弱者の肉を喰い千切り引き千切り、咀嚼して嚥下し、吸収して生き延びる。
それが強者の掟。
そうして。
朽ち果てて弱者の糧となる。
それもまた掟。
――唯一絶対の。
視界を灼く強烈な閃光に冷や汗をかく機能すら失われて既に久しかった。ただ惰性だけで動くような身体を
必死にコントロールして、生き延びるためだけに操縦桿をひねっていく。べっとりとねとつく汗に濡れた手が滑り
上手く動かないのが忌々しかったがそれに舌打ちする余裕も無い。
幾ら飛ぶことに憧れてもそしてその翼を得たとしても、鋼鉄の翼の中のパイロットの身体は無重力の環境に
耐え得るようにはできていない。単座式戦闘艇スパルタニアンのパイロットシートには無論地上と同程度の
重力が存在する。翼が重力からの解放を得たとしても。
結局は重力に縛られていると言えるのかも知れない環境だったが、それに憤懣を漏らすつもりは無かった。
その重力の中で体力と精神力は確実に削り取られている。
『擬似空間におけるシュミレーション訓練なんて所詮ゲーム』
聞きなれた戯言が耳について離れ無い。
がんがんと痛む頭に鳴り止まない耳鳴りがこたえた。
花でも咲くように漆黒の闇の中に閃光が散っては消えていく。
胸が焼け付くような感覚にどうしようもなくせり上がって来る嘔吐感を全身のエネルギーを費やして抑えた。
いや――抑えたのでは無く、もう嘔吐するだけの体力も残っていなかっただけかも知れないが。
ぎ、と筋肉が音を立てて目が見開かれる。目の前に広がる――広がろうとする一瞬の閃光。それを意識が
認知する前に彼の手は操縦桿をひねっていた。僅かに旋回して打ち込まれてきたビームを避ける。
旋回することで繋る、慣性に逆らう付加が身体を痛める事はもう無かった。それを感じる器官すら
もはや機能することを放棄していたのだ。
そして――動揺に機能することを辞めた意識は、それを裏腹に彼の全神経を支配していた。
意志だの意識だの、この状況においてはどうしようも無いほどに生存の足枷になっているそれを踏みにじって――神経は
伝達物質を分泌する。
意識とは裏腹に、意識が命令した信号は正確に彼の指先を動かした。
目の前に咲く光の華。
……吐き気が……した。
『戦場は待ってはくれない』――戯言である。戯言だ、当たり前に過ぎるのだから。
一度発生してしまえばベテランと新兵と区別すること無く、流れた血は新しい血を呼び寄せる。流れる血を血として認識
することは、空戦隊員たちにとって他の部署よりもやや希薄だった。特に新兵たちにとってしてみれば。
陸戦隊と違い酸鼻を極める屍の汚泥の中に身を沈める訳でも無く、肉を、骨を立つ感触を手に感じる訳でもない
彼らにとって戦闘は一歩間違えばゲームとなってしまう。命をベットした。
『擬似空間におけるシュミレーション訓練なんて所詮ゲームだ』
耳にタコが出来るほどに繰り返されるその忠告。パイロットならば誰もが一度ならず耳にする。
だがそれを――事実として認識するか否かは多分な個人差を抱える。というよりも、戦場を経験しないパイロット達の
大部分は認識などしていなかっただろう――認識した気はあっても。
自分の汗の臭いが充満しているのだろうヘルメットを取り小脇に抱えてコーネフは軽くかぶりを振った。
プラチナブロンドの明るい髪が汗を含んで幾房かにかたまり重そうに揺れる。頭痛はもう感じ無かった。ただ頭の中に
鉛を突っ込まれたような不快感だけが残っている。
ニ、三度目をしぱたいた。モノクロの残像が浮かんでは消えていく。ぼんやりと頭を伏せて床を見つめる彼に――数人の
パイロットや整備兵が駆け寄った。
「よォコーネフ! よく生き残ったな!!」
「初陣で一騎撃墜かよ! 流石だな!」
駆けられることばに応える気にはなれず、コーネフはただ小さく首肯した。それを賛辞に対する謙遜と取られたか否かには
興味が無かった。どう取られれてもかまわない、という諦観が無かったとはいない――もっともそれは諦観とは多分に趣を
違えていたのだが。
ふ、と顔を上げる。
まだ新しい――部類に入る――彼の機体。単座式戦闘艇スパルタニアン。くすんだ銀色の翼。
ハッチは閉じて今は戦闘を終えた機体は静かに帰還した場所に眠っている。――コーネフは再度目を伏せた。
まだかけらることばを静かに制してコーネフは機体の整備だけを頼むとその場を後にした。《期待の新人》が
おおむね期待通りの戦果を上げた初陣の後のその姿と態度に残された幾人かは首をひねる。もう少し
素直に喜べば良いのに、と舌打ちするものも混じっている。
それら全てに背を向けて――コーネフは格納庫を後にした。
母艦の中に与えられた自分の部屋に戻って真っ先にシャワーを浴びたのは、あまり意味のある行為だとは言えなかった。
パイロットスーツから着替えたときにも一度――しかも長時間――浴びていたしシャワーによって流したいのは汗だけだ。
こびりつく血の匂いもなにも無いのだから。
この手で肉を断ったわけじゃ無い。
返り血を浴びたわけじゃ無い。
すべてが消えていく瞬間の、末期の声を聞いた訳じゃ無い。
それでも。
なにかが染みついている気がして。
何度も何度も身体を洗った。
熱いシャワーをずっと浴びていたら皮膚が少し赤くなったけれどそんなことはどうでも良くて。
ただ何度洗っても落ちない何かが、膜のように身体に染みついているのを――感じるより他に無かった。
どうしようもなくこの身体を汚している汚泥が。どうしようもなく染みついて離れ無い錆付いた匂いが。
どうしようもなく頭を締め付ける耳鳴りが。
――どうして落ちてはくれなかった。
ぼんやりと頭を壁に押し付ける。
ざぁざぁと降り注ぐシャワーの音だけが聞こえる。目を閉じるとそれは更に鮮明に、まるで土砂降りの雨の中にでもいるように。
そうであったら良かったのに、と思ったが、体を包む確かな暖かさが雨でないことを証明してくれていた。
どうしても落ちてはくれなかった。
汚泥も匂いも耳鳴りも。
ただ胃のひっくり返るような嘔吐感が深く沈殿して行った。
別に出かける予定も無かったのだけれどシャツとズボンを着込んで、それでも大して拭ってもいない頭のままベットに
座り込んだ。ばふ、と音がして埃が舞い散る。うなだれた視線の先に、髪から滴り落ちる雫が小さく染みを作っていた。
喉が乾いたな、と思った。
汗なんか戦闘中に出るだけ出してしまっていてきっと脱水症状起こしたっておかしくない。帰還する随分と前に
焼けつくくらいの喉の渇きを覚えていたのを思い出す。冷蔵庫の中には発泡酒の缶が何本か
残っていた筈だった。何日か前どやどやと押しかけてきた先輩が飲むだけ飲んで残りは置いて行った残り。
立ちあがって数歩も歩けば手の届くところに黄金の液体は在るのだけれど。
く、と唾液すら出ない喉を鳴らした。水分を欲しいとすら思わなかった。喉は乾いていたのだけれど。
胃の中に沈殿する異物感。胃液が過剰微分泌されて焼けつく感じ。嘔吐感はどうとでも表現できたがそのどれとも
違っている気がした。
身体を包む嫌な匂いの膜だけが多分、現実なのだろうと。
コーネフは静かに目を伏せた。
と、ふと鳴り響いた電子音。
自分一人しかいなかった、ソリビジョンの電源すら入っていなかった部屋にそれは反響するように大きく響く。
のろのろと引き攣った筋肉を動かして立ちあがり、パネルを覗き込むとそこには見なれた顔。
「……ポプラン? 何やってんだお前」
「良いから開けてくれよ! キィ忘れたんだって!」
振り向いて雑然としたテーブルの上を眺めてみると確かにそこには出る前に置き去りにされたのだろう、ルームメイト
用のカードキィが置いてあった。小さく嘆息して部屋の扉を開けてやる。ばたばたと騒々しい足音とともに
騒々しい相方兼ルームメイトは駆け込んできた。適当に羽織ってあっただけのジャケットはすぐに脱ぎ捨ててベッドの
上に寝転がる。
「あー疲れたッ! 喉乾いた!! 腹減った!!」
「疲れてる割には元気だな」
張りついていたような喉を動かしてそういうとコーネフは冷蔵庫を開けて発泡酒の缶を取り出した。――二本。
「ほれ」
「おぉサンキュ」
無造作に投げてやると機用にそれをキャッチして、ポプランはベッドに座りなおすとプルを開けた。ぷし、と勢いの良い
音が響く。
自分もプルに指をかけながらコーネフは――薄く笑った。張りついていた喉が軽い。
それに目を留めたのかポプランは怪訝そうに眉をひそめた。
「何お前笑ってんの?」
その表情の変化を《笑顔》だと認識できるのはポプランの特権のようなものだったのだがその特権には気付くことも無く。
「別に」
疑問を一言で切って捨て、コーネフは自分もベッドの縁に腰を下ろした。ベッドの上に足を投げ出して座っている
ポプランとはちょうど背中合わせの形になる。
「騒がしい奴だなと呆れてるだけ」
「……あーのーなー……」
うめくように言ってから缶をあおってポプランは苦々しげに舌打ちした。その対応にコーネフはくすりと吐息だけで
笑いを漏らす。
コーネフが缶の中身に口をつけるのを見計らったように、ポプランは一瞬視線を背中合わせの相方に視線を向けてすぐに
外すと、それを天井へと投じて口を開いた。
静かな部屋の中に良く通るテノールが滑る。
「なァ、コーネフ?」
「うん?」
「お前何機墜とした?」
何でも無い風に放たれた台詞。
ぎくり、とコーネフは腹の底が強ばるのを感じた。
その後ろでポプランも缶を握る手に力を込める。
落ちる静寂。
「……一機」
漏れる吐息のような応え。
「……負けた、俺二機」
自嘲気味に返ってきた応え。
「……そうか」
撃墜数と言うデータだけがステータスとなる世界で、どうしてそれが《負け》なのか。
コーネフには分かる気がした。
『擬似空間におけるシュミレーション訓練なんて所詮ゲーム』
しつこく繰り返された忠告。
第八八独立空戦隊の、帰還率が五十%を切るとも言われている初陣で、戻って来れただけでのはそれこそ僥倖と言うべきなのだろうけど。
腹の底に沈殿する痛み。
鳴り止まない耳鳴り。
目蓋の向こうの光の華。
――聞こえない末期の叫び。
この手で殺した命在る誰か。
『擬似空間におけるシュミレーション訓練なんて所詮ゲーム』
分かっているつもりだった。訓練と実践を取り違えるなんて、そんな何処かの能無しみたいな真似はしていないと。
けれど。
あの漆黒の闇。
至る所で咲いては散っていく光の華。
粘りつく汗。
冷徹に伝えれるデータ。
――あの華の中で次に墜ちて行くのは自分だろうか。
それは……恐怖。
「……怖かったよ、俺は」
ぽつり、と掠れるような声にコーネフは耳を疑った。振り向こうとして中途で止まる。――怖かった、なんて。
恐らくは二度とも聞くことは無いだろう、彼の口から。恐らくは明日にも、よりによってコーネフの前で
そんなことを言ってしまったのを後悔するかもしれなくて。けれどそれは……どうしようも無い本音。
共有する本音を、こちらは口には出せ無かったコーネフはただ黙って缶をあおった。
(怖かった)
次に死ぬのは自分だろうか、あるいは――あいつだろうか。
心内を侵食する恐怖。
漆黒の闇。
至る所で咲いては散っていく光の華。
粘りつく汗。
冷徹に伝えれるデータ。
鳴り止まない――耳鳴り。
内臓がひっくり返るみたいな嘔吐感を思い出す。それを無理矢理押し込めるように缶の中身を飲み干した。
(怖かった)
死ぬのも。
誰かが死ぬのも。
――この手で殺した誰かも。
誰かを殺したこの手も。
染みついて離れ無い錆付いた匂い。
(怖い)
体を覆う汚泥の膜。
(怖い)
聞こえない――末期の叫び。
(怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い)
大義名分でどれほど塗り固められても戦争なんて所詮は命のやり取りだ。戦場の英雄は連続殺人犯に過ぎず、
殉職者は被害者に過ぎない。だからこそ。――だからこそ相応の覚悟を持って。相応の罪を抱えて。
殺戮者であるという自覚の上に。人を殺していこうなんて。――戯言。
目の前に咲く光の華。
殺そうなんて意識は無かった。
ただ反射で。
もうあの闇の中で何も考えられなくて。
スパルタニアンの中に存在する重力すら邪魔で。
いっそこのハッチを突き破って、単身宇宙の塵となってしまえば楽だろうか、なんて。
けれど死ぬことは何より怖くて。
打ちこまれてくるビームに、反射的にこちらもミサイルを打ちこんだ。
――目の前に咲く光の華。
覚悟も罪の意識も自覚も。
