「私の水俣」

水俣は、その時代時代に多様なメッセージを発信しつつ、多くの人々にいくつかの考えるべき示唆を与え、それぞれの水俣への想いを生み出してきました。 そしてこの水俣・川崎展も、そうした多くの人々の、それぞれの想いで形つくられていくものだと思います。「私の水俣」では、水俣・川崎展市民委員会の会員の皆さんに、それぞれの水俣との出会いや記憶、水俣・川崎展への想いを綴っていただいています。

鈴木俊輔(多摩区出身・現相模原市在住)
広岡希美(ぐらす・かわさき勤務)
石川美和子(町田市在住)
後藤美穂(高津区在住) 「家族で行こう水俣・川崎展」
斉藤 彰(川崎市職員) 「我青春の水俣」
三枝信子(多摩区在住) 「声をあげる勇気」
保科達夫(川崎市役所勤務) 「障害と水俣」
秋貞早苗(多摩区在住) 「私の見つめたいこと」
松浦哲男(中原区在) 「かぼそい骨の言葉が聴こえますか」

鈴木俊輔(多摩区出身・現相模原市在住)

 学生生活を終え、日々の忙しさと、生活の不安感の中で、自分自身が今まで「これはおかしい」と思うことが、次第に「でも、しょうがない」に変わり、いつのまにか、周りに目を向けず、自分自身のことばかり考えて生活している自分がいました。水俣・川崎展の委員会へは、そうした狭い視野に立った自分のことだけでなく、もっと広い視野を持って生活していきたいという思いから参加しました。

  美術大学へ進学し、絵画という表現手段を持って水俣など、罪なく苦しめられた人々の声を何とか表現し、伝えたいと考えていました。自分が水俣へ興味を持つようになったのも、水俣病という悲劇の中で強く生きぬいている、患者さんたちの姿を写真や絵画、映画という芸術表現を通して、美しいと思ったからです。

 先日、水俣へ旅をしました。そこには、写真や文章で知っていた水俣よりも生々しい自然と人々の生活がありました。自分がなぜ水俣と関わろうとするのか。患者さんを助けたい、権力を批判したい、そういう思いもありますが、それよりも、多くのしがらみの中で生きていく人間の姿、自然とのかかわり、ぶつかり合い、そういったものが、隠されずに、おもいっきり火花を散らして輝いた水俣が、単純に好きなのだと感じました。

  何となく豊かな生活、しかし隠されたものは見えにくく、いつまでも、心の中に疑問を持ちながら生きている。そんな生活の中に、水俣は隠されようとしたものを打ちやぶるエネルギーをもって、何か勇気を与えてくれるような気がするのです。

  水俣・川崎展では、その水俣がもっているエネルギーをもっと多くの人に知ってもらい、広げていくことができればと思っています。

広岡希美(ぐらす・かわさき勤務)

 私が水俣・川崎展の市民委員会に参加したのは、それほど深く考えてのことではありませんでした。私はぐらす・かわさきにこの4月からスタッフとして関わるようになり、そのぐらす・かわさきは北部ブランチとして、関わることがすでに決まっていました。とにかくわからないことだらけなので、なんでも勉強しよう、いろいろな人と知り合いになろうと思っていたので、5月の会合に出ました。

 私は水俣のことについては、社会の教科書で習った程度の知識かなく、過去のことと勝手に考えていました。しかし、そうではないことが少しずつわかってきました。そして、水俣・川崎展の開催に向けて、何年も前から考えていた人、青春時代にかかわっていた人などがこの市民委員を支えていることを知り、自分自身も何かできればと思っています。そのためにも、もっとよく知る必要を感じているので、この秋には実際に水俣に行ってみようと思っています。

 川崎に住みはじめて4年以上がたちますが、この春まで市外で働いていて、なかなか地域の人と触れ合う機会がなかったのですが、こうしていろいろな人に出会うことができて、ようやく川崎の住民になってきたかな、という気持ちです。私自身まだまだ本当にわからないことだらけなので、水俣のことだけでなく、川崎のことなど、いろいろなことを教えてもらったり、一緒に勉強したりしていきたいと思っています。


石川美和子(町田市在住)

 緒方正人さんと同じ1953年生まれの私にとって水俣は遠くて近い存在です。水俣との出会いは、高校生のころ見た写真展だったと思います。テレビでチッソ本社前の座り込みの様子などを見たのも同時期だったと思います。衝撃的でした。

