終わり街の断片

                                                 Jun Hashimoto



   天使の羽が陽を覆う
   審判の鐘がうち鳴らされ
   人々は暗黒への帰還を急ぐ
   さあ窓を開けて見てごらん、
   亡者が街に戻ってきている。
 
                                      M・D・スワンプ(19世紀英国詩人)



1 COUPLE

 ダグラスは、腕に痺れを感じて目を覚ました。
 右腕のうえに、シルヴィの寝顔があった。彼はゆっくりと、彼女が目覚めぬように腕を引き抜いた。
 彼は自由の利く左手で、暗闇の中サイドテーブル探ってみた。指先に煙草の箱が触れ、それを掴んだ。鼻先まで持ちあげ、開いた口に指を突っ込んだ。だが、指の先は虚しく空をきった。
「あれが最後の一本だったか……」
 ダグラスは、空き箱を握り締めようとして、ふと思い止まり、その箱をサイドテーブルに戻した。
 右手に血行が戻ってきた証拠に、ジンジンとした痺れが始まりダグラスは顔をしかめた。血行の早まる感覚は、不快以外の何ものでもない。
 もう眠れそうもなかった。彼は、ゆっくりと毛布から抜け出し、冷たいコンクリートの床に立った。
 再びサイドテーブルを、今度は右手で探りライターを見付けだした。彼は、その真鍮製のジッポーを点し、そのまま部屋の隅まで歩み寄った。
 そこには、幾本かの蝋燭が立てられていた。その中で、比較的短いもの火を点けると、彼は窓辺の椅子に腰をおろした。
 電気は昨日切れた。
 ガスは、もう一週間も前に出なくなっている。水道こそまだ赤錆色の水を吐き出しているが、それとてもう幾日も続かないだろう。
 湯が供給されなくなったのは、数週間も前の話だ。
 ダグラスは、暗闇に覆われた窓の外を見つめた。
 ほんの一ヵ月前まで、この窓はすぐ前のビルの赤いネオンに終夜照らされていた。ちょっと首を伸ばせば、角のブロックまで延々とネオンの洪水が続いていたのだが、今はただ墓石のように色の無い、巨大なビルの群れがそこに鎮座しているだけだ。
 死んだ街……、いや、今まさに死んでいく街か。
 劇的なまでの変化だ、俺達は取り残された難民だな。いや棄民か……。
 ダグラスはぼんやりと窓の外を眺め、何故こうなったのか考えようとした。
 だが、答えなど出るはずが無いのは、とうに分かり切っていた。習慣的に確認作業を行なおうとする自分が妙に馬鹿げて見え、ダグラスは憂欝の波に襲われた。
 その時、背後で物音がした。
「もう朝なの?」
 シルヴィが目を覚ましていた。
「いや、外はまだ暗い」
 ダグラスは、そう答えると、寒気を覚え両腕をぎゅっと抱えた。
「そう、よく眠れなかったの?」
「なんとなくね、見るのは悪夢だけだから」
 シルヴィがベッドから抜け出した。蝋燭の炎の中に、美しく白い裸身が浮かび上がった。彼女は、薄暗がりの中でダグラスに訊いた。
「何か飲む?」
 ダグラスは首を振りながら言った。
「いや、どうせ生温いビールくらいしか残ってないよ」
「どうかしら」
 シルヴィは、長いブルネットをかきあげると、蝋燭の明かりの届いていないキッチンへ、ためらいの無い足取りで歩いていった。彼女には、灯りは必要がない。網膜はく離で光を失って七年、彼女は闇に生きていた。
 やがてガサゴソと物を動かす音がして、彼女の声がした。
「プルトップの横にくぼみが三個ある缶があるわ、たぶんソフトドリンクだと思うけど?」
 シルヴィは、点字が読めない。自ら、盲学校に通うのを拒んだのだ。ダグラスは、シルヴィに声をかけた。
「もってきてごらん」
「今、窓の椅子ね?」
「ああ、そうだ」
 シルヴィがゆっくりとすり足で窓辺に寄ってきた。彼女は、缶を持った手をゆっくりと伸ばした。彼女の手はダグラスの顔のすぐ前で止まった。
 ダグラスは両手でシルヴィの手を包むようにして缶を受け取った。
「ありがとう」
 シルヴィの空いているほうの手がダグラスの腕に触れた。彼女はそのまま手を滑らし、ダグラスの顔の位置を探った。
「アップルジュースだ、飲むかい?」
 蝋燭の仄かな明かりにラベルをすかせたダグラスがシルヴィに言った。シルヴィはゆっくりと屈みこみダグラスの膝に頭を寄せた。
「いらない、しばらくこうさせて」
 その時だった、窓の外で突然サイレンの音が響いた。
 ダグラスとシルヴィは同時にびくっと体を震わせた。
「サイレン! 消防車だ!」
 ダグラスは、シルヴィの頭をそっと退けると、窓の方へ向きを変えた。
「そう遠くではない、公園の方だ」
 開いた窓からビルの谷間にこだまする音が聞こえてきた。
「まだ……」
 シルヴィが口を開いた。
「え?」
「まだ、この街を守ろうとする人たちが居るのね」
 ダグラスは黙ってシルヴィの頭を抱きなおした。彼の顔をシルヴィが見ることが出来たならそこに苦悩の色を見いだせたはずである。だが、彼女はその肌からしかダグラスの心を読めない。
 ダグラスは、この虚ろな街の景色が、もう彼にとっても、シルヴィにとっても、何の意味のないものであることを覚っていた。
 もう思い出すらも、屍になった。
「シルヴィ、話があるんだ……」
 何かを踏切るようにダグラスはしゃべり始めた。
 廃墟の街の空に、朝の最初の兆が現われた。このビルの、いや、おそらくはこのブロックの最後の住人であろう二人は、短い話し合いを終えると包容で互いを確認しあった。
「生きてみよう」
 ダグラスの言葉にシルヴィは黙って頷いてみせた。藍色の空が蒼へと明るさを増していく。まもなく朝に最初の光がこの死人の街にも届くだろう。