何も無しに。
人を殺した。
染みついて離れ無い錆付いた匂い。
この手で肉を断ったわけでもないのに。返り血を浴びた訳でもないのに。末期の叫びを聞いたわけでも。
(それでも)
この手は血にまみれてる。
幾ら洗っても落ちやしない。
永遠に付きまとうこの匂い。
耳鳴りが止んではくれない。
咎人への嘲笑のように。
覚悟も罪の意識も自覚も。
何も無しに人を殺した自分たちは。
二度とは許されない罪人。
ぼんやりとコーネフは顔を上げた。
二機撃墜した自分自身を負けだと評したポプラン。それを、理解はできたが(覚悟も罪の意識も自覚も
何も無しに殺した罪の数なのだ、今日の撃墜数、なんてものは)。
けれど大差ない、とも思う。
一機だろうが二機だろうが。
罪には変わり無い。
犯してしまった今では――どうという程の違いも。
耳鳴りが止まない。
聞こえない末期の叫び。
最期に呼んだのは家族の名だっただろうか。郷里に残して来た恋人か。彼らが万能だと信じてやまない
皇帝(カイザー)か。信者の平穏よりも戦を尊ぶ
大神(オーディン)か。
得られる筈だった未来図は華の中に塵と消え。
最期に彼は何を見たのだろう。
「…………ッ」
痛みが。
全身を支配する。
頭痛とは違う衝動に借られて俯いた。自然とうなだれる形となる背中にもたれるポプランの体重がかかる。
思い、と文句を言おうかと思ったが上手く言葉にならなそうで止めた。背中からじわりと伝わる体温に
どうしようもなくて唇を噛んだ。
「……泣くなよ」
「……誰が泣いてんだ」
「……お前だよ」
「……煩い」
視界が掠れて見えないのは疲れてるせいだ。頬が濡れてるのは汗のせい。目が熱いのは寒いから。
どれも下手な言い訳にしかならなそうで言うのは止めた。
代わりに自分も背後の背中に体重を預ける。
乾いたシャツの感覚にほっとする。
掠れた視界の向こうには明るい電燈の光。
重力を心地良く受けとめるスプリング。
――あんなにも焦がれていたソラなのに。
今はこんなにもここが恋しい。
「次は」
笑う風でもなく息をついてポプランが唐突に口を開いた。
「もう少しマシになれるんでしょうかね」
「さぁな」
応えられる訳も無くて適当に相槌を打った。
なれるのだろうか? 《もう少しマシに》?
覚悟と罪の意識と自覚を持って人を殺したとしてもそれは人殺しには変わり無く、殺される方には何の
違いもありはしないのだけれど、せめて勝手な自己満足を得られる程度には。
――せめて罪の代価として、この命をベットできる程度には。
なれるのでしょうか。
眩しくて目を閉じると、頬を伝う水の量が増えた。それを拭うと泣いているのを認めるようで癪に障るので
放っておく。
耳鳴りが止まない。
けれど止むだろう、と思う。
この汚泥の膜も錆付いた匂いも取れはしないだろうが、耳鳴りはきっと止むだろうと。根拠は無かったが。
「泣くなって」
――この癪に障る声が耳に届く限り。
「泣いてない」
「意地っ張り」
「どっちが」
「俺泣いてねェもん」
「煩い」
いつまで。
この声を聞いていられるだろう。
同じように罪を背負って、同じように血に塗れて、同じようにあの漆黒の虚空で。
いつまで。
あまりに重い十字架を背負って。
つぶれることなく俺たちは歩いて行けるでしょうか。
放棄はできない、と思う。
つぶれたとしてもこの罪を、手放すことなど叶わないと。
贖えないのだ、誰かの同じ人生を容赦も無く絶った罪など。
贖える筈も無い。
だから放棄などできない。
いつか。
俺たちが弱者となって、強者の糧となるその日まで。
恩赦も放棄も望めないままこの罪を背負い。
あの虚空の中で。
麻薬のように誘惑して止まない虚空の中で。
俺たちが弱者となって強者の糧となるその日まで。
連綿と続く、あの血腥い連鎖の中で。
どうか、と思う。
できうる限り同じように。
この耳鳴りが止むように。
できうる限りこの体温を。
いつか。
俺が(あるいは彼が?)弱者となって強者の糧となる、その日まで。
《ENDE》
20010424Sae.T
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