 写真集で観た茂道の風景を妙に懐かしく感じたのは、私が育った山間の地域も近代化と高度成長期を経て大きく変わってしまったからだと思います。私の田舎でも、人々の生活よりも経済が優先された社会構造の中で、親たちは翻弄されつつ子どもを育て、健康と地域文化が蝕まれてきたように思います。

 地域が違い問題の大きさも違うのですが、このような変化の中に小さな被害性を感じます。同時にこのような生活の過程に潜む加害性にも心の痛みを感じます。そのことをきっちり整理していないから、私自身も私の田舎も多分川崎市もその延長線上にあると思います。

 そんなわけで私にとって水俣は、過去と現在・未来をつなぐ重要な視点を投げかけています。今がどんな構造の中にあるのか、川崎・水俣展が現在を映す鏡になると信じます。


「家族で行こう水俣・川崎展」/後藤美穂(高津区在住)
 96年の水俣・東京展で、約500人の遺影を前に立っているとき、以前にもこのような写真を見たことがあるような気がしていました。

 私は小学校4年生のとき、横浜から広島へ移りました。広島の学校では8月6日は登校日です。生徒たちは体育館で原爆の映画を見させられていました。当時は「こわい」「気持ち悪い」としか思えなくて、夏休みが来るのがとてもいやでした。小学生のときは、映画の中のヒバクシャ一人ひとりに生きていた喜びがあり、夢を実現したいという希望があったこと、この人たちを大事にしている家族がいたこと等、全然わかりませんでした。私が感じていたのは、こんな時代に生まれなくてよかった、という安堵感や、こんなみにくい姿にはなりたくない、という優越感だったと思います。

 パネル写真や展示品の中には小さい子の目にはショッキングなものもありますが、私は水俣・川崎展に自分の子どもを連れて行くつもりです。本当は水俣のように地縁の濃い土地で子育てをしたいのですが、2人の子は川崎生まれの川崎育ちです。市民委員会との出会いは、今まで私が知らなかった川崎の歴史を学ぶチャンスかもしれません。

 私は弱い人間なので、今持っているものでもまだ使えるのに、新しいものが欲しくなったり、めまぐるしく変化する世の中に取り残される不安を感じることがあります。悲劇から再生に向かって、たくましく生きている人の暮らしがある水俣。私がそれにもっと深く共感できたら、不安や物欲から解放されるのではないかと期待しています。


「我青春の水俣」/斉藤 彰(川崎市職員)
 1968年4月、私は日大に入学。時を同じくして、大学では不正経理が発覚し、民主化を求める声が学生から上がった。今まで政治的な行動やデモなどに無縁と言われてきた日大で民主化闘争が始まり、6月には生まれて初めてデモなるものに参加した。学生のストライキに対して大学はロックアウトで対抗し、長い戦いが始まった。

 当時私は理工学部の土木工学科に籍を置いていたが、授業がない中、私達は自主講座を設けた。ベトナム反戦運動や全国の大学における全共闘運動の興隆と共に、大学や研究室の技術者等からいわゆる「技術論」への問題提起が始まった。これは既成の価値観へのあらゆる疑問と、戦後の日本経済の繁栄を支えて来た「技術」への問題提起としてあり、当時のスローガン「技術は真に人間を幸せにするのか」「技術は人間にとって何なのか」等は現在の水俣展のテーマコピーの先駆をなすものと言えるだろう。

 我自主講座に招かれた当時の都立大学の湯浅先生も問題提起者の一人であった。そうした論議をしている中で、先生から水俣病の患者さんが厚生省に抗議に上京するので支援に行かないかとの呼びかけを受けた。1970年5月、水俣病に関しては公害病と言う知識以上の何物もない中で、当日の行動に参加した。実はこの時、逮捕覚悟の「決死隊」(大袈裟な)が求められ、日大からはKが選ばれた。その他、患者さん以外に宇井純さんや、土本監督等がいた。彼らは厚生省の中で予定どおり?逮捕され、マスコミはその行動を大きく報道し、水俣から遠く離れ、惰眠を貪っていた東京政府に水俣病の存在を改めて提起した。

 約二ヵ月後の6月28日、「東京・水俣病告発する会」が発足。東京における水俣病の拠点が出来上がった。日大闘争や全国の学園闘争が政府の弾圧体制の中で膠着、衰退する中で、私にとって水俣との関わりは非常な新鮮なものであった。ここへ集まる学生、映画人、演劇人、研究者、厚生省の役人、無職人等など人種の雑多さや、毎週末の新宿歩行者天国でのカンパ活動など。上京してくる患者さんの世話や行動の手配やもちろん抗議行動も共に。時にはお遍路さんの姿をし、チッソの会社幹部の自宅を訪ねる行動もあり、私はドライバーとなり道案内をしたりした。この患者さんの模様は小池裕子監督による映画「勧進」として映像に残っている。