2 COP


 ソニーは目の前に横たわった固まりをただ黙って見つめていた。
「ここから先はあんたの領分だよ」
 横に立った男が言った。
 名は知らぬ。消防服を着た男はボランテイアだという。
 街の住人はほとんど消え去った。だが、このウェスト地区には古い家屋が多くまだかなりの人間が残っているようだ。しかし、当然のように彼らは門戸を閉ざし外界との接触を避けている。ソニーですらいったいどれほどの人間が残って − いや、生きているのか判らない。
「検死なんてやる人間はいない、それに死体を運ぶ所もない」
 ソニーはそう言って消防服の男を見た。
「署に帰ればあんたの仲間が居るだろう、どこかに埋めるくらいやってやらないのか?」
「俺たちだってもう組織が消滅しちまって無給でやってるんだ、この手の仕事は誰もやりたがらないさ」
「じゃああんたらは趣味で警官を続けているって訳か、俺と大差はないな」
 消防服の男は、ふふふと妙な笑いを見せた。それには気に求めず、ソニーは言った。
「惰性ってやつだよ、法を遵守することに人生の大半を費やしちまったんだ、国がなくなってもこの考え方が抜けなくてね。別にヒーローを気取るつもりはまるでない。俺は、警官で居る自分しか想像が出来ないから、制服を脱げないんだ」
 ソニーが言うと、ボランティアの消防士が訊いた。
「どれ位の人間が残ってるんだ警察には?」
「この街全部でせいぜい4、5人だ、毎日減っていくよ、自殺した奴も多い」
「まさかこいつらの中にもあんたの仲間がいるんじゃないだろうな」
 ボランティア消防士は目の前に転がっている死体の山を示した。
「一人くらい居るかもな、こう焼け焦げちゃ見分けもつかない、だいたい何人居るのかも数えられない」
 ボランティア消防士は、手にした手斧で焼けた死体の山を崩した。炭化した死体は、ぐずぐずと崩れ辺りに異臭を放った。
 ガソリンの臭いがまだ残っている。集団自殺したのは間違いないようだが、死体にもがき苦しんだ跡はなかった。
 覚悟の自殺。なのだろうか、ソニーは首をかしげながらも、完全に炭になった死体の山の前に座り込んだ。
「ざっと10人てところか、女も混じってるようだな」
 ソニーも顔をしかめながら警棒で死体を動かしてみた。
「こいつは……」
 ソニーは警棒の先に表面が溶けかかった金属の固まりを引っ掛けた。それは、かろうじて十字の形をとどめていた。ロザリオだ。
「司祭の持つようなでかい代物だね。聖職者だったのかね、神父が自殺するんだ、やっぱり世界は終わりに向かってるんだろうな」
「こいつが現実だ。死ねない人間も、自分で死を選ぶ。俺達が何故死ねないのか理由を考えたほうがいいかもしれないな」
 ボランティア消防士は肩をすくめた。
「神様に選ばれたとでも言うのかい」
 ソニーは消防服の男を見つめた。
「冗談だろ! 神様に見捨てられたのさ!」
 そう言うとソニーは、警棒を地面にこすりつけ表面についた人脂を拭い、腰のホルダーに収めた。
「じゃ、俺は行くぜ、あんたも帰るところがあるなら帰ったほうがいいぜ、そのうちこいつらは野良犬の腹に収まるだろうからな。もっとも、犬どもが生きていればの話だが」
 ソニーはそう言うと自分のバイクのほうに歩きだした。
「縁があったらまた会おうぜ」
 消防服の男もそう言うと消防車に向かって歩きだした。
 ソニーのハーレー・エレクトラグライドは一発でエンジンの息を吹き返した。彼は回転灯をつけると巨大なハーレーダビッドソンのパトロールバイクを発進させた。
 道はそこら中放置されたり放火された車で埋まっている。大型のバイクでその間を縫うのはかなりの技術を要したが、ソニーはまるで自分の手足のようにバイクを操り道を駆けていった。
 子供の頃から路地を走り回った街だ。障害物があっても、道を進むのに躊躇いはない。
 まだ朝の早い時間である。街中にはさほど異臭が漂ってはいない。昼近い時間には其処此処の路地から腐臭が漂いだし、ガスで視界が歪む程である。
 しかしここ数日気温は確実に下降線をたどっている。まだ社会なんてものの残骸が残っていた頃、識者は遠からんうちに氷雪がすべての物を覆ってしまうと予言した。
 その識者が今どこに居るのか、どこで死んでいるのかは定かではない。だいたいが全世界でどれ位の人間が残っているのか知る手立てはなかった。
 ソニーのバイクは彼の所属する、いやかつて彼が所属していたところの警察署に着いた。
 市は、とっくの昔に行政を崩壊させ、警察機構も命令系統が消え去った。つまり、警察は、もう存在していないのに等しい。
 それでも、ソニーは自分が警官であると信じていた。
 建物の入り口は半ば崩れている。騒乱の起こったときに暴徒に破壊されたのだ、あの荒れ狂った人々は真っ先に街を捨てた、そしておそらくはもうこの世に居ないだろう。
 建物のなかも荒廃している、だが、その一画だけがまだ人の生活の痕跡を止めていた。幾つかのソファーが集められ、食料の残骸がテーブルに積み上げられている。
 ソニーが近付くと、ソファーのひとつにうずくまっていた人間が身を起こした。
「ああ、ソニーか、まだくたばらなかったのか」
「残念ながらなボブ」
 ソニーはソファーのひとつに腰をおろした。
「何処にいっていたんだ?」
 ボブが体に毛布を巻き付けたまま座りなおして聞いた。
「今朝方サイレンが聞こえたろ、確かめに行ったのさ」
「そうか、気付かなかったな」
「集団の焼身自殺だった、ボランティアの消防士が駆け付けて消したが間に合わなかったそうだ、俺が着いたときは黒焦げが一山出来上がっていた」
 ソニーはサングラスをいじりながら言った。するとボブは片手で首筋を撫でながら言った。
「あやしいなそりゃ」
 ソニーがトニックウォーターのビンを開けながら聞き返した。
「なにがだ?」
「電話はとっくに死んでるんだぜ、その消防士どうやって火事を知ったんだ? あんがいその消防士が殺して火を付けたんじゃないか」
「……」
 ソニーは、大きくため息をつきながらボブを見た。
 なるほど、それもありだな。死体は『山』になっていた。そして、苦しんだ様子もなかった。
 死んでから火をつけたなら、合致する話だ。
「だいたいが、サイレンを聞けばたいがいの人間が集まるぜ、俺達の車だって音だせば何人かはいつもやってくる。お前が聞いたサイレンは人集めに使ったとも考えられる」
 ソニーは飲みかけのビンをテーブルに置いて拳を握った。
「たしかにな、言われてみればその通りだ」
「警官としての初歩を忘れてる、まず第一発見者を疑えだろ」
「奴を探しにいく」
 ソニーはガタンと音をたてソファーから立ち上がった。
 それを見上げてボブは冷めた声で諭した。
「やめとけよ、今更そいつ捕まえたって検事も弁護士も判事も居ない、証拠も何もありゃしないんだ、どうにもできないぜ」
「だがな、警官として見過ごす訳には」
「そうさな、そのうちばったり出会ったら問答無用でカッパーチップ(拳銃弾)をお見舞いしてやれよ、そいつが正義ってもんじゃないか?」
 ソニーはボブを見下ろした。
「本気で言ってるのか?」
 ボブがソニーを見つめ返した。鋭い眼差しだ。
「もちろんだ! 俺達は、秩序だの平和だのを守るように言われてきた。ところが国はなくなっちまうし、人間はみなどっかに消えちまった、残された俺達は職務を続けようと必死になってみたが、結局この荒れた街の何一つ変えられない。どうしてだかわかるか?」
 ソニーは黙ったままだ。
「今まで、世界がまともだった時はちゃんとしたシステムがあった、法律を破った奴が居ればしょっぴくだけでよかった、ところがシステムがなくなっちまったら俺達みたいな末端の人間がいくら頑張ったって何の解決にもならねえんだ、だったら俺達がシステムそのものになるしかねえだろう」
「自分自身が法律になれっていうのか? 大昔の西部劇みたいに」
 ボブは胸を叩いて答えた。
「そうだ! 現実を見てみろ! 開拓時代なんかより遥かにひでえ状態じゃねえか! 秩序を乱すものは排除しちまえばいいんだ!」
 ソニーは首を振った。
「俺は殺人者にはなりたくない」
「いい子ぶるのもたいがいにしろ! お前だって前は平気で賄賂を受け取ったし、捜査情報を売ったりしたろう、今俺達だけがヒーローなんだぜ、俺達がやらなくて誰がやるんだ! 悪が許せないからお前はまだ生きているんだろ!」
 ソニーは黙って回れ右をするとそのまま歩きだした。その背中に、ボブが狂ったように叫ぶ。
「いいか! 生きている限り俺達は警官だ! 誇りを持て! 悪を許すな! 殺すんだ!」
 ボブの叫びが建物にこだまし続けた。ソニーは建物を出ると自分のバイクにまたがり、動きを止めた。
「ヒーロー……、違うさ、俺は警官として死にたいだけだ」
 ソニーのサングラスに、人気の無い街の景色と、力ない朝の太陽の光が映しこまれていた。

