『<民主>と<愛国> 戦後日本社会のナショナリズムと公共性』小熊英二著 新曜社
「単一民族神話の起源」や「<日本人>の境界」で膨大な資料を読み解き、日本の植民地支配の経緯や沖縄問題の本を書きつづける著者。今回は前著にまして966ページのボリュームで、戦後のナショナリズムと「公」に係わる議論の背景を検証したのが本書です。本書の内容は、丸山眞男、大塚久雄の戦中・敗戦直後の言説から始まり、天皇論や憲法、左翼の主張する民族主義、保守の主張する個人主義、民族と市民、竹内好、吉本隆明、江藤淳、鶴見俊輔、小田実、「新しい歴史教科書をつくる会」と西尾幹二まで射程に入れた展開です。私たちは「言語の記憶」により、語り、述べる。著者は、戦後に幾つかの様相があり、国民総生産が戦前水準にまで回復した1955年(55年体制の確立した時)までを「第1の戦後」としている。この時代は、貧困と改革の時代であり、民主主義と平等は光り輝く言葉であった。「第2の戦後」は、秩序の安定の基に高度成長の時代として、「先進国」の意識の中で民主・愛国・国家などの言葉は「第1の戦後」と異なる意味を有していたと主張し、検証している。この差異を「つくる会」や「敗戦後論」の人たちは十分理解していないと言うのが著者の立場である。著者のナショナリズムの定義は、心情の表現手段として「民族」や「国家」と言う言葉が採用される状況であり、その場合の心情は極めて多様であり、権力志向や他人への悪意もあれば、反権力の志向や他者への連帯願望もある。個々の背景を無視してナショナリズムを肯定したり、否定しても意味がないと断定している。
著者は「在日コリアン」のナショナリズムに注目している。それは、領土や政府と異質なところから生まれており、このような領土なきナショナリズムをどう考えるのか。「つくる会」は戦後民主主義を否定したところから出発しているが、戦後(第1の戦後)で個人から出発したのは保守主義者で、民主・愛国を唱えたのは戦後民主主義者の側からの主張と指摘する。「一億火の玉」の総力戦の体験の差異である。著者の検証作業により、私たちは戦後を知らないということを理解する。また、それ故私たちの先入観に警鐘を鳴らしている。いずれにしても、このような膨大な著書を書くエネルギーは何処からくるのだろう。「あとがき」にヒントが隠されている。著者の父親は、市井の一市民であるが戦後補償をめぐる戦友の中国系朝鮮人の元日本兵の訴訟に原告団として名を連ねていた。この訴訟は原告敗訴になるのであるが、弁護団は「国に良心なくも、国民に良心あり」と感動的な言葉を贈っている。著者にとって「日本とは何か」「国家とは何か」問い詰めなければならぬ、肉親を巻き込んだ「言葉の記憶」があったと思われる。