  70年10月、私は学生運動で初めて警察に逮捕され、杉並区の荻窪警察署で「オギクボ2号」として23日間過ごした。Kも再び逮捕された。荻窪署の隣りの房には東京の告発する会に来ているK大の仲間も一緒だった。彼は数ヵ月後自ら命を絶った。

 荻窪署から自由の身になって2週間後、全国の告発する会の仲間と大阪のチッソ株主総会へと向かった。一株運動は東京の後藤孝典弁護士が患者さんと会社幹部の直接対決の場として提案したものだった。当日は患者さんの悲痛な訴えの場となり、会場の告発する会の仲間は患者さんのチッソ幹部へ心の底からの訴えを聞いて全員が大きな声を出してもらい泣きをした。 

 私は72年に就職が決まり、今度は職場での労働運動等で水俣とは疎遠となった。しかし私が水俣と関わった約2年間、歳で言うと二十歳から二十二歳頃。それはまさに駆け抜けるような青春の一時期であった。ただ私にとって残念だったのは、患者さんとの距離だった。世間話は出来てもそれ以上は近づけなかった。ましてやお遍路さん姿の患者さんとは一段と距離を感じた。水銀によって命や体の自由を奪われ、健康と生活への不安で溢れる患者さんと親に学費を負担してもらい、生活臭の殆ど無いプチブル学生であった私は世界の違いを感じざるを得なかった。

 あれから約30年、今年の3月、患者の大村さんの話を聞き、今度はそばに行けそうな気がしてきた。

 最後に私事 当時知り合った一人の女性が私の連れ合いです。

 我青春の水俣よ永遠なれ   


「声をあげる勇気」/三枝信子(多摩区在住)

 昔、NHKが戦後50年に「その時、日本は」という一連のドキュメンタリーを放映したことがありました。その第4回目が「チッソ・水俣工場技術者たちの告白」という水俣に関する内容だったのですが、これは、当時、チッソに勤めていた技術者たちが、何を考え、何を選択してきたのかが、彼ら自身の口から語られたものでした。

 作品の出来については言及しませんが、この番組を見て私が感じたのは、「なぜ、水俣の悲劇が止められなかったのか」ということでした。水俣病の原因が、チッソの工場廃液にあるということは、病気発生の当初から、技術者たちにも感じられてはいたのです。それが、何度も何度も立証されそうになりながら時期を失い、チッソという企業を始めとして、それを否定したい人々の強い気持ちに押しつぶされて、有機水銀は流され続けました。

 どうして、なぜもっと早く真実を立証できなかったのか、と言ってしまうのは簡単ですが、私は彼らの証言を聞きながら考えていました。

 はたして、自分だったらどうしただろうか?

 たった一人で、工場や上司や同僚、近隣の人々、家族の安全、社会全体の希望や時代の流れにも逆らって、声をあげることができただろうか?

 もちろん、こう言ったからと言って、技術者たちをかばうつもりはありません。声を上げた人もいたのです。また、声をあげざるを得なかった、命を危険に曝された漁民たちがいました。それを考えれば、真実に迫っていた科学者たちの立場と責任は、擁護できるものではないでしょう。

 それでも私は、自分に立ち返るのです。私はきっと、あの時代、あの場にいたら、一人で声をあげることはできなかったのではないのか。間違いなく声をあげることができた、と言い切る自信は私にはありません。たとえ、何度か声をあげてみるくらいはできたとしても、人々を説得できるところまで持続できたかどうか。

 水俣病、薬害エイズ、イラク爆撃、たくさんの「人の手による悲劇」があります。そして、それを喰い止められるターニングポイント、ここで止めなければ、という時点も、歴史の中には数限りなくあります。人の手による悲劇であれば、どこかに止められる方法もあるはずなのですから。その時、どうして止められなかったのか。どうやれば止められたのか。それを検証した時、それは一人一人の気持ちに帰結するのだ、と私は思ったのです。

 王様が裸だ、と最初に声に出して言うのは、勇気のいることです。人間は弱い生き物です。それでも、声をあげなければならない時は、必ずある。誰だって、人の命を奪いたくなどなかったはず、進んで罪人になりたい人などいなかったはずです。それでも、選択を誤ってしまうことがある。それは、ただ一人だけの罪なのでしょうか? 私には、どうしても、そうは思えません。誰か一人だけが孤立するのではなく、本当の意味での隣人とのパートナーシップを築いていくことだけが、この問題を本当に解決する道なのではないでしょうか。

