとりひとりが守るべきもの、憲法はその国の権力者が守るべきもの。そもそも憲法は、国家権力を制限して、国民の自由と権利を保障するもの。
 では、日本国憲法は押しつけ憲法と言われているが、憲法は日本の学者たちの改正案がベースになっている。あるいは、日米間で激しい議論の末に日本側の意見が通ったことなど、また、その後の国会審議で、内容が変更されたこと。さらに国民の代表である国会議員によって承認されたことなどをあげ、必ずしも「押しつけ憲法」とは言えないとしている。
 憲法には変えられないものもある。それは国民主権の基本原理。また、基本的人権と平和主義も変えられないというのが定説だそうだ。日本国憲法全文あり。


『日本国憲法』 講談社学術文庫 ¥560

 読みやすい大きな字で、日本国憲法、大日本帝国憲法、教育基本法、児童憲章、英訳日本国憲法が載っている。



『憲法九条、いまこそ旬』  岩波ブックレット  ¥480

 2004年6月10日、憲法「九条の会」を九氏で発足させた。
 井上ひさし、梅原猛、大江健三郎、奥平康弘、小田実、加藤周一、澤地久枝、鶴見俊輔、三木睦子。
 発足に際しての声明では、かつてない規模での憲法改正の動きに対し、「日本と世界の平和な未来のために、日本国憲法を守るという一点で手をつなぎ、「改憲」のくわだてを阻むため・」となっている。
 「「九条の会」発足記念講演会」の講演記録に、それぞれが加筆したもの。
 井上やすし氏は、憲法は私たち主権者がときの政府に対して命令するというもの。それで、ときの政府が国民に命令するのが法律。その法律をみて、それが憲法に違反していないか判断していくのが最高裁判所という。
 その国民の政府に対する命令の中心になるのが、第九条だ。1928年のパリ不戦条約の条文が、そっくり九条に移っている。この戦争放棄に関する条約の黒衣となって一生懸命働いたのが、日本の外務大臣・幣原喜重郎。日本は国際連盟の常任理事国だった。四十カ国以上の国際連盟の加盟国の総意が、戦争放棄に関する条約、パリ不戦条約になった。だから、憲法九条は押付けでもなんでもない。
 小田実氏は、その幣原喜重郎がマッカーサーに会って、全ての戦争を否定したい、そのかたちで憲法を考えたいと話したときに、マッカーサーは「わかった」と応じたという。戦後小田氏は、マイクロフィルムでアメリカの新聞を見た。戦中の1945年、沖縄が陥落するころ、軍も住民もみんな自殺した。アメリカの女性の夏のファッションの横に、小さく「日本の女性はみんな戦え、死ぬまで戦え」という日本の司令官の記事があった。これがアメリカだった。マッカーサーは「日本人はみんな十二歳の子供」といって民主主義を持ち込んだ。しかし、それはアメリカの民主主義とはちょっと違ったものになった。日本人は民主主義と平和主義とを結合させた。それが平和憲法だ。これは日本独自の、世界に例がないものだ。
 また大江氏は、憲法や教育基本法が、どういうときに書かれたかを問う。身近に死者の記憶をもつ、多くの国民は、感情として、新しい国家の民主主義と平和主義の秩序をつくることを願っていた。それを同じ気持ちを持つ日本人同胞に向けて書かれたのが、憲法であり、教育基本法だと。その書かれたときを、哲学者・ハイデッガーの『存在と時間』から引用している。「人間は自分たちが死ぬべきものだということを認識するとき倫理的になる」と。それは憲法、教育基本法の「希求する、希求し」という言葉に表れていると。
 確かに書かれたときを考えると、改憲など考えようもない。終戦後の国民が、どれほど平和を望んだことか。現代は物質的には繁栄はしているが、心は荒んでいる。ライブドア事件、耐震偽装問題、振り込め詐欺など、全てがペテンだ。小泉総理の主導した郵政解散選挙なども、テレビを使ったペテン選挙だった。この時代に先行者の思想を超えることは困難であり、受け継ぐのは当然の選択だろう。時を考えれば、改憲は悪にしかならないだろう。
(06年4月16日)