3 GHOST


 みぞれが降っていた。ダグラスは日記を付けているわけではないので今日が正確に何月何日であるのかは失念していた。メディアのない世界では日付の確定は困難だ。だが、今が7月であること位は判っていた。
 コートの衿を立てた彼は、ここ数日出たことのなかったアパートの壁を見上げた。もう他に住人はいないのだろう。その建物は他の建物同様巨大なる墓石に見まごう威圧感を持っていた。
 彼とシルヴィの隠れ家の窓はカーテンが閉ざされていた。ダグラスは両手をコートのポケットに入れるとゆっくりと歩きだした。前回食料を求めてアパートを出たときには、まだ幾人かの人影が見かけられた。そのいずれもが極端に他人に怯えたように行動するという共通点を持っており、彼の姿を見付けるなり何処へともなく姿をくらましたものだった。だが、今日は道を10ブロック進んでも人影はおろか犬一匹見かけなかった。
 最初からどこかへ出掛けるあてがあったわけではない。シルヴィにはただこの街を出る”きっかけ”を見付けにいくとだけ告げた。何日か前ならたとえ食料が尽きて飢え死にしそうでも彼女は彼を止めただろう。だが、あの朝以来何かが変わった。彼女は黙って彼のコートを用意した。
 気付いたとき、ダグラスの足はかつて彼が糧を得ていたシティの中心へと向かっていた。まったく無意識にそちらへ向いていたのだ。
 ビジネスマンとしてのダグラスは落ちこぼれの部類に入っていたろう。サラリーは人並みだが、ボーナスにはついぞ縁の無い男だった。何もない生活だったがシルヴィが傍らに居るだけで彼は満足していた。今もそれは変わってはいない。
 あくまでも、変わったのは世界の方なのであった。しかし、世界が激変しても二人の関係には何も変化はなかった。それが、彼らをこの街にとり残した原因なのかもしれない。二人は自分たちの生活を続けていただけなのだ。そして、彼らに死は訪れなかった。
 ダグラスとシルヴィにとっては、異変は訪れたものであり、二人の世界は、二人の間に依然として存在しつづけている。
 だが、誰もが消え去った世界で、、ダグラスの会社はあっけなく仕事を放棄し、彼もまたオフィスに出向くことはなくなった。
 そんなダグラスが、何かを求めるため歩きだしてみると、自然にかつての仕事場を目指しているのは何とも皮肉であった。
 だが、彼にしてみれば自分の家と職場以外にこの街に馴染みの場所など存在しないのだから仕方ないのかもしれない。しかし、今歩み続ける彼の足取りには何かもっと違う意味が隠れていそうであった。しかし少なくてもダグラス自身はそれを知覚はしていないようだった。
 アップタウンを通りすぎビジネス街に着くまで小一時間はかかった。サブウェイが動いていた頃は25分の通勤路だったが。
 ビジネス街はまさにゴーストタウンだった。彼の住むダウンタウンにしろアップタウンにしろ、住宅街には死臭とも腐臭ともつかぬ悪臭が充満し、それがかつての人間世界の名残であると言えなくもなかったが、このビジネスタウンはあまりにも静まりかえっていた。
 街の路地には紙屑が灰色になって固まっていた。街角には打ち捨てられた乗用車が何台も停まっていたが、ダウンタウンで捨てられた車のようにタイヤやウィンドウが消えてたりはしていなかった。しかし、その表面に染み着いた汚れが時の流れを物語り、高層ビルの下には割れたガラスが堆積していた。
 やがてダグラスはかつてのオフィスが納まる建物の前に着いた。周囲には高層ビルが林立しているので目立ちはしないが、40階建てのビルの中程が彼の職場であり、そこからの眺望はなかなかのものであった。
 ずっと昔は、ツインタワーも見通せたビルであったが、あの建物のメモリアルも建設半ばで放棄され、ただの骸に等しい姿を、みぞれの止まぬ空に曝していた。
 ダグラスはエントランスの開いたままの自動ドアをくぐった。かつてビジネスマンで溢れていたエレベーターホールは無人の広間と化していた。建物のなかはかなり荒れていたが、その広大なスペースと無機質な石張りの内装が乾燥した印象を彼に与えた。ここは人間の居る場所ではないすぐに立ち去れ。目に見えぬ何者かが今にもダグラスに、そう耳打ちしてきそうだった。
 ダグラスはエレベーターの前でボタンに手をかざし、はっとして動きを止めた。
 動くはずはない。ここには文明の息吹は何一つ存在しないのだ。
 ダグラスはゆっくりときびすを返し、建物の隅の階段室を目指した。かつてここが職場であった頃、彼は一度もその階段を利用した事がなかった。知識として場所だけは知っている。だが、その階段がいかなるものであるのかは今日この日まで知ることはなかったのだ。
 鉄の扉が階段室とその他の部屋を隔てていた。文明に根ざした高層ビルにおいては、階段は異質なる存在であった。だが、文明という幻想が崩れたとき実際に役をなすものはこの有史以前から人間を高処に運んでいた石の積み重ねだけになっていた。
 階段室は暗黒の室であった。頭上に途方もなく広い空間を感じるが肉眼では確認できない。ダグラスはポケットから懐中電灯を出した。電気の途絶えた時から必ずそれを持つのが習慣になっていた。ダグラスがそれを灯すと目の前に無機質な光を放つ樹脂張りの階段があった。ダグラスは果てしなく続くとも見えるその階段を懐中電灯の光を照らし見上げるとゆっくりと昇りはじめた。
 まるでこれが天国へ通じる石段であるかのように彼は歯を食い縛り何百もの段を踏みしめていった。いかなる衝動が彼を突き動かしているのかダグラス自身にも判らない。しかし、彼は額に汗しながらも歩むのをやめなかった。
 どれほどの時間昇り続けたのだろう、彼の前の壁に20という数字が光の輪のなかに浮かび上がっていた。
 ダグラスは鉄扉を開け、薄暗いフロアに一歩踏みだした。廊下には書類が散乱しそこが見慣れたはずの風景だとは俄には信じられない荒れようだった。
 何かあまりにも現実離れした光景に思えた。そこには人間社会の匂いがまったくしなかった。ただ金属とプラスチックに彩られた、古代の王墓の玄室のようにも見えた。ダグラスは懐中電灯を消すと床に落ちたファイルのひとつを拾ってみた。
 ばらばらといく枚かの計算書がこぼれ落ちた。まるで実体のない物のようにそれらはダグラスの手を擦り抜けていったのだ。
「……」
