魂の還る場所 序章

 

 

最初の記憶は、雨にけぶる森だった。

細かい雨が視界を白く染めていく。
どこまでも続きそうな獣道を少年は一人ひたすら歩んでいた。
衣服はすでに多量の水を含んでぴったりと体にはりつき、手足の動きを鈍くさせる役目しかはたしていなかった。
(寒いよ・・・)
ぎゅっと濡れた衣服を握り締め、彼は心細げに周りを見まわした。もしかしたらはぐれた彼を探しに両親が近くに来てやしないかと期待して。
けれど目に映るのは鬱蒼と生い茂る木々だけで、人どころか生き物の気配さえしない。
(みんなどこにいるの)
泣きそうになるのを下唇を噛んでがまんする。
ここで泣いたりしたら、一生両親と会えないような、ずっと深い森をさまよっていなくてはならないような気になっていた。
なんとか涙が零れ落ちるのを防いだけれど、注意力が散漫になっていたのだろう、濡れた下生えに足をとられて少年の体が傾いだ。
短い悲鳴をあげて地面に倒れこむ。草草がクッションの役割を果たしてさしたる衝撃はなかったけれど、痛みよりも疲れのほうが大きくてすぐに起きあがることができない。
一晩中道なき道を歩き通しだったのだ。
絡まりあう枝を掻き分ける作業は予想以上に重労働で、小さな体から体力を奪うのには十分だった。加えて降りつづける雨が少年から体温までも奪いとっていった。
(もう動けないよぅ)
涙がにじんでくる。
昨夜はこんなことになるとは思わなかった。たった一人、こんな昼なお暗い場所に放り出されることになろうとは。
少年は旅芸人の一家の子供だった。リュオンと呼ばれる竪琴を操る両親と、何人かの踊り子と歌い手がいる小さな一座のなかで彼は育った。
村から村へ、街から街へと一つどころに留まらない暮しが当たり前の、根無し草のような生活。
絶えず移動し続ける生活は楽ではなかったし辛いこともたくさんあったけれど、それでもこの暮らしをやめたいと思うことはなかった。
行く先々で出会う人々、目にする物事、それらのすべては好奇心旺盛な少年の心を満たすのには十分だったから。
昨日は次の街へ移動するために、それまでいたカンディアの街を出発したところだった。
幌馬車に少ない荷物をつめ、徒歩で街道を行く。陽気に唄いながら両親の間を駆け巡り、時には先に走って行って街道の様子を一座の者に伝えたりした。
だから、そのキャラバンを見つけたのも少年が最初だった。
ちょうど街道が交差する場所で、少年の行く手を遮るようにして長い隊列が横断していった。
百人近い隊商の列が延々と街道を行く様は圧巻で、少年は初めて見る光景に興奮気味だった。
「すごいよ、お父さん! キャラバンだよ、あんなにいっぱいいるの初めて見た!」
「へぇ、珍しい。あっちは・・・・ダリアンに行くのかな」
追いついた父親の呟きに、少年は目を輝かせた。
ダリアンはこの辺りでは一番大きな街だ。主要な都市を結ぶ交易路の途中にあり、人と荷が毎日のように通りすぎる。
徒歩なら五日程度でつく場所だが、幼い少年にとってはまだ一度も足を踏み入れたことのない街だった。
「ねぇ、ダリアンてどんなとこ? 大きいんでしょ。カンディアよりもずっと大きいの?」
「そうだな、カンディアが十個集まったぐらいかな」
「そんなに!? じゃあ、人もすごいいっぱいいるんだね。ねぇ、僕見てみたい。行こうよ、お父さん」
父親の裾を引っ張っておねだりする。
いつものように。
それが悲劇の始まりになるとは思いもせずに。
無邪気な子供の懇願に、父親は容易く折れた。
もともとどうしても行かなくてはならない場所があったわけではなかった。次の街に行こうが、ダリアンに行こうが人がいる場所に行くのならどちらでも同じことだ。彼らは旅芸人なのだから。
「よし、じゃああのキャラバンに混ぜてもらえるか、聞いてきてみる」
行き先の変更を決めると、父親の行動は速かった。
早速渡りをつけてきて、ダリアンまでキャラバンに同行することになった。もちろんタダではない。夜には旅路に疲れた隊商の者たちを癒すためにささやかな芸を披露し、それなりの拍手と称賛を得ることに成功した。
キャラバンのなかにはダリアンを幾度も訪れた者も多く、彼らの話を聞きながら期待に胸膨らませた少年は、その日はやる心を抑えて眠りについた。
だがそんなわくわくした気分が、恐怖に変わるのにそれほどの時間はかからなかった。
寝静まった野営地に悲鳴と怒号が鳴り響いたのは、夜半も過ぎたころだった。
「起きて!! 逃げるのよ!」
母親に揺り起こされて、少年は初めて異変を知った。
「なに、どうしたの? なにがあったの?」
「ライディアスよっ!! ここからはやく出てっ!!」
切羽詰った叫び声に、ぎょっとしてテントを飛び出した。
すぐにでも逃げなくてはならない。そう思った少年の足は、その場ですぐに止まってしまった。
外は夜とは思えないほど赤く輝いていた。
炎だった。夜空を焦がすほど高く吹き上がった火の柱が、キャラバンの中央で激しく燃え上がっていた。
荷駄が、馬が触手のように蠢く炎の枝に捕われて一瞬にして形をなくしていく。悲鳴をあげながら逃げ惑う人間たちも例外ではない。赤い色に巻き込まれてすぐに姿が見えなくなってしまう。