 水俣病が発生した当時、時代は高度経済成長に向かって邁進していて、それに逆らうのは罪悪のように言われていました。今はどうでしょう? 時代が何かに向かって押し流され始めているという思いが、私には拭いきれません。この流れを止めるために、今、何をしなければいけないのか、真剣に考えなければならないと思っています。

 工場排水の有害性についての隠ぺいを行なったチッソ本社や水俣工場、チッソ技術者たちの罪と責任は歴然としていますが、私は思うのです。彼らは、私の鏡である、と。真実から目を背けて、時代と共に「楽」に流れていこうとする時、私は彼らになっているかも知れません。


「障害と水俣」/保科達夫(川崎市役所勤務)

 30年以上も前の、私が高校生の時のことである。溝の口駅横の通路で、身体に障害をもつ青年が車椅子から全身をふりしぼり、前を通る人にむかってうったえていた。「わ・たし・を・りょ・こう・に・つれ・ていって・く・だ・さ・い」立ち止まって聞く人はいないが、青年は長い時間うったえつづけているようだった。「北海道旅行がしたいのです。一人ではいけません。誰か手伝ってください」そんな内容だった、と思う。電車を待ちながら彼を見ていた。涙が出てきて、電車に乗ってもとまらず、そのことをすごく恥ずかしく感じたことを覚えている。障害について意識させられた事件であった。以後漠然と障害について考えている。障害者は社会がつくる、と思っている。

 水俣については、深くは知らなかった。ユージンスミスの写真、黒いのぼり旗に怨という字、チッソ、胎児性患者、朝鮮工場、東大自主講座・・・。それぐらいの断片的なことしか知らなかった。何年か前、東京展を見に行き大勢の患者たちの写真に見つめられた。一人一人が「私は存在した」と主張していて、「あんたは・・・」と問いかけていた。水俣病患者はチッソによって、国によってつくられた障害者だと思ったことを覚えている。

 東京展の記憶が残っていたが、知人に川崎で水俣展をやろう、と誘われ、市民委員会準備会に参加した。以降少しずつ本を読みだしている。

 水俣は貧しかったという人もあれば、豊饒な不知火海があり、豊かだった、という人もいて、どちらなのだろう、という素朴な疑問がある。貧富が個人的な基準や感傷的な基準では読者は迷ってしまう。今年の朝日マリオンでの色川大吉さんの講演は、水俣の地域差別の構造を明らかにしたが、消費社会に組み込まれる以前の水俣と私自身の育った時代がダブり、豊かさや自分が生きてきた時間や発展ということについて考えさせられる。

 水俣病を思うとき、自分が構成員の一人である消費社会を考える。そして障害を考えたとき、おまえの中にある優性思想はどうなんだ、と自分に問う。知識や体験をよりどころにしている私を問う。水俣展にかかわることは、私にとって、考えることにほかならない。


「私の見つめたいこと」/秋貞早苗(多摩区在住)

 全身障害を持って生まれてきた友人がいます。彼女の入浴のお手伝いをしながら、「障害のない人として生まれてきたかったな、とか思ったことある?」と尋ねたことがあります。こんなこと聞くのってヤバイかな…。ほんの少しだけれど心配をしながら尋ねた私に、「全然ないよ」とあっさり答えた彼女。私はその時、「ああ、やっぱりそうなのか…」と思いました。

 人間らしい生き方と、そうでない生き方。幸福な人生と、不幸な人生。誰かを苦しめてしまった人と、苦しめられた人。障害のある人と、健常な人。それらの「間」に境界線があるのかないのか…。「水俣・川崎展」に関わらせてもらうことで、私はそれを見つめたいと思っています。九州で生まれ育ったのですが、水俣には一度も足を運んだことがありません。若い頃はほんとうに自分でも呆れるほど、人の痛みや苦しみに全く関心がなかったのです。でも今は多少なりとも、自分とは大きく違う環境の中で暮らしている人たちの心を知りたいと思うことができます。そのことは私にとって、幸せなことです。