『憲法を変えて戦争へ行こう という世の中にしないための18人の発言』 岩波ブックレツト  ¥500

 憲法改正論議への簡単だが、重要な18人の発言。
 憲法改正へは、たとえばこの本は、どこの国でも軍隊もっている、などの雰囲気で入っていく。今の日本の状況を良く捉えている。
 半藤一利氏は、大岡昇平の「戦争を知らない人間は、半分子供である」という、その半分子供が、わが周辺には多くなったという。それは戦争体験の有無ではなく、戦争に対する深い洞察と想像力の欠如している子供である。
 アフガンでの医療活動を続けている中村哲氏は、実際に戦争をしない国・日本の人間である、日本人である、ということに守られて仕事ができたということが、数限りなくあったと。太平洋戦争の際も、「大東亜共栄圏」を唱え、いわば「国際貢献」を旗印にした。日本があの憲法を受け入れたのは、自国民300万人、アジア全体では2,000万人という、大きな犠牲を払った上での一つの結論だった。改憲派は「日本人自身でつくる憲法を」というが、それこそ日本人のご先祖様に失礼だ。
 原爆の被害にあっている美輪明宏氏は、ずばり言う。「戦争を放棄する」という憲法ができて、どれだけよかったか。正義の戦争なんてない。日本人のどこかのバカな人が、寄ってたかってつくるより、はるかに現憲法はいいものだ。いまの政治家は戦時中の軍人と同じです。そういう連中が、憲法改正といって、また日本を戦争に引きずり込もうとしている。アメリカがつくった憲法なら、アメリカは日本に戦争をしかけてくるわけにいかない。それが改憲派の政治家にはわからない。美輪氏が戦時中に見てきた、人間性を踏みにじった悲劇がまた始まろうとしている。
 ピーコ氏は、小泉政権になり、自衛隊のイラク派兵など、どうみても戦争への道を歩いていると憂慮している。日本は憲法九条のおかげで、戦争で誰一人も殺さなかったし、殺されもしなかった。憲法の素晴らしさを再認識すべきだと。
 劇団を主宰する渡辺えり子氏は、人を殺してもいいということは自分も殺されていい、自分の家族も殺されていいということだという。そう思う人だけが、改正に賛成すべきだと。ご自身は反戦活動家ではないが、それを大声で言えなくなっている今の日本は異常だ。こういうことを言うと仕事がなくなると。すでに戦前のニオイがするでしょ?マスコミだって過去の過ちをまた繰り返しているわけです。
 大学教授の森永卓郎氏は、知人のイラク人が新憲法をつくろうと、世界のいろいろな法律を見たけれど、日本の憲法が一番良くできていると言われたそうだ。氏は憲法九条を、世界でもっとも美しい法律の条文と思っているそうだ。
 確かに現日本国憲法は、世界の最高の頭脳のまぎれもない結晶であり、今の与党の人間がつくる憲法とは、すべてにレベルが違う。人類の至宝ともいうべき憲法を、おかしなこじ付けで壊したら、世界の恥だ。
 この小冊子には、国民投票や九条をめぐる動きについても載っている。
 



 メディア


 『テレビの罠』コイズミ現象を読みとく  香山リカ ちくま新書  ¥680

 なんか、ちょっとヘン!コイズミ劇場、刺客、くの一、ホリエモンブーム、心霊占い・・・・・・。「罠」を仕掛けているのは誰だ!?

 2005年、衆議院選挙に自民党は大勝した。郵政解散選挙だ。著者も自民党に一票を投じた一人である。
 自民党の議席は296。民主党113。公明31。その結果に、多くの国民は驚いた。しかし、選挙後の世論調査では、自民党が勝ちすぎた不安が多く寄せられた。
 本書では、様々な角度から小泉劇場の分析を試みる。
 影で世論を操作したわけではないが、テレビが一役かったのが、むなしいという人もいると。小泉総理をヒトラーに喩える人もいる。
 テレ権力について、デリダを引用し触れている。
 「テレビを視聴するときは、誰が権力を持ち、誰が決定し、誰が何を選択し、選別しながら」見ようと。
 社会がフラットな世界になり、視聴者は小泉劇場に快哉し、権力と一体化し、時には「マンション耐震偽装問題では」権力を攻撃したりする方に回る。ここにこそテレビの罠があるという。
 人々はテレビに失望し、なおもそこから離れられないとし、それがテレビだという。

 韓国の「ES細胞捏造事件」ではテレビの大きな力があつたという。追求し続けたのは、韓国の民放のひとつの番組だったという。そこで「国益と真実は一致する。長期的国益は真実を常に語ることでしか、守ることはできない」とし、「テレビの罠」を「テレビの夢」に変えることができるだろうと、自問している。

 テレビは真実を追求し続けるところに、その存在意義があるということかもしれない。それを放棄すれば、テレビは視聴者には罠にしかならないということだ。

引用書 『テレビのエコーグラフィー  デリダ<哲学>を語る』 原宏之訳  NTT出版  2005年
(06年3月27日感想記す)
 

『テレビの嘘を見破る』  今野勉  新潮新書  ¥700

 この本はやらせと思われる事件を巡って、制作者と視聴者の議論の溝を埋めるために、試みられたもの。
 視聴者側からみれば作為であるものが、制作者から見ればテレビ界の常識になる。母子象のCM、北極グマの撮影などの例で、作為=工夫を紹介している。さらに演出=工夫を、やらせと背中合わせと考えられるものを3例取上げている。
 ここから再現映像のどこが問題なのかを具体例をあげている。著者はディレクターとして、10年ほど「七人の刑事」、40本ほどの「遠くへ行きたい」など制作している。
 「遠くへ行きたい」では、頼みもしないのに長野村民の自主的な協力で、結婚式の模様を全て演技で再現し、撮影できた。
 ドキュメンタリーの再現は、真実を伝えるためには使うべきだ。あるいは、物事の本質を見きわめ、表現すべき目的を明確にきめ、その上で目的が正しければ、そのための手段は何でも許されるという意見もある。
 ネパール自治区の人々の生活や風習を描いた、NHKスペシャル「禁断の王国・ムスタン」のやらせや虚偽を検討している。これら内部の人の常識は犯罪とみなされた。しかしこれらの社会倫理は時代とともに変化する。沖縄の島の旱魃を描いた「水と風」の、一頭の牛が乾きのあまり、海に入っていくシーンでは、牛をロープで括って引っ張った。こういうことをマスコミが知っても、当時批判はなかった。
 やらせは見破れないという。依頼され合意の下で暴走する少年、看護婦にアンケートをとるコーナーも実は看護婦ではなかった。やらせは一般の視聴者には見破れないそうだ。そう指摘した人は、ひとりもいないそうだ。
 やらせと報じられた「最後の漂海民サマ族・国境のない人々」は、風俗や慣習や文化の典型を映像として記録しようとするもので、記録の資料性が眼目だ。
 国によっても考え方が違う。再現を含むドキュメンタリー作品「黒い収穫」が国際映画祭の大賞を受賞した。ポール・ローサの『ドキュメンタリー映画』には、映画連盟が十四カ国の連盟で発表したものがある。
 「ドキュメンタリー映画とは、事実の撮影または真実なかつ正当な再構成によって、‥‥」となる。
 ドキュメンタリーの事実は、正確でなければ、見るものが間違った判断をしてしまう。操作された情報は、資料価値も商品価値もない。
 そこで子供の頃から学校で、メディア全般のイロハ(メディア・リテラシー)を教えるべきだ。そこから制作側と見る側が事実を通して、喜怒哀楽を共有する、それが原点だろうと著者は語る。

 この本は一読に値する。例として検討されている部分だ。再現の記録の資料性というが、再現には憶測や、作り手の意図的な作為が入りやすい。
 おしゃれ事件のことを考えると、視聴者には見破れないというのは、私も確認している。私の抗議文がテレビ側に届いたと見られるとき、テレビ側がどれほど度肝を抜かれたか、見て知っている。そして視聴者に見破れないという前提が、おしゃれ事件を生んだことも。(06年4月6日)



天才

『天才はなぜうまれるか』  正高信男  ちくま新書  ¥680

 
 
天才の個性を彩っている独創性は、ある能力の欠如による結果として、生み出される場合が多い。
 広義の意味での、学習障害を持って生きた6人の物語を紹介。
 知的障害のかなりのものが、遺伝性である。天才は、障害があったからこそ、後世に名を残すことができた。健常者の生は画一的であり、どんぐりの背くらべである。しかし、障害者はそうではない。
 エジソンは小学校入学当時、典型的な落ちこぼれ生徒だった。一定のレベルに達しないエジソンは、学校に行くことをあきらめざるを得なかった。彼は注意欠陥障害である。次から次へと違った対象へ、注意を移動させていくことが、困難なのである。一ヶ所に注意が釘づけになり、ボーとしているように見えた。
 しかし、いったん注意が向くと、そこに集中してしまう。目標に対して頑張り、働きに働き、それでいてくよくよしないのは、注意欠陥障害の光の部分である。電球のフィラメントの材質を求める執着心は、障害の裏返しだった。
 アインシュタインは特殊相対性理論を発表した当時、他の物理学者との交流はなく、研究者としての環境に生活していなかった点を考えても、彼の天才ぶりがよくうかがえる。
 ボーと自失状態で長い時間を過ごす事も珍しくなかったのだろう。周囲からすれば、ただの怠惰とも見える生活態度が、相対性理論を生む温床だったのである。しかも彼は一貫して落ちこぼれであった。秀才ではなく、のろまなやつと呼ばれ、クラスでは異端児扱いされていた。暗記科目は成績が悪かった。得意科目は数学とラテン語で、後はダメだった。
 彼の障害は、基本的には言葉の理解にまつわるものだった。彼の脳の標本から判断すると、読み書きと計算の学習が困難であるという、狭義の学習障害であったと考えられる。相対性理論は思いついても、九九はできないのだ。
 今の学校制度に即すればレオナルド・ダ・ヴィンチも落ちこぼれだった。読み書き計算が勉強の原点かもしれない。しかし、本当の学力というのは、漢字を正しく多く書けたり、英語の難しい本が読めたり、計算が間違いなくできたりすることとは、あまり関係していないという事実を、二人の障害は示唆しているのかもしれない。
 レオナルドの写実への傾倒を支えていたのが、自分の見たままに表現したいという熱望だった。馬や人間の死体を切り開く姿に、怖気をふるう一般人に、これこそ神を知る唯一の方法と言い放ったときに、彼はルネッサンスのヒーローになった。障害を負っていたからこそである。
 彼の行った解剖は、形態学として生命科学の根幹をなすものとみなされるようになった。やがて神の支配に引導を渡し、人間が主役という時代を作り出した人物、万能の天才という虚像がつくられた。
 他に、アンデルセンは、ラテン語をマスターするのに、文法障害があった。
 グラハム・ベルは自閉症で、他者と情緒的に感応したり共感したりすることが、非常に困難であった。
 ウォルト・ディズニーは多動症だった。計算はできない、文字もろくにつづれなかった。しかし、大道芸のようなものには、天賦の才があった。
 6人の事例から、これらは遺伝的な要因によって、誰にでも起こり得る可能性がある。
 こうした多様な知的障害はサルでは見ることができない。人特有のものである。知的能力には多様な面があり、計算が得意でも、音楽はまるでダメという例がでる。しかし、障害を持ったゆえに、能力が開花することを無視してはならない。
 6人の人生を考えると、彼らの成功に、学校教育が何らかの貢献をしたケースは、どれひとつもなかったことである。わが国は教育水準は高いが、悪い意味で、どんぐりの背くらべの子供を育てる、風土を作ってきたのかもしれない。

 天才を彩る独創性は、ある能力の欠如による結果として、生み出される場合が多いということである。
                                       06年3月31日


  