火の粉が舞い降るわけではない。熱風が吹き荒ぶわけでもない。ただ生き物のように、明確な意思をもったような火がキャラバンの人間を呑みこんでゆく。
(これは、なに)
呆然とその光景を見上げていた少年の腕を母親が強くひいた。
「はやくっ、こっちよ!!」
必死の形相でその場を離れようとする母親になかば引き摺られるようにして、彼は野営地を逃げ出した。
方角など関係ない。同じように惨劇から逃げてきた十数人とともに、ただひたすら炎から逃れようとする。
「ちくしょう、なんでこんな場所にライディアスがいやがんだっ」
誰かが低く毒づいた。
けれど誰も答えられない。皆同じ疑問を持っていただけで、答えを知っている者などいなかった。
わかっているのは、今自分の命が危険にさらされていることだけだった。
前方で悲鳴があがった。続いて逃げろと怒鳴る声が聞こえた。
身を強張らせ立ち竦んだ少年の視界の先に、一人の男が佇んでいた。
女のように整った細面の顔立ち。たやすく折れそうなほどほっそりした姿態。幾重にも重ねられた薄い布地を纏った姿は美しく、たおやかとさえいっていいほどだった。
だが、それはまやかしだ。
人を惑わす魅惑的な仮面の下、残忍な本性が隠れている。
人の姿をしていても、決して人ではないモノ。
ライディアス、光を狩るもの。
すべての生き物の敵の総称。
ぽうっと男の指先に赤い光点が灯った。胸の前で軽くそれを振った瞬間、先頭にいた中年の男が炎に包まれた。
「ぎゃあああああ!!」
火だるまになった男が地面を転がりまわる。
それが合図になったように、恐慌状態におちいった者たちが一斉に駆け出した。
少年も母親もすぐにその波に巻き込まれた。
あっと思ったときにはもう遅かった。
手が離れた。
「お母さんっ!?」
伸ばした手は空を掴んだ。
少年の名を呼ぶ母親の声が聞こえたが、すぐに悲鳴のなかに消えた。
それからどこをどう逃げ惑ったのか。
気づいた時には一人深い森の中をさまよっていた。
あの時、キヤラバンなんか見つけなければよかった。そうすればこんなことに巻き込まれなかったかもしれないのに。
滲んだ涙をぐいっと手で擦ったとき、かさりと背後で梢が揺れる音がした。
はっとなって顔をあげる。
耳を澄ますと、一定のリズムで地面を踏みしめる音が近くでした。
間違いない、誰かが歩いているのだ。
「お父さんっ!? お母さん!」
残された体力を振り絞って立ちあがり、音のするほうに駆け出す。
来てくれたのだ。両親が、姿の見えなくなった彼を探しに来てくれたのだ。
それが間違いだとは、幼い少年は露ほども疑わなかった。
嬉しくて、飛び出した枝が皮膚を切り裂いても気にならなかった。
数多の木々の中でもひときわ大きく根をはった大木の向こう側に回りこむと、少年は戸惑ったように足をとめた。
森の中、ぽっかりと開けた空間があった。
人為的に、余分な木や草が刈り取られた場所なのだとすぐにわかった。中央に地面から涌き出た水が小さな泉をつくっていたからだ。
樵や狩人たちが切り開いたのだろうか。あるいは森の中で生活をしている人がいるのかもしれなかった。
とにかく誰かが水を汲むために整えた場所には違いない。
そろりと足を踏み出すと、泉の傍に人影が見えた。
「お父さんっ!」
喜び勇んで駆け出した足が、数歩もいかないうちに再びとまった。
人影は父親などではなかった。
すらりとした後姿。森の中を移動するには不向きな、優美な線を描く衣装。
まさか・・・・。
不安が心に広がる。
昨夜同じものを見なかったか? 火の明かりに赤く照らされた野営地で、絶叫がこだまするあの場所で同じ服を見なかったか?
少年の声に人影が振り返った。
赤く光る切れ長の瞳。整った鼻梁と女のような口元。
その顔は、まぎれもなく昨夜キャラバンを襲った男のものだった。
「ひっ!!」
逃げようとした足がもつれて、地面に頭から突っ込んだ。すぐに顔をあげたが、もう遅かった。
男はすべるように少年に近づいた。
にいっと唇があがった。獲物を嬲るのが嬉しくてたまらないような笑みだった。
「やっ・・・・やだぁーっ!! お父さんっ、おとう・・・さんっ!!」
自分を守ってくれるはずの存在。今はいないが、決して彼を見捨てたりはしない近しい存在を呼ぶ。
来てくれるはずだ。絶対来てくれるはずだ。
父も母もすでに男の手にかかっていたのだけれど、そんなことを少年が知っているはずもなかった。ただひたすら助けを求めて泣き叫ぶ。
「助けてっ、助けてよぅ」
男の指に炎がともる。
次にそれは少年を跡形もなく焼き尽くすだろう。
恐怖に少年の目が見開かれた。
脳裏に、火だるまになった男性の姿がよみがえった。その苦悶と絶叫が。
あんなふうには死にたくない。
「いやっ、消えちゃえっ、消えろっ!」
なにかを深く考えたわけではなかった。ただ、火がなければ助かると思っただけだった。
少年の声に呼応するかのように、ふっと小さな火の元が掻き消えた。
男は不思議そうに自分の指先を見つめたが、すぐに火が消されたと理解すると見る見るうちに形相を変えた。
今度は二つ火が灯った。禍禍しい赤い色が。
男が手を振り上げる。
だがそれよりも速く、少年がありったけの声をふりしぼって叫んだ。
「消えろってば!! 消えろーっ!!」
閃光が森の中を満たした。

 

序章 完