30年以上も前の、私が高校生の時のことである。溝の口駅横の通路で、身体に障害をもつ青年が車椅子から全身をふりしぼり、前を通る人にむかってうったえていた。「わ・たし・を・りょ・こう・に・つれ・ていって・く・だ・さ・い」立ち止まって聞く人はいないが、青年は長い時間うったえつづけているようだった。「北海道旅行がしたいのです。一人ではいけません。誰か手伝ってください」そんな内容だった、と思う。電車を待ちながら彼を見ていた。涙が出てきて、電車に乗ってもとまらず、そのことをすごく恥ずかしく感じたことを覚えている。障害について意識させられた事件であった。以後漠然と障害について考えている。障害者は社会がつくる、と思っている。

 水俣については、深くは知らなかった。ユージンスミスの写真、黒いのぼり旗に怨という字、チッソ、胎児性患者、朝鮮工場、東大自主講座・・・。それぐらいの断片的なことしか知らなかった。何年か前、東京展を見に行き大勢の患者たちの写真に見つめられた。一人一人が「私は存在した」と主張していて、「あんたは・・・」と問いかけていた。水俣病患者はチッソによって、国によってつくられた障害者だと思ったことを覚えている。

 東京展の記憶が残っていたが、知人に川崎で水俣展をやろう、と誘われ、市民委員会準備会に参加した。以降少しずつ本を読みだしている。

 水俣は貧しかったという人もあれば、豊饒な不知火海があり、豊かだった、という人もいて、どちらなのだろう、という素朴な疑問がある。貧富が個人的な基準や感傷的な基準では読者は迷ってしまう。今年の朝日マリオンでの色川大吉さんの講演は、水俣の地域差別の構造を明らかにしたが、消費社会に組み込まれる以前の水俣と私自身の育った時代がダブり、豊かさや自分が生きてきた時間や発展ということについて考えさせられる。

 水俣病を思うとき、自分が構成員の一人である消費社会を考える。そして障害を考えたとき、おまえの中にある優性思想はどうなんだ、と自分に問う。知識や体験をよりどころにしている私を問う。水俣展にかかわることは、私にとって、考えることにほかならない。

30年以上も前の、私が高校生の時のことである。溝の口駅横の通路で、身体に障害をもつ青年が車椅子から全身をふりしぼり、前を通る人にむかってうったえていた。「わ・たし・を・りょ・こう・に・つれ・ていって・く・だ・さ・い」立ち止まって聞く人はいないが、青年は長い時間うったえつづけているようだった。「北海道旅行がしたいのです。一人ではいけません。誰か手伝ってください」そんな内容だった、と思う。電車を待ちながら彼を見ていた。涙が出てきて、電車に乗ってもとまらず、そのことをすごく恥ずかしく感じたことを覚えている。障害について意識させられた事件であった。以後漠然と障害について考えている。障害者は社会がつくる、と思っている。

 水俣については、深くは知らなかった。ユージンスミスの写真、黒いのぼり旗に怨という字、チッソ、胎児性患者、朝鮮工場、東大自主講座・・・。それぐらいの断片的なことしか知らなかった。何年か前、東京展を見に行き大勢の患者たちの写真に見つめられた。一人一人が「私は存在した」と主張していて、「あんたは・・・」と問いかけていた。水俣病患者はチッソによって、国によってつくられた障害者だと思ったことを覚えている。

 東京展の記憶が残っていたが、知人に川崎で水俣展をやろう、と誘われ、市民委員会準備会に参加した。以降少しずつ本を読みだしている。

 水俣は貧しかったという人もあれば、豊饒な不知火海があり、豊かだった、という人もいて、どちらなのだろう、という素朴な疑問がある。貧富が個人的な基準や感傷的な基準では読者は迷ってしまう。今年の朝日マリオンでの色川大吉さんの講演は、水俣の地域差別の構造を明らかにしたが、消費社会に組み込まれる以前の水俣と私自身の育った時代がダブり、豊かさや自分が生きてきた時間や発展ということについて考えさせられる。

 水俣病を思うとき、自分が構成員の一人である消費社会を考える。そして障害を考えたとき、おまえの中にある優性思想はどうなんだ、と自分に問う。知識や体験をよりどころにしている私を問う。水俣展にかかわることは、私にとって、考えることにほかならない。


「かぼそい骨の言葉が聴こえますか」/松浦哲男(中原区在)

 10月1日より品川に新幹線の駅が開業し、上空より撮影された全景写真が新聞に載りました。96年の水俣・東京展の会場であった広場は、いくつもの高層ビルの立ち並ぶビル街に変貌しています。「近代化とは何か。人間とは何か。」が、東京展以来の水俣展の問いかけですが、会場広場のビル街化は、まさに具体的な回答です。近代化とは都市化のことだと言い切ったのは養老孟司、『毒にも薬にもなる話』です。都市の興亡は、歴史には多くの例があり、多くの都市が緑を失い水を失って滅びています。「水俣」、水の分かれる地点というこの名の意味するところは、きわめて暗示的です。