『天才の勉強術』 木原武一  新潮選書  ¥1,000

 天才とは学習の産物である。少なくとも,ものを学ぶ楽しさを体験した人の中からしか天才は生まれないだろう。
 偉大な思想家や芸術家、世に天才といわれる人々の多くが共通して持っているものがある。それは孤独であることを好むということだ。
 「孤独は天才の学校である」とイギリスの歴史学者エドワード・ギボンは言っている。アインシュタインも「自分自身のなかへ閉じこもりたいという欲求は、年とともに深まるばかりだった」と言っている。
 ニュートンは他人はもちろん、女性にもまったく関心を寄せることがなかった。そのことについて、フランシス・ベーコンは「確かに、最良の仕事、社会に対して最大の価値のある仕事は、結婚をしなかったり、あるいは子供を持たない人たちから生まれている」と。
 ダーウィンは『種の起源』を発表するのに、相当慎重であったようだ。聖書の教えに反する宇宙論を発表して火刑に処せられたジョルダノ・ブルーノのことも頭にあったに違いない。「かっての天文学者の受けた迫害を銘記せよ」とダーウィンはノートに記した。
 前人未踏の世界を開拓し、人々に新しいものの見方を開いた人物を天才とすれば、パブロ・ピカソはまぎれもなく天才であった。キュビスムといわれる画期的な方法で絵を描いたそれは、制約や束縛を敏感に感じとって引き返すのが凡人だとすれば、平然と境界線を乗り越えて進むのが天才であると言える。
 私も孤独が好きだ。超音波盗聴機の性能について、ダーウィンを倣っているのかもしれない。昔は殺されたが、いまもその考え方は変わっていない。天才はやはり勉強した。天才の勉強術を学ぶことは、普通の人々にも、大いに役立つことである。



 話題本

  

『国家の品格』  藤原正彦  新潮新書  ¥680

 国際化というアメリカ化に、日本人は、日本の誇るべき国柄を忘れてきた。論理的なことだけでは、たとえば、「なぜ人を殺してはいけないのか」などの説明はできない。
 自由、平等、民主主義を疑ってみる。現代社会の当面する、苦境の真の原因は、論理とか合理に頼りすぎてきたことによる。
 では、どうすればよいか。
 日本に古来からある、「情緒」あるいは「形」を、見直してみよう。
 日本人の自然に対する感受性、日本人の無常観は、もののあわれになった。桜や紅葉の繊細さ、四季の変化の豊かさ。
 情緒を育む、精神の形として、武士道を復活すべきだ。
 武士道は鎌倉時代以降、多くの日本人の行動基準、道徳基準として機能してきた。江戸時代に、武士道は武士道精神へと洗練され、物語、歌舞伎などを通して、町人や農民にまで行き渡った。加えて禅や儒教、神道などに融合し、武士道精神へと昇華させた。
 ここで本書は新渡戸稲造の「武士道」を紹介。武士道の最高の美徳として、「敗者への共感」「劣者への同情」「弱者への愛情」を取上げる。美意識にも触れ、本居宣長の有名な歌、「敷島の大和心を人問わば 朝日に匂ふ山桜花」と引いている。
 国家の品格を取り戻すためには、底力がなければならない。
 その指標として、天才はどんな条件で生まれるかというと、
 第1は美の存在。第2に何かに跪く心があること。第3に精神性を尊ぶ風土。
 日本には美しい自然があり、神や仏に跪く心がある。役に立つものとか、金銭を低く見る、風土がある。
 武士道は、正にそうです。
 ここ四世紀ほど、世界を支えてきた欧米の教義は、ようやく破綻し始めた。世界は途方にくれている。
 品格ある国家の特徴には、どんなものがあるだろう。一番目には、自らの意思に従って、行動のできる独立国ということ。現代日本はほとんどアメリカの植民地状態にあり、この条件を満たしていない。二番目は高い道徳。しかし、これも金銭至上主義に痛めつけられている。三番目は美しい田園。これもすっかり荒らされている。四番目は天才の輩出。これも市場原理主義によって、ずたずたにされている。
 日本は金銭至上主義の国々とは、一線を画す必要がある。たとえ経済的斜陽が続こうと、孤高を保つべきだ。
 時間はかかるが、この世界を本格的に救えるのは、日本人しかいないと、著者は結んでいる。

 著者は御茶ノ水女子大学教授。作家新田次郎、藤原ていの次男。
 武士道精神を持てというのは分かるが、この本の出版前に新渡戸の「武士道」が注目された。
 武士道は、現代では、一つの完結した生き方だろう。私も共感するところはあるが、超音波盗聴機以前ならまだしも、今では心は動かない。ただ新渡戸稲造は、英語の勉強をするにも、参考になるものである。新渡戸『武士道』にも、また戻りたいものである。


『半島へふたたび』 蓮池薫 新潮社 ¥1,400

 孔枝泳(コンジヨン)さんの口から出た答えは明快だった。
 「もっとも大きな罪は、当然誰かの生命を奪うことです。その生命とは包括的なもので、単純に生物学的な生命だけでなく、二十四年間の他人の自由を奪うようなことも殺人と考えます」
 こんな対談のさなかにも、孔枝泳さんは僕のことを気遣ってくれる。




山本周五郎の名言

 私を励ましてくれるものを選んでみた。他にもいいものがある。

 人間は無意味に生まれてきたのではない。現実はいま誤った方向へ動いているが、その支配から抜け出して、本来の生き方にかえれば、充実した意義のある人生を、掴むことができる。 ―山彦乙女―

 「生きることはむずかしい、人間がいちど自分の目的を持ったら、貧窮にも屈辱にも、どんなに強い迫害にも負けず、生きられる限り生きてその目的をなしとげることだ、それが人間のもっとも人間らしい生き方だ、非常に困難なことだろうがね」 ―天地静大―

 「人間は生まれや育ちは問題じゃない、生まれや育ちよりも、いまなにをするか、これからなにをしようとしているか、ということが大事なのだ」 ―花も刀も―

 人はときによって、いつも自分の好むようには生きられない。ときには自分の望ましくないことにも全力を尽くさなければならないことがあるものだ。 ―ながい坂―

 「この世はなにもかも闘いだ、相手をたたきふせるか自分がたたきふせられるか、どちらか一つだ、自分を信じ、自分を強くしろ、世評などに惑わされて人を信ずるのは、それだけですでに敗北者だ、しっかりしろ」 ―樅ノ木は残った―

 「人間が正しく生きるためには勇気が必要であります」 ―寝ぼけ署長―

 人間はしばしば、見ることのできない、何かの力、何かの意志、といったものに支配されることがある。 ―樅ノ木は残った―

 「人間は一生にいちどは断乎たる行動をとるべきだ」 ―彦左衛門外記―

 人間はいつも意志によって行動するものではない。 ―季節のない街―

 「この闇夜には灯が一つあればいい、だがわれわれにはその一つの灯さえもない」 ―樅ノ木は残った―

 「大切なのは為す事の結果ではなくて、為さんとする心にあると思います。その心さえたしかなら、結果の如何は問題ではないと信じます」 ―「新潮記」早水秀之進―

 「あやまちを犯す人間は、たいてい責任をひとになすりつけるものだ」 ―醜聞―

 「人間は弱いものだ、罪を犯した者が、その犯罪を隠蔽するために重ねて罪を犯す、‥‥初めに犯した罪をつぐなう勇気のない者は、必ず次ぎ次ぎと、段々に重く、大きな罪を重ねてゆく、そこに弱い人間の悲しさがあるんだ」 ―はたし状―

 人間の一生は、思わぬ災厄や悲嘆や、困苦なしには済まないらしい。 ―雨の山吹―

 多くの患難を経ざる人間は慶福をもたらすことが出来ない。 ―断片・昭和25年のメモより―

 「よしよし、眠れるうちに眠っておけ。明日はまた踏んだり蹴ったりされ、くやし泣きをしなくちゃあならないんだ」 ―季節のない街―

 「なんであろうと、人間が本気でやることはそのままで立派だ、人のおもわくなど気にするな」 ―虚空遍歴―

 「生きることが目的ではない、死ぬことが終わりではない、生死を超えて生きとおす信念、なにものが亡ぶとも信念の亡ぶることはないのだ」 ―荒法師―

 「罪は人間と人間とのあいだにあるもので、法と人間とのあいだにあるものじゃない」 ―栄花物語―

 「人間は正しく生きようとすると、とかく世間から憎まれるものです」 ―武家草鞋―



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