顔面から血の気がひいていくのがわかった。
自分を責める死者の声。
頭ではありえないことだとわかっているのに、心のどこかで間違いなく秦峨本人だと認めていた。
「・・・違う・・・」
力なく呟いたが、それが嘘だということは柴霞本人が一番よくわかっていた。
あのときなぜ動かなかったのか。秦峨が犠牲になれば自分が助かると思ったからではなかったか。
(わたしがなにをしたというのですか)
なにもしていない。罪を犯したのは柴霞であって、責をおうのも彼でなくてはならなかった。だが実際には秦峨が身代わりになって命を失った。
「すまない・・・」
後悔していた。自分かわいさに彼を見捨てたことを。だからこそでた謝罪の言葉は、けれど死者の激昂をかっただけだった。
(そんな言葉は欲しくない・・・!! なぜ・・・なぜ・・・!!)
激しい怒りの感情が柴霞に叩きつけられる。思わず耳をふさいだが、声は両手をすりぬけて彼を打ちのめした。
(あなたにはできたはずだ。なぜ助けてくれなかった・・・!!)
「すまない、すまないっ!」
今言えるただひとつの言葉を繰り返す。それで秦峨が許してくれるなどという虫のいいことを考えていたわけではない。ほかに言うべき言葉がなかったのだ。
正直に自分の裏切りを打ち明けることはできなかった。保身のために彼を見殺しにしたとは、おそらくは最後の瞬間まで柴霞を信じていたはずの彼に対しては、どうしても言えなかった。
謝罪の言葉以外、具体的なことをなにひとつ言わない柴霞に断罪がくだされる。
(あなたのせいで・・・。許さない・・・許さないっ!)
一度も向けられたことのない憎悪の念に、柴霞の膝がふるえた。冷や汗がこめかみを流れていく。
その周囲で空気が振動した。秦峨の暗い感情が、黒い靄に姿を変えて柴霞をつつみこんだ。
視界がきかなくても、なにかが体にまとわりつくのが感じられて、柴霞は激しく身をよじった。だが柴霞が動けば動くほど、それは彼の体をしめつけた。
(許さない・・・許さない)
暗い怨念の声が木霊する。
「…秦っ・・・」
やめてくれと言おうとした喉にも、靄はその手をのばした。きつくしめあげられて息ができなくなる。大きく口をあけてなんとか空気をとりこもうとするが、そこも靄につつまれた。
苦しさに意識が遠くなりながらも、柴霞は助けを求めるように手をのばした。
「・・・許してくれっ・・・・秦峨・・・」
掠れた声が唇の間からもれでた。
そして、柴霞の意識は闇に呑み込まれた。
柴霞が気づいたとき、そこは夕暮れに染まる庭園だった。
何事もなかったようにいつもと変わらぬ表情を見せる庭園を、柴霞はひとり呆然として見まわした。
(夢・・だったのか・・・?)
だが、まだ黒い靄にしめつけられた感触が身体中に残っていた。それに、あの秦峨の恨みに満ちた声音も耳の奥にこびりついている。
喉元に手をあてた柴霞は、その場にくずれるように膝をついた。
夢ではなかったのだ。間違いなくあれは現実だったのだ。なのに自分は命をとられることなく、生き長らえている。
なぜか。その理由に気づいたとき、柴霞の目から涙があふれだした。
・・・やがて、夕暮れに染まる庭園に静かに嗚咽が響いた。
王宮を見上げた少女が、満足げに微笑んだ。
その手には、さきほどとは微妙に色を違えた布地が握られていた。
漆黒だったはずのそれは、今では少し色あせたようにみえた。
「やっぱり、殺すなんてできないわよね」
どんなに憎んだとしても、どうしても殺せない相手がいるのだ。秦峨にとってのそれは柴霞だった。
もう一度微笑んだ少女の姿が、溶けるように空に消えた。
あとには、風に散らされた花びらが舞うだけだった。
宵闇 完