 ちょっと覗いてみようかというくらいの気持ちで、品川のホテルでの結婚式の引出物をぶら下げながらJRの線路を越える長い陸橋を渡って入った「水俣・東京展」が、私と水俣との出会いです。展示の資料・写真に衝撃を受けましたが、最も心が震えたのは、遺影の間を過ぎて出口近くに展示されていた桑原史成の「半永家の団欒」と、それに付けられた石牟礼道子の「彼岸のまどい団欒を垣間みる」という文章でした。当時の東京展の総合パンフレットには、この桑原さんの写真とほぼ同じものが載っていますが、撮影の時間と角度が少し違います。石牟礼さんの文章は、パンフレットの巻頭に「水俣からの蘇りのためのしる標しを」というタイトルのものが掲載されていますが、この写真に付けられたものは載っていませんでした。翌日、私は再び会場を訪れました。そして、桑原さんの写真の前で噴き出す涙を拭いながら、石牟礼さんの文章を書き写しました。ここでは、その最後の一節のみ紹介いたします。水俣・川崎展の会場で、ぜひ全文をお読みいただければと思います。

 「いわば絶対受難と引きかえに、この人びとは、桑原さんのカメラを通じて、彼岸の団欒に似た景色を垣間見せてくれる。じいさまの脚にのせられた、小さな足や掌の中のかぼそい指の、骨の言葉をわたしどもが聴くときに。」

 私の水俣は、桑原さんの写真と石牟礼さんの言葉との出会いに尽きるのですが、石牟礼さんの『苦海浄土』、緒方正人さんの『常世の舟を漕ぎて』、吉田司さんの『下下戦記』、原田正純さんの『胎児からのメッセージ』、桑原史成さんの『報道写真家』などの本を読みはじめたのは、すべて東京展以降のことです。小説がつまらなくなって、読書傾向はドキュメンタリーに偏してきていたのはその前からですが、益々その傾向が強くなっています。

 また記念講演会は第1回を除いて、2回から今年の5回まで出席しました。「水俣病をも"のさり"と思え」と言い残して亡くなった杉本栄子さんのお父さん。大岡信が紹介した石牟礼さんの句「祈るべき天と思えど、天の病む」。鶴見俊輔の「義務教育は、それまで子どもが使ってきた地域語、生活語を小中高大と16年間も使わせない。状況と気配から考えることの出来る人間は生活語を使ってきた人たちです」。C.W.ニコルさんは「長野オリンピックで道路が良くなって何がやってきたかと言えば、都会からゴミがやって来て水源を汚染している」。そしてまさしく生活語で話をされた患者さんたち、緒方さん、杉本さん、川本さん、仲村さん。杉本水産のちりめんじゃこは絶品で、何度か会場で買ったり、直接注文をして送っていただきましたが、品切れのお電話いただいたあとは、季節外れを知らなかった自分が恥ずかしく、以来注文できなくなっています。水俣フォーラムから多くの関連図書が紹介されていますが、私の推薦するこの一冊は『日本の水はよみがえるか』(宇井純著、NHK出版)です。水俣にとどまらず、足尾鉱毒にはじまる日本の公害の歴史から現在の沖縄の水問題まで、水全般の問題が解説されています。そしてなにより有難いことは、多くの関連図書が紹介されていることです。これまで読んで感銘を受けたもの、これから読みたいものが多くリストアップされています。『土の生産性のみが真の生産性です』という富山和子の著書も紹介されています。

 10月7日の朝刊に「品川駅の別れ、59年前を思う」という川崎市の婦人の投書がありました。前年に父親を亡くし、4月に軍に招集された長兄から、突然「明日、戦地にたつ。品川駅午後3時ころ…」と電話があり、母親と弟の手を引いて品川駅のホームで言葉を交す時間もない別れが兄との最後になったそうです。新幹線品川駅開業のニュースをご覧になられて、今一度品川駅に行ってみようと思うとありました。私の生まれた頃、父は国鉄の土木技師として関門トンネル工事に就いていました。兵員と物資輸送のため突貫工事だったに違いありません。敗戦の翌年に両親は相次いで病死しましたが、もし私の郷里が四国の田舎でなく都会であったなら、きっと浮浪児となり飢え死にