モ ダ ン ・ タ イ ム ス
MODERN TIMES
1936年2月5日封切 アメリカ ユナイテッド・アーチスツ 白黒 85分
監督・主演・音楽・脚本ほか チャールズ・チャップリン
共演 ポーレット・ゴダード ヘンリー・バーグマン チェスター・コンクリン
“モダンタイムス”とは「近代・現代」の意。
人間が現代社会を生きる、とはどういうことか? 生きにくい時代を たくましく、したたかに生きる人間を、コミカルに、暖かく描いたチャップリンの名作です。
初期のチャップリン映画の連続で見ると、『モダンタイムス』が今までのチャップリン・ギャグのオン・パレードであることに気づきます。
お馴染みのギャグの数々が 場面場面の状況にマッチしたかたちで盛り込まれ、実に楽しいコメディーに仕上がっています。
デパートでの目隠しスケート、刑務所でのやりとり、ドアの“IN”&“OUT”表示のギャグなど、往年のギャグを応用させた形で再登場させています。
チャーリーはオートメーション化された工場の工員。
地下鉄の駅から工場に向かう 羊の群れのごとき労働者の一群に混じり、彼も生産システムの一部になって、スパナを握ります。
社長はモニターで工場内を監視し、生産率アップに目を光らせ、労働者の食事時間ももったいないとばかり 自動食事機導入まで検討します。
社長がベルトコンベアのスピードアップを指令。その猛スピードに 人間の労働リズムを狂わせられたチャーリーは、自分の行為に熱中する余り、機械の歯車に巻き込まれてしまいます・・・・・
人間生活の活力たる 生産〜消費システムが、その本質を脱して巨大化し、人間性を奪う制御不能な歯車になる・・・・薄ら寒いまでの恐ろしさを、チャップリンは笑いの渦のうちに描きます。
市場経済・資本主義社会の行き過ぎた一面をこのように描くことは、現存の社会システムで多大の利益を得ている層(資本家など)にとっては 危険極まりないことで、当然大きく問題視されました。
本作を 「機械文明・物質文明批判の作品」と本質をやや矮小化した批評をみかけますが、明らかに『モダンタイムズ』は資本主義社会のあり方を痛烈に皮肉った作品です。
問題は、そこから社会主義・共産主義の鼓舞を読み取ることにあるように思います。
結論から言えば、私は「主義」の映画ではなく、人間性の回復を高らかにうたった映画だと思っています。冒頭の字幕“人間の機械化に抗し、個人の幸福を求める物語”(…だったかナ?)の通りなのです。
イデオロギー対立の時代にあっては、現体制批判は即“アカ”呼ばわりされる情勢でした。
『モダンタイムス』が現在でもその価値を失っていないのは、チャップリンの生半可ではない人間性への洞察があるからでしょう。
単なる時評は時と共に色あせますが、『モダンタイムズ』の生命は永遠です。
それはチャップリンの人間愛が 映画全体に込められていることに因るのだと思います。
チャーリーは娘(ポーレット・ゴダード)と出会い、食べるために働き、クビになり、投獄され、また食べるために働き・・・・を繰り返します。
乱暴に言えば、『モダンタイムズ』は労働と解雇と投獄の連続で構成されている映画です。
場面場面でギャグが展開されますので、ギャグのデパートのような印象さえ受けます。チャーリーの奮闘ぶりは抱腹絶倒もので、何をやっても社会に適合できない小男と、彼に翻弄される“常識社会”の人々とのコントラストが笑いを誘います。
二人はオンボロながらもマイホームを持つのですが、そのとき字幕に
“It's Paradise !” と出ます。何が人間の幸せか、考えさせられるシーンでした。
また、本作はチャップリンが初めてスクリーンで声を発した映画としても有名です。
それもほんの一場面だけ 無国籍の言葉もどきで唄うんです。1927年にトーキー映画が登場し、1936年現在、世界でサイレント映画を作っていた有名な映画作家はチャップリンぐらいでしょう。(小津安二郎は『モダンタイムス』公開と同じ36年に、初のトーキー映画『一人息子』を撮っています) 本作は、サイレント映画芸術の孤塁を守りつづけたチャップリンの トーキー出現に対するひとつのリアクションでした。
言葉の違い、民族の違いをこえて、世界中の誰もが「見る」ことで分かる動作や表情で人間ドラマを構成し、銀幕を前にみんなで笑い涙する映画独自のよさを、デタラメ言語のコミカルな歌と踊りで披露した 一流の名人芸でした。
ほかに、留置所を訪れた牧師の妻のやりとりなど、映像と音響効果が奏でる効果を 実験的に演出してもいました。
前作の『街の灯』(1931年)からチャップリンは、「サウンド版」としてサイレントながらも自作の映画音楽を映像にのせ、その音楽的才能をみせています。
『モダンタイムス』でも、前述の“ティティーナ”、ラストシーンで印象的だった“スマイル”など、見事な映画音楽を聴かせてくれます。(アメリカを追放された彼を、ハリウッドは20年ぶりにアカデミー賞授賞式に招き、“スマイル”を大合唱したのでした)
『モダンタイムス』は、主題の点でも演出や音楽の点でも特筆すべき特徴が多い作品ですが、もうひとつ挙げるとすれば 共演女優の描き方でしょう。
エドナ・パーヴィアンスに代表されるように、それまでの共演女優は、その人物造形に弱い面がありました。女性はあくまでチャーリーの思慕の対象・無償の愛の奉仕先で、可憐で美しい存在に過ぎなかったわけです。M・ケネディの『サーカス』しかり、V・チェリルの『街の灯』しかり。E・パーヴィアンスの『巴里の女性』やG・ヘイルの『黄金狂時代』で 自ら生きぬく気概を持った女性が登場しますが、本格的にチャーリーと対等に「共演」するのは 『モダンタイムズ』のP・ゴダードが最初といえましょう。
二人が手を取り合って遥か彼方へ歩み出すラストシーンは、今まで 常に独り哀愁を帯びた後ろ姿をみせていたチャーリー像と明らかに異なります。
どこからともなく現れて、恋愛劇と ひと騒動を起こして去っていく 従来のチャーリー像とは違った社会性を彼が持ち始めたということです。チャーリー自身の変化という点で、興味深いことです。
(その意味で、『街の灯』以前の「自由な浮浪者チャーリー」が活躍するチャップリン映画を愛するファン心理――私もその一人ですが――も分析できましょう。作家・チャップリンには「社会」と無縁のチャーリー像にとどまることが 時代状況からして許されなかったのだと思います)
感動的なラストシーンの意味するところは、社会に適合できない二人の 社会からの「逃避」「決別」ではありません。
二人は新たなる再出発の決意に燃えているのです。また繰り返されるであろう労働〜解雇の連続に立ち向かおうとしているのです。
泣き崩れる彼女を励まし、励まされて闘志に沸く彼女に 笑ってごらん… とパントマイムで笑顔を促すチャーリーの姿は、現代社会を生きる私たちへのメッセージでもあります。
『モダンタイムス』は、現代社会を爆笑のうちに皮肉り、読み解きつつも、人間らしさを失うまいと厳しい社会と格闘し、人生を正面から歩む人々への賛歌だと思います。
二人の前に続く道は、同時に スクリーンに向き合う私たちの前にも続く道なのです。
ルネ・クレール監督の『自由を我等に』など 他にもトピックがありますので、
いずれ 日を改めて語ってみたいです・・・・・