前 夜

 


 

風が流れる

嵐を呼ぶ風が

すべてを壊して

なにもかもが消えてゆく

 

 

見渡せばそこは緑溢れる大地だった。
大陸のほぼ中央に位置するハルイ平原。水の恵みをふんだんに受けた土地は、春の訪れとともに多くの命を生みだした。
小鳥が賑やかに囀り、風が草木を揺らす草原に立ったアルゼイアは、懐かしい故郷を思い出させる風景に時も忘れて見入った。
十五の年までなにも知らず安穏として暮らした場所も、ここと同じように豊富な緑と迸るような生命力に満ち溢れていた。
駆け抜ける風と翻る蒼い旗章。鉄壁の守護を誇る騎士団と慈悲深き『祈りの聖女』たちが集う、西の大陸最強の魔道国家が彼女の生まれ故郷だった。
彼の国を知る誰もが、口を揃えて、五百年の長きに渡る栄華を褒め称えたものだった。
だがその繁栄も、彼女が十五になった年に唐突な終わりを告げた。
たった一人の魔導師の裏切りによって、彼の国は一夜にして滅んだ。数々の騎士団の栄光も名立たる魔導師たちの名声も、すべてが燃え盛る炎の中に消えた。
文字通り、着の身着のまま逃げ出したあの夜のことを、アルゼイアは今でもはっきりと覚えている。
『彼奴らは我々がここで食止めてみせます! お早く地下道よりお逃げ下さい!』
『大丈夫。彼奴らを片付けたらすぐに後を追いますゆえ。お先に御行きください』
悲鳴と金切り声が鳴り響くなか、力強く、安心させるように笑いかけてくれたのは、ファルガ騎士団の団長だった。
『ここから入り口を結界で塞ぎます。多少の時間は稼げるでしょう。さあ、娘たちよ、行きなさい。そして生きるのです』
追手の目から地下道の存在を隠すために、その場に留まることを選択したのは、聖女の中でも特にアルゼイアを可愛がってくれた女性だった。
彼らはすでに命を捨てる覚悟をしていたのだろう。決意を秘めた瞳は静かだった。
ここで離れれば二度と会えない。
それがわかっていながら、アルゼイアにはどうすることもできなかった。敵に立ち向かうことも、供に逝くことも許されず、彼女は何度も後ろを振り返りながら狭い地下道を走った。
その日から丸五年。一度も帰ることは叶わなかった、思い出すだけで心が悲鳴をあげるほど辛い、けれど懐かしい、あの大地───。
幼い頃よくそうしていたように、アルゼイアは地面に寝そべってみた。
視界いっぱいに真っ青な空が映る。吸いこまれそうなほど深い色に軽い眩暈を感じて、彼女は慌てて目を閉じた。
(・・・もう二ヶ月も経つのに、まだ治りきってないんだわ)
近くにある砦に身を寄せるようになって二ヶ月あまり。その間、外を出歩くどころか目を向ける余裕すら、まったくと言っていいほどなかった。
「ライディアス──光狩るもの──」と呼ばれる妖供との闘いに次ぐ闘いの日々。息つく暇もない中、傷つき倒れた多くの仲間達。
追撃の手を振りきり、ようやく逃げ込んだ場所でも、ついに心休まることはなかった。
容赦のない攻撃にさらされた彼女たちのほとんどが、生死に関わる傷をおっていたからだった。
アルゼイアの持つ『癒しの光』ですら彼らを治すことが出来なかった。
能力が足りなかったせいではない。ただ彼女の限界を超えるほど負傷した者たちの数が多かったせいだった。
手立てのないまま一人、また一人と帰らぬ人となる。結局半数が命を落とし、残りの半数もなんとか一命を取り留めたものの、満身創痍で歩くことすらままならぬ状態だった。
仲間の死を悼み、負った傷を癒すために多くの時間が費やされた。それでもまだ足りないと思う。失ってしまったものを取り戻すことはできないし、ましてや変わりのものをあてがうことなどもっとできない。だからこそ癒されるためには、もっともっと多くの時が必要だろう。
それはアルゼイア自身にしても同じことだった。
左手に負った傷は深く、二ヶ月たった今も醜く引き攣れた跡をのこしている。多分一生この傷は消えないだろう。心に深く刻まれた傷と同じように。
ふさふさと繁る草花に顔を半分埋め、平原を吹き抜ける心地良い風に身をまかせていると、すべてが遠い出来事のように思えてくる。
錯覚に過ぎないとわかっていても、しばしの間忘却の時を過す。
だがそれもそんなに長い時ではなかった。
「アール、なにそんな所に寝転んでんだ? 服が泥だらけになるぞ」 
くすくすと笑う声に寝返りを打つと、陽光のように煌く黄金色の瞳が上から覗きこんでいた。
アルゼイアの従兄であり、彼女が誰よりも信を置く青年、リュオネス=カイザードだった。
幼いころから魔道の才を認められ、齢二十歳にして『黒の魔導師』の異名をとる青年は、笑みをひっこめると人差し指を目前で左右に振ってみせた。
「ちょっと無防備すぎるな、アル。いくらここが俺が張った結界の中だといっても、なにが起こるかわからないんだからな」
戒めるような口調だったが、目元が笑っている。
「ごめんなさい。でも暖かくって、とっても気持ちがいいのよ。リュオンも寝てみない?」
ぱふぱふと地面を叩くと、リュオネスは躊躇いもなくアルゼイアの隣に寝転んだ。
そんな子供のように無邪気な行動からは、魔道の道を極めた者として、数多の同輩たちを束ねる姿を想像するのは難しい。
事実、彼の奔放ともいえる行動を、その地位にある者としては非常識だと非難する者も多い。また、数々の業績の存在を無視して「親の七光りだけでその地位を得た」と陰口を叩く者もいた。
だが、彼が若くしてそこまで昇りつめることができたのは、天賦の才とそれを伸ばす為にたゆまぬ努力をしたからだった。
どれほどの時が費やされたのか、どれだけの傷を負ったのか、傍から見るほど楽ではなかったことをアルゼイアだけは知っていた。