 ダグラスは何か妙な衝動が心に湧くのを感じた。誰かが彼を呼んでいる、そんな気がしてならなかった。思い返してみると、家を出たその時から彼はその呼び声に反応していたようだった。無意識のうちに彼はその呼び声に向かっていたらしいのだ。ダグラスの意識にかすかな恐怖が芽生えた。
 扉の向こうにその主が居る。最初はかすかな予感だった。だが、数分間そこに立ち止まりかつての自分のオフィスへ通じる扉を見つめているうちにそれは確信へと変わっていった。
 待っているのだ。彼がやってくるのを。
 この時には彼の心と体は完全に憑依状態に陥っていたと言っていいだろう。ダグラスはまるで雲を踏むような足取りで廊下を進み扉に手を掛けた。
 脳の奥底で警戒音が鳴り響いた。だが、体はそれを無視しノブを回す。もはや表層意識にもダグラス自身の影はなかった。今彼を動かしているのは、おそらく別の人格だった。
「遅かったねダグラス君」
 彼はいた。
「おはようございます、タカナシ部長」
 ダグラスは挨拶をすると自分の机に向かった。
「どうしたことか、今日は皆出勤が遅いんだよ」
 部長は自分の机に肘をついたままそう言った。ダグラスが周囲を見回すと、整然としたオフィスには彼と部長の影しかなかった。
「ほんとうですね、何があったんでしょう」
「困ったよ、はやく東京の本社に取引の情報を送らなければいけないのに」
「ああ、添付メールなら私が送りますよ」
 ダグラスは立ち上がった。その時、机にうえに置いた写真のスタンドが倒れた。彼はあわててそれを起こす。そこにはシルヴィの姿があった。
『しっかりしてダグラス』
 耳元でシルヴィの声がした。ダグラスの意識の一部がかすかに活動を再開したようだった。
─いったい、俺はなにをしているんだ?
 部長が、いつもの口調でダグラスに言った。
「ああ、それはありがたい、どうも私は機械が苦手だ。どういう訳か東京は電話にも出ないんだ、まるで向こうの人間はみんな死に絶えたみたいにね」
「まさか、死んだなんて縁起でもない……」
『ダグラス、何をしているの?』
─俺にもわからない!
『しっかりして、今あなたは何処にいるの?』
 反射的に、ダグラスは頭の中の声に答えていた。
「仕事場にきまってるだろシルヴィ……」
「誰かね、シルヴィとは?」
 部長の声はまるで墓の下から響いてくるように湿気った音色だった。
 意識の下層からじわじわと恐怖が沸き上がってきた、だがその恐怖の源はダグラスにはまだ知覚できない。
 部長は椅子に座ったまま、眼鏡を拭いていた。
「まったく世の中どうしたのだろう、仕事は山のように溜まっているのに、何もかもが停まってしまっている、どうしてだろうねダグラス君?」
 ダグラスはゆっくりと首をめぐらし部長の顔を見た。見慣れた平板な顔、磨き終わり顔に戻った黒縁眼鏡の奥には感情の消えた黒い瞳……だが、見慣れたはずのその部長の表情から、何かが少しずつ変わっていった。
 ダグラスの見ている前でやがてその眼窩はただの空洞に変わり小さな瞳はどろりと流れ落ちていった。同時に顔の真ん中の小さな鼻もポカリと開いた空洞に姿を変えていた。
 皮膚はただれ、腐り落ち、頬には白い骨が剥き出しになった。
 顎骨とはだけが見える下顎が、カタカタと動き声を出す。
「誰も来ないのだよ、電話もないし、テレックスも停まっている。ネットは接続できないし、携帯もアンテナが立たない」
 部長の顔から皮膚が完全に消えていた。彼の声はカタカタと音をたてる顎の骨の間からまるで空気の漏れる音のように響いてきた。薄い髪の毛がずるりと頭頂から滑り落ちていった。
 ダグラスは喉がひりひりと焼け付くのを覚えた。しゃべろうにも声が渇れてしまって出ていかない。だが、彼は無理遣り口を開いた、乾いた唇がひび割れるのを感じた。
「ぶちょ…う」
 朽ちた扉が押し開かれるような声だった、それでも辛うじて言葉はダグラスの口から出ていた。
「何があったのかね、ダグラス君?」
 もはや完全に骸骨と化した部長の顔から眼鏡が滑り落ちていった。ダグラスはその顔を見つめたまま言葉を絞りだした。
「世界が終わったんです……殆どの人類は死に絶えました」
 突然突風がダグラスを襲い、彼はその場に薙ぎ倒された。床にしたたか身を打ち付けられた彼は目を閉じ肺の空気を一気に吐き出した。
 すさまじい頭痛が一瞬ダグラスを襲ったが、それはすぐに薄らいだ。彼がつぶっていた目を開くと、目の前にシルヴィの写真を収めたフレームが落ちていた。ダグラスはそれを拾うとゆっくりと頭を振った。
 混濁した意識はスッと晴れ上がり彼はすんなりと立ち上がることが出来た。
そして彼は、先程まで部長の座っていた机を振り向いた。
 そこには無人の椅子が風に揺れていた。風は、その背後の大きな窓ガラスに
ポッカリと開いた裂目から吹き込んでいた。
 それは丁度人間ひとりが飛び降りるに足りる大きさの裂目であった。
「……」
 ダグラスは恐る恐る部長の机に歩み寄った。机の上には一挺の拳銃−38口径のリボルバーと部長の愛車であった日本製ワゴン車の鍵が置かれていた。
 そして、その拳銃を重しにして一枚のメモが風に揺れていた。ダグラスはそれをつまみあげた。そこにはただ一言「for you」とだけ走り書きされていた。
 メモを裏返すと、さらにこう書かれていた。
『生きたまえ』
 そのメモを見た瞬間にダグラスには何もかもが判った気がした。待っていたのだ彼は、ずっと待っていたのだろう。だが待ちきれずに果てた。それでも彼は待ちたかったのだ、かつての部下を。
 仕事以外に何の接点もない男だったが、仕事だけが生きがいと嘯いて止まない男でもあった。ダグラスは部長の椅子に目礼をすると机のうえの銃と鍵を取り踵を返した。
 部長が実際に何を言いたかったのかは永遠の謎だろう。だがダグラスはダグラスなりに彼を理解したと思っている。だから彼の形見を受け取ったのだ。
 別に彼だけが待たせたわけではない。だが、結局部長の期待に応えられたのは彼しかいなかった訳である。落ちこぼれであったダグラスにしてみればこの上ない皮肉なのかもしれないが、とにかく会社という閉じた世界に殉じた上司の遺志くらいは受けてやっていいだろう。彼はそう判断したのだ。
 ダグラスは再び暗い階段室に入りそれを下りはじめた。行き先は地下である。おそらく其処には部長のワゴンが彼を待っている筈だ。彼にはそれを運転する義務があるのだ。それが部長の最後の命令だから。


