日本兵になった台湾人




大日本帝国陸軍二等兵 黄さんの記録
日本兵になった台湾人

夏は盛りです。最近、戦争について尋ねられる事があります。会社によくお見えになる黄さんという先生から日本兵として第二次世界大戦に参加したお話を聞きました。皆様にお伝へいたします。


空襲
昭和18年11月よりアメリカの台湾空襲が始まりました。19年の10月頃から空襲がよくあり黄さんの住んでいた花蓮にも爆弾が落とされたのです。黄さんは日本時代台湾放送協会に勤務していました。放送局付近は町から遠のいているのか不思議に被害はありませんでした。台湾中のラジオ局で銃撃を受けたのはタミオ局だけです。今思えばアメリカの飛行機はラジオの電波の発信源をたどり飛来して来たのではないか、そのために放送局を爆破することはなかったのではないかと想像するのだそうです。

昭和19年よりアメリカのP38やグラマンがたびたびやってきて台湾を機銃掃射をしました。
台湾の田舎家は土レンガの家がほとんどでした。弾はレンガを通過して隣の家まで打ち抜く強力な弾丸でした。特に牛車を連ねた軍事物資輸送の列などが狙われ何回も何回も執拗に銃撃攻撃されたものです。


日本時代の内地人と台湾人

当時黄さんのお父さんは消防団に加盟していました。日本時代の日本人と台湾人の関係は特別でした。黄さんのお父さんが防空警報を聞いてから集合場所に駆けつけると、隊長の日本人から「どうして遅れたのだ。」と激しく殴られたのです。日本人の団員が少しくらい遅れても問題にはならなかったのですが台湾人には厳しかったのです。日本人が台湾人を殴ることはよくある時代でした。


青年訓練所

昭和18年に台湾の人々にも昭和20年より徴兵制度が引かれる事になると布告がでました。布告に伴い今までの志願兵訓練所は青年訓練所となりました。徴兵制が実施されるまでは試験に合格した者が青年訓練所へはいり訓練を受けました。黄さんはこの訓練所に昭和19年11月に入隊しました。


出兵

訓練が終わり、家に帰り3日後に戦争が激しくなった昭和20年11月に警官と役所の人が家に来ました。そして召集礼状を「おめでとう。」と警官から渡されました。役人からも「おめでと
う。」と奉公袋を渡されました。その中にはタオル1本、靴下1、歯ブラシ1本、石鹸、歯磨き
粉が入っていたのです。またスルメ1本、清酒たぶん5合?(1升ではなっかた、1合より多かったと覚えている。)を戴いたのですがこのスルメと酒はお腹が空いているといってもすぐに食べてはいけません。翌朝、襷をかけた黄さんの出兵祝いを近所の人が万歳と出征を祝う時に振舞うためのものです。この見送りの後、家に入ったおかあさんは泣いたとあとでお姉さんから聞きました。


配属

昭和20年2月に大日本帝国陸軍二等兵として南投県に赴任しました。食事は乏しく毎日ひもじい思いをしたそうです。食べ物のことは今でも覚えているそうです。戦争が激しくなると物資統制が始まりました。当時の配給は日本人が一日米三合3、国語家庭として認められた台湾人の家庭(名前を日本風に変え、日本語を家族でしゃべれる家庭で台湾人の中でもごく少数です。)は3合、台湾人家庭は2合8と決まっていました。当時のことを振り返り誰もが不公平であり理不尽であるのはこの配給の差だと言います。一日少しの差ですが、一ヶ月の一家族では大きな差が出てきます。ひもじい時の恨みはなんとも忘れがたいものなのです。


終戦

8月に1週間の休暇がでました。黄さんは花蓮港に帰るために高雄経由の旅に就いたのでした。
ぼう寮という駅で世を明かしましたが明け方、ポツダム宣言受諾という地方紙の号外をみました。闇の中、カンデラで照らしたポツダムという名前はいったい何の事であるか解りませんでした。当時の人々はポツダムという名前は何の事か解らなかったのです。

休暇で花蓮港につき、翌日勤務先のラジオ放送局に出かけると、いったい何の服を着ているのだと言われたのにはビックリしました。「名誉ある陸軍二等兵」の服ではありませんか、誰に尋ねても教えてくれません。こっそり同僚の台湾人が戦争は終わりだと呟いたのです。


玉音放送が放送されました。放送局で当時最優秀だった三田無線のデリカ短波受信機で玉音放送を聞いたのです。電信局の所長もラジオ局の局長も集まって聞きました。そしてみんなが泣いたそうです。

黄さんは休暇もちょうど良く終わり部隊に戻ります。(部隊の上層部は終戦と知っていたのでしょう。)部隊では兵器の処理におわれています。銃身にある菊のご紋章をグラインダーで殺ぎ落としたり、兵器の数を点検したりして封印しました。あわただしく、部隊解除となり母のいる家にと帰りました。


日本の人々の戦争時代の手記なども、これとほとんど同じ体験をしている人の事が書かれています。黄さんは日本人として戦争を過ごしたのです。

戦争の給与はみな軍人貯金にとして預けてあったのですが、終戦後台湾は中華民国となり軍人貯金は引き出すことができなくなりました。

戦後処理
日本時代の銀行、保険、軍人貯金を交流協会が払い戻すということになりました。黄さんは申請にでむきましたが現在まで2年間なんの連絡もないのです。其の後電話して問い合わせましたが処理がまだ終わらないとの事です。結局現在に到るまでなにも受け取れることはありませ。
黄さんは日本時代の構築(技術的システムや社会の構造)が大好きです。そして日本人の礼儀正しさも大好きです。しかし、私たち若い年代は不思議でたまりません。日本兵となり苦労してそれに報いない日本国。年金や軍人年金を申請してもなんの音沙汰もない日本。私が「酷いのではありません?。」といういと黄さんは「しょうがない。お金は100円にも満たないだろう、当時の二等兵の給与なんてたかが知れている、もらっても使えるところはなかったよ、だから無価値の金だ。それより私は自分がどのような軍に所属していたか忘れてしまった。部隊の軍事上どのような位置にあったのか、軍籍番号はなんだったのか知りたい。稲葉部隊ということ以外忘れてしまった。その事を教えてくれてと頼んだのに一向に教えてくれない。」と悲しそうに呟くのでした。

どうして黄さんは日本時代を恨む事無く日本が大好きで日本語を話す事が好きで日本の各地名産品や銘菓の名前を知っているでしょうか?

考えます、たぶん黄さんにとって日本を好き嫌いと思う以前に、自分は日本人であるのです。これが疑問への回答であるのだと思います。黄さんは日本人だったのです。

日本の皆さん、アジアには台湾のみならず自分は日本人であると思っている人々がたくさんいる事を少しは思い出してください。

写真は、黄さんが花蓮よりお持ちくださってから掲示します。



日本の厚生省資料によると、台湾で6万人の軍人預金が未払いであるそうです。

http://www.mpt.go.jp/pressrelease/japanese/kani/1216j401.html



田中さんの国際ニュース解説の中国語版ができました。
は専門的見地で切れる記事です。是非読んでください。
http://www.tanakanews.com.tw/


台北のライヴカメラは稼動しています。
http://www.hoops.ne.jp/~taiwan/



謝怡芬 
by Hsieh Yi-Fen
 
謝謝訂閲、敬請批評與指教・ 
ご高閲ありがとうございました、ご意見、ご要望をお待ちしています。

翻訳 安西 まりりん

夏の午後



いまでも台北にある防空警報
避難方法のポスター
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