「市民の皆さんに“平和と繁栄”の記念像を贈ります」――記念碑を覆う幕の下には、第1次世界大戦後のアメリカが享受していた永遠に栄える社会の象徴があるはずだったのですが、いざ除幕すると、そこには職を失った浮浪者が寝ていた……。 除幕式典は大騒ぎとなり、居並ぶお歴々は大慌て。
このファーストシーンは子どもから大人まで大爆笑! 封切された1931年という不況の時代を思うと、当時の観客は「みせかけだけの繁栄は、一枚剥いでみればこのとーり!!」という皮肉を感じたはず。幕の向こうに思い描いた“平和と繁栄”は、実は厳しい現実だったのです。
一方のラストシーンはどうでしょうか。
チャーリーのおかげで視覚を回復した花売り娘は恩人の姿を思い描き、花屋の来客(シルクハットの美青年)を見て、「あの人が戻ってきたのかと思ったの」と祖母に言います。恩人が誰であるかを知っている私たちは、このシーンをとても残酷に感じるのです。
そして、“You?” “You can see now?” “Yes, I can see now.”の3枚の有名な字幕に挟まれながら、クローズアップでチャップリンが最高の演技をみせるラストシーンで、彼女は視覚だけでなく真に開眼し、自分の恩人を知ります。見えない目を覆っていた瞼の向こうに思い描いた“白馬の騎士”は、実は“小汚い浮浪者”だったわけです。
しかし、90分に満たないこの物語をたどってきた私たちは“小汚い浮浪者”こそが無償の愛を尽くし続けた“白馬の騎士”であることを知っている……。
ファーストシーンとラストシーンをこうも簡単に対比するのは乱暴ですが、二つのシーンは、「運命の皮肉」、「残酷」という最初に抱く感想の次に来る問いに私たちを向き合わせます。
それは、「何が見えなかったのか?」、「何が見えるようになったのか?」、「何がさえぎって見えなかったのか?」 という問いです。
チャップリンはそれをパントマイム、映画という視覚芸術・娯楽をとおして直球勝負で投げかけています。
私たちはラストシーンに泣きぬれながら、今まで「見て」いた映画の映像(演技・演出)の驚くべき力と、式典に集った人々、花売り娘が「見ていた/見えなかったor見ていなかった」ものを物語に感動しながら反すうするのです。
そこに、『街の灯』鑑賞後の複雑で不思議な衝撃と感動の秘密があるのかもしれません。
「ハッピーエンドなのかしら?」、「あの後ふたりはどうなったのだろーか?」という感想・コメントをよく聞きます。私自身を含め、誰しもそう思わずにはいられない終わり方です。人は真実と向き合ったときどうするか、真実を知ることは幸せなのか……二人の間に、冒頭の除幕式のごとく一波乱起きると感じるならば、悲劇的結末は目に「見えて」います。先にあげた問いとぶつかって自問することに、ラストシーンをよむ鍵があるように思えます。
最後に、ルネ・クレールのコメントをご紹介しましょう。
「約20年前のチャップリンの作品『街の灯』をもう一度見てきたところだ。(中略)好きな作品に対しては、時には衰える私の記憶力もみごとな働きをする。私はあらゆる映像を思い出すことができる。ところが『街の灯』の最後のシーンが、奇跡でも起きないかぎり滑稽すれすれのメロドラマ的状況であるにもかかわらず、非常に美しいものだったということを覚えていなかった。
(中略)私はこのシーンをこの作家ではなく誰か他のものが演出していたらどうなっていたか、さらに現代の専門家がそのせりふを書いていたらどうなっていたか、あえて想像はしない。それがどういうものであれ、比べることはできないはずだ。このシーンをかたちづくる各ショットは、そのリズムから照明に至るまですべてが完璧であり、すげてに、非常にまれだが、それと分かった時には強く感動させられる天才のしるしが刻まれている。」(ルネ・クレール監督 1950年執筆)
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