4.MURDER


 ラルフは着ていた銀色の防火服を脱ぐと額に浮いた汗をぬぐった。
 朝方一仕事終えたところに警官が現われたときは全身の毛が逆立ってしまった。だが、その場を無事に切り抜けた後彼はすさまじい笑いの発作に襲われ、その後は数時間身震いが止まらないという状態が続いた。
 彼は恐かった。自分が裁かれるのが恐かったのだ。
 最初に人を殺したときに裁かれるべきだったのかもしれない。少なくともあの時はまだ呵責が彼の心のうちにあった。だが、今の彼は殺戮以外に自分の生存を確認できない病人であった。それでも彼は裁かれるのを恐怖した。
 彼の心の片隅にまだ神の影が居座ってでも居るのだろうか。かつて彼が身を捧げた神の姿が。
 ラルフは服を脱ぎ捨てた後、首に手をやり一瞬動きを止めた。今朝まで、そこで必ず手に触れた感触が消失していた。そしてゆっくりと思い出す。
 そうだった、あれは今日葬った人間とともに焼き捨てたのだった。しかしなぜ突然そんなことをしたのだろう。ラルフはもう一度昨夜からの出来事を思い返してみた。
 消防車を見付けたのは偶然だ。
 一昨日殺した男、ホームレスだったらしい男の首を絞めながら倒れこんだ扉の向こうにそれがあった。
 ラルフはその新しい玩具に夢中になった。異常をきたした精神にはこの機械はあまりにも魅力に富んで見えた。燃料がなくなりかけるまで彼はそれで町を走ってみた。そして夜明け前の公園でそれまで試さなかったスイッチのひとつに触れてみた。それはサイレンのスイッチだった。
 ここ何週間もラルフは街の闇から闇を潜み歩き、見かけた人間を始末し続けていた。だが、あれほどの数の人間がまだこの腐った街に残っていようとは思いもしなかった。
 集まった人間はみな神に召されるのを心待ちしている。ラルフにはそう思えた。いや彼は心底そう信じていた。だからその場にやってきた10人余りの男女を片っ端から手斧で斬り倒していった。それが彼の使命なのだから仕方ないのだ。
 やがて最後に現われた男の顔に彼は見覚えがあった。幾年か前に会った顔であった。ラルフはすぐには判らなかったが、男は即座にラルフを見分けた。
「神父」
 男の口がそう動いたときにラルフは男の素性に思い当った。かつて彼の教区で奉仕活動をしながら婦女暴行を繰り返していた男であった。
 ラルフは少しだけ眉を吊り上げ男を見据えた後、手にした斧を男の首に振りおろした。男は一撃では死ななかった。男はぼこぼこと泡を吹く喉からシューシューという音に混じって何かをしゃべった。
「主よ……」だったかもしれないし「救けて……」だったかもしれない。どちらでもラルフには関係なかった。彼の手で大いなる父の膝元に送られる人々はすべて彼に感謝している筈なのだから。
 すべて納得してやっているのだ。だが彼は裁かれるのが恐かった。自分の行動に自信がないのではない。それが神の望みらしいと自分で決めているのだから自信は十分にあった。では何が恐いのか。
 彼は殺すことに慣れすぎたのだ。殺すのは正義なのだが、自分が殺されることは認めたくなかった。まさに異常なる心理以外のなにものでもない。
 とにかくラルフは自分の知っている顔がそこに骸となって横たわった時に発作的に火を付けるという行為に思いいたった。結果的にそれが彼を救ったのだが、今にいたってもラルフにはその因果関係など理解できていない。何であれとにかく彼を生かしているのは彼に与えられた使命の為せる業なのだから。
 今彼は、何か言い知れぬ脱力感に襲われていた。
 彼の耳に静寂を破る響きが届いた。
 この死にゆく街で生きていく男に身についた習性が、彼の体を反射的に蘇らせた。
 エンジンの音だ。車がやってくる。
 彼は一瞬後には建物の影の闇に潜んだ。
 彼の目の前を、朝見たあの警官が通りすぎて行った。
 その瞬間、彼は悟った。あの男は彼の敵である。
 新たな使命がラルフの脳裏に刻みこまれた。ラルフはゆっくり頷くと、パトロールカーを運転する警官の背を鋭い眼差しで見つめた。
「……」
 ラルフが何かを呟いた。口の中でこもった声は、黙示録の一節であった。
 彼の手は無意識に得物を探し蠢いていた。
 ラルフは警官を追った。
 その手には、銀色に輝くスティレットが握られていた。
 車が停まった。
 ラルフは車にゆっくりと近付いた。
「何か用か?」
 車から警官が顔を出し、追い掛けてきたラルフに聞いた。
 ラルフは一瞬動きを止めた。
 今朝の男ではない。
 だが、次の瞬間ラルフは駆出し男に迫った。
「我が主よ!」
 薄刃の短刀が閃いた。
 警官の頚動脈から赤い噴流が迸った。
「き、きさま……」
 警官は目を見開きラルフを凝視する。
 ラルフは再び短刀を構えた。
 次の瞬間、ラルフは腹に殴られたような衝撃を受けよろめいた。
 音は後からやってきた。轟音が響き、車のドアを貫いた弾丸がラルフの腹にめりこんだのだ。
 首を押さえた警官は、その右手で357マグナムを握っていた。普通なら、その強力な弾丸は人間を一撃で射ち倒していた筈だ、だが、鉄のプレスドアを射ちぬいた後の弾は通常の38スペシャルより威力が落ちた状態になっていた。貫通力の鈍った弾丸の所為でラルフは、致命傷を負わなかった。
 痛みは。ラルフの狂気の炎に更なる油を注いだ。
「裁きは終わったのだ!主の御下へ還れ!」
 ラルフは歯を剥出し、目を見開き、車の窓に身を乗り入れ警官に蔽いかぶさった。
 短刀が肉をえぐる音と再度の銃声が同時に聞えた。
 後はただ、人気のない町に静寂が訪れただけであった。

5 DEAD END

 路面には血痕が続いていた。だが、それはやがて断続的に降る霙によってかき消されていく。汚れた埃混じりのシャーベットが、ほんの数時間で赤茶色い染みをただの汚れに変えてしまう。
 もはや、濡れた道の上に広がる汚れが何に起因するのか判別出来なくなった頃、一台の車が死人の谷と見紛う市内にさしかかった。
 助手席には、強ばった顔のシルヴィが座っていた。ハンドルを握るダグラスの顔も緊張に支配されていた。
「この街は監獄よ、出る手立てはないのよ」
 シルヴィが言った。物見えぬ彼女の瞳は、虚空を見据え、絶望の色を湛えていた。
「いや、きっと道はある、必ずある」
 ダグラスは答え、ハンドルを強く握り締めた。
 彼らは、すでに2時間近くこの死人の街を彷徨っている。周囲を川で囲まれたこの街から脱出するには、橋を渡らなければならない。だが、彼らは幾十と架かる橋を端から巡っているのだが、どの橋も車が渡ることを拒んでいた。
 ある橋は、放棄された車で埋まり、ある橋は中程に巨大な穴がうがかれているという有様だ。
 車を走らせているうちに、二人には言い知れぬ絶望感が沸きだしていた。
 それでも、ダグラスは車を走らせ続ける。それが彼の義務であった。部長の亡霊に命ぜられた使命であった。
 今、車は何度目かの市内を通過していた。
 その彼らの車が通りすぎるのを、交差点の遥か向こうで認めた人間がいた。
 シティの中心に近い広場。かつて、若者たちのムーブメントであったこの広場に、今見ることの出来るものは、巨大な殴り書きと壊れたワゴンだけである。その、殴り書き−「神はいずこにありや? 全世界はそれを欲す」と書かれた壁の前で、警察官のソニーは愛車にまたがったまま休息をしていた。
 ソニーは、最初車の音に気付かなかった。
 だが、彼の目は、遥か彼方の交差点を横切っていくワゴンを認めた。
 しばらくの後に、彼の耳に車の排気音が届く。それによって、今のが幻覚でないことを彼は認めた。数十分前、彼は車の音らしきものを聞き、ここへ来たのだが、それがやはり幻聴ではなかったことも、今証明されたようだ。
 動いている車を見るのは稀だ。いや、ここ何日かは絶えて無かったことだ。
 ソニーの眉が動いた。
 今、この街では動くもの総てを疑うべきだ。朝の一件が、彼の頭にそうインプットさせた。
 ソニーは、キック一発で愛車のエンジンを始動させると、今車が向かった方向に平行の街路にバイクの鼻を向けた。
 5分ほど、かなりの速度でバイクを走らせた彼は、その車首を直角に曲げ、先程車の通った通りの続きである交差点にバイクを止めた。
 数ブロック手前、彼が先程走ってきた方角から、一台の車がやってくるのが見えた。ソニーは、バイクのスタンドをたてると、ゆっくりとそこから降り、車の進路に立ちはだかった。

 ダグラスは、そのバイクが現れるのを4ブロックほど前に認めた。
 一瞬緊張で全身が強ばったが、声はあげなかった。しかし、微妙な雰囲気の変化をシルヴィは感じ取ったようだ。
「何かあったの?」
「バイクだ、前にとまった」
 そう答えた後、ダグラスは交差点に立った男が、警官の姿をしているのを認めた。
「警官だ!」
 不安な中にも、幾許かの安堵の交じった叫びをダグラスはあげた。
 まだ世界が存在した頃、彼らは所謂善良なる市民に分類される類の人間であった。それ故、警官の姿に敵愾心も持たないし、緊張も感じない。
 ダグラスは、素直に車のアクセルを戻し、速度を落とした。
 ソニーは、車が速度を落としたの認めると片手をあげ、車を停止させた。
 ソニーは、腰のホルスターのフラップが開いているのを確認すると、停車した車の運転席に近付き、開いた窓を覗き込んだ。
 そこには、かつて彼がよ見慣れた、一般人の姿があった。ここ何週間も見なかった、平凡なるカップルの姿。いくぶん緊張しているようだが、警戒心を持つでもなく、敵愾心も持ち合わせていないように見えた。
 その二人の姿を見た瞬間、ソニーはかつて行なっていた日常的な、交通チェックの手順を踏み始めていた。
「ライセンスを見せてもらえますか? ミスター」
 彼はそう言って片手を差し出した。
 よく考えれば、すごく不自然な行動であったかもしれない。この荒涼たる廃墟同然の街で、身分を証明したところで、幾許の安堵がえられよう?
 だが、今この瞬間、ソニーの脳裏には世界が破滅しつつあるという意識はなかった。今の彼は職務に忠実な警官であった。
 ダグラスは、目の前に居るのが正真正銘の警官であることに少々驚きながら、ソニーの言葉に従った。
 ポケットからライセンスを取出し、警官に渡す。シルヴィはその間、ただじっと座って押し黙っていた。
 ソニーは、ダグラスのライセンスを一瞥した。ステート発行のオフィシャルライセンス。罰則適用スタンプなし。
 ソニーは、写真と本人を見比べながら質問を発した。
「どこへ行くんだね?」
 ダグラスは警官を見上げた。彼は、自分の口のなかで今の質問を反芻した。
「どこへ行く? ……そう、外です」
「外?」
 ソニーは、ライセンスを握ったまま、改めて運転手の顔を見た。
「街を出たいんですよ」
 そう言うとダグラスは悲しそうな顔をした。
「でも、出口がないんです」
 ソニーはゆっくりうなずいた。
「出口を探していたのかね?」
「ええ、もう2時間も走っている。イーストエンドから、ヴィジェーストリート、コートンまで全部の橋が通れないんです」
 ソニーは腕を組んだ。
「街を出られさえすればいいのかね?」
「ええ、この街でなければいいのです」
 何が、なのかをダグラスは語らなかった。だが、ソニーには彼の言いたいことがよく解った。
「北はだめだ、南に向かえ、ホジスストリートからウォータールー橋を目指すんだ、昨日はまだ通れたはずだ」
 ダグラスの顔が輝いた。
「ありがとうございます」
 ダグラスは素直に礼を言った。
「気をつけてな、奥さんを大事にな」
 ソニーはそう言って片手をあげた。
 ダグラスは軽く頭を下げると、車をバックさせ、1キロほど下がったホジスストリートとの交差点を目指し、後戻りを始めた。
 車が立ち去るのをしばらく見送ってから、ソニーは妙な虚無感に襲われるのを感じた。
 いったい自分は何者なんだろう。
 今、確実に世界が終わろうとしているこの瞬間にまで、彼は警官であった。
 結局、警官以外のことが自分には出来ないのであろうか? それが神が彼に課した償いだとでも言うのだろうか?
「俺はただの警官だ、法律にはなれない」
 耳の底には、ボブの言葉が残っている。だが、彼はどうしても彼の言葉には賛同できない。自分には裁く権利はない。組織がないのであれば、神にその裁きを委ねればいい。ソニーは本気でそう思い始めていた。
 彼は、ゆっくりとバイクに戻りそれに跨がろうとした。その瞬間、彼は手のなかに先程の運転手から預かったライセンスが握られたままであることに気付いた。
「なんてこった!」
 ソニーは狼狽した。
 明らかな職務上のミスだ。彼は顔が紅潮するのを覚えた。ベテランにあるまじきミスである。
 今、このライセンスがどれほどの意味を持っているか、などというのは彼にはどうでもいい事であった。ただ、自分が初歩的なミスを犯したことがたまらなく悔やまれた。
 ソニーは、ヘルメットの顎紐を絞めなおすと、バイクのエンジンをかけた。
 返さなけらばならない。それが彼の職務だ。ソニーは車を追った。

 ラルフは、傷から流れる血を止めようともしなかった。
 運命を甘受する、そんな瀟洒な気持ちを持ち合わせたわけでもない。ボブに撃たれた瞬間に、彼の精神は最後の理性を失ったのだ。
 すでにだいぶ前から、そう、世界に最後の秩序が見られた頃から彼は異常であった。彼は、最後の審判を認めなかった。正確には認めたくなかった、かもしれない。とにかく、彼は自分自身が破壊者になることに抵抗を覚えず、完全な分裂症状を示したまま生き永らえてきた。
 この混沌とした破壊のなかにあって、奇跡とも言えるだろう。だが、その命運も尽きたようである。
 失血で朦朧とし、混濁した意識のなか、彼は天使の導きに身を委ねていた。
 今、ラルフの目には、守護天使の姿がはっきりと見えていた。それ以外の景色はすべて霧にかすむ。
「待ってくれ」
 彼は去っていく天使の背中を追う。
 どれほどの距離を歩いたであろう。天使はついに立ち止まった。
 ラルフは天使にすがった。
 天使の肌は冷たく。天使は無表情にラルフを見下ろす。だが、この瞬間に彼は至福に満たされた。
 彼はその腕に天使を掻き抱き、永劫の至福を甘受していた。何者も、彼のこの喜びを邪魔してはならない。彼は喜悦に震えていた。

 ダグラスは、再び降りだした霙に視界が悪くなり、車の速度を落とした。そろそろウォータールー橋が見えてくる筈であった。
「もうすぐ橋だよ」
 彼はそう言ってシルヴィの肩に手を掛けた。ようやくシルヴィの緊張も解けかけているようだった。
「街を出た後はどこへ向かうの?」
 ダグラスはシルヴィの問いに一瞬の間の後に答えた。
「とりあえず南だ、まだ赤道の方には人が居るみたいだからね」
「遠いわね」
「ああ、遠い、でもきっと着けるさ」
 その時、前方に橋の欄干の列が見えてきた。
「さあ橋が見えてきた……」
 その時、ダグラスの目はそれを捕らえた。
 彼はブレーキを踏み車を止めた。
 シルヴィがどきっと体を震わせ、訊いた。
「どうしたの? なぜ止めたの」
 ダグラスは、悪くなる視界のなかフロントガラス越しにそれを見つめた。
「人だ、人が倒れているようだ」
 橋の欄干の、飾り彫刻に抱かれるように人影が崩れていた。
 ダグラスは車のドアに手を掛けた。その手をシルヴィが押さえた。
「行かないで!」
 ダグラスが動きを止めた。
「どうしたんだ? 様子を見てくるだけだよ」
 シルヴィは明らかに怯えていた。
「駄目、私を置いていかないで!」
 ダグラスは黙って彼女を見つめていた。だが、ゆっくり頭を振り、彼女の両肩に手を乗せた。
「大丈夫だシルヴィ、すぐに戻るさ、ああ、そうだ……」
 そこでダグラスはポケットに手を入れ、そこから取り出したものをシルヴィの手に握らせた。
「!」
 シルヴィの体が俄に強ばった。冷たい金属の塊。それは、ダグラスが手に入れた拳銃であった。
「いいかい、僕が外に出たら車をロックする。もし、僕以外の人間が来て無理やりドアを開けようとしたら、声のしたほうにこれを向けて引き金を引くんだ、いいね」
「恐いわ、お願い、ダグラス、やめて……」
 シルヴィがダグラスにすがった。
「大丈夫だ、すぐ戻る」
 ダグラスは、シルヴィの額にやさしくキスすると、ドアを開け霙の降る車外に出た。
 車の中には、生まれて初めて拳銃を握ったシルヴィだけが、孤独で不安な空間の中にとり残されていた。

 ソニーは、先程の車を追ううちに偶然ボブのパトカーを発見した。
 車はあまりにも不自然な停まり方をしていた。
 彼は、胸騒ぎを覚えながらバイクを近付けた。
「ああ、なんてこった!」
 車まで5メートル程に近付いたとき、彼はそれを認めた。
 ボブが死んでいることは一目で解った。掻き切られた喉から流れた血は、すでに固まりつつあった。
 1分ほど、彼はその場に立ちすくんでいた。
 口論もしたし、決して仲の良い同僚とは言えなかったろう。だが、彼は紛れもない戦友だった。
 この死んだ街の中で、彼と同じように警官であり続けようとした仲間だ。
 ソニーは、ボブの死体に外套をかけ、敬礼をおくった。
「今の俺には何もしてやれない」
 ソニーは、ボブの車の燃料キャップを開き、トランクから出したぼろ布を差し込んだ。そして、ライターで火をつけるとバイクに乗りその場を離れた。
 数十秒後、彼の背後で鈍い爆発音が響き、パトロールカーは炎に包まれた。
 その時、ソニーはとうに渇れてしまっていたと思った涙が、頬に流れているの感じた。今、彼はひどく孤独であった。
 
 ダグラスは、ゆっくりと橋に近付いた。
 やはり彼の見たものは人影であった。
 石の彫像に抱きついた男は、腹から血を流していた。
「どうしたんだ? 大丈夫か?」
 ダグラスが声をかけると男がゆっくりと彼を振り仰いだ。
 ラルフは、自分と天使の時間を邪魔する存在が現れたの感じた。
 彼の耳には、ダグラスの声が悪魔の囁きに聞こえた。
「私は神の御元に向かうのだ、悪魔よ去れ」
 弱々しい声で彼は告げた。だが、悪魔はその長い爪の手を彼に差し向けてきた。
「一緒に来るんだ、手当をするから」
 悪魔はラルフを掴んだ。その強い力は、彼を捕らえて離さない。
「主よ、最後の力を!」
 ラルフは叫び、悪魔の体に体当たりをした。
 ダグラスは、救け起こした怪我人が、突然飛びかかってくるなど予想だにしなかった。そのため、突然の体当たりに完全にバランスを崩してしまった。
「うわぁ!」
 ダグラスとラルフは完全にもつれ、そのまま橋の歩道を横切り、体を重ねたまま欄干を越え、川面へと、十数メートルを落ちていった。黒い流れの表面には、流れ去る氷の塊がいくつも見えていた。二人の落ちた水音は、ついに聞こえてこなかった。
 だが十数メートルの段差を落ち、氷の川にもつれ落ちた人間の運命は、神の居ないこの地では、一つの意味しか持っては居なかった。
 二人は二度と戻ってこない……。

 ソニーは、頭の中が妙に空虚になるのを感じていた。
 もう、あの車に追い付けるかどうか判らない。それでも彼はウォータールー橋を目指した。今の彼に、他の目的はなかった。
 彼は、橋の手前に先程の車が止まっているのを認め、安堵のため息をもらした。
 とにかく、今は目的を果たせる。その後のことは、後で考えればいい。彼はバイクを止めると車へと歩きだした。
 ボブの為に流した涙は、いつの間にか涸れていた。

 シルヴィは、とてつもない不安に襲われていた。ダグラスは、いつになっても戻ってこなかった。
 耐え難いほどの時間が流れた、彼女にはそう感じられていた。実際には、五分かそこらの時間でしかないのかもしれない。
 しかし、自分の家以外の場所での孤独は、彼女をひどく脅えさせていた。
 耳でしか、外界の情報を得られない彼女は、窓の締め切った車のなかでは、どうにも孤独で矮小な存在でしかない。
 シルヴィは恐かった。何もかもが、彼女に牙を剥いているような気分になっていた。
 窓の表面からは、外の寒さがひしひしと伝わってくる。
 ダグラスの声は、いつまでまっても聞こえてこない。シルヴィの神経は、もはや極限まで張りつめていた。
 その時、窓の外に人の気配がした。
「ダグラス?」
 シルヴィが訊いた。だが、返事はない。
 次にコツコツと窓を叩く音。
「奥さん、窓を開けて」
 聞き覚えのない声だった。
 シルヴィは恐怖に顔を歪めた。
「開けてください、窓を」
 シルヴィは、がたがたと体が震えるのを止められなかった。窓の外の人間がドアのノブをがちゃがちゃといじるに至って、シルヴィは完全に恐怖に負けてしまった。
 彼女は、ダグラスに渡された拳銃を窓に押しつけるた。
「やめて! どこかに行って!」
 彼女は立て続けに引き金を引いた。
 ソニーは、自分の命が途絶えるその瞬間まで、自分が撃たれたことに気付かなかった。
 シルヴィの放った最初の弾丸が、彼の眉間を撃ちぬいたのだ。
 崩れ落ちたソニーの指から、ダグラスのライセンスが滑り落ちた。
 霙はいつしか雪に変わっていた。
 ワゴン車が、雪にその姿を完全に埋める頃、最後の銃声がこだました。
 雪は、総てを覆い、何もかもを包み隠していった。
 もう、この街には誰も居なかった。
 彼らは、世界の最期を見る前に、舞台を降りて行ってしまったのだった。




                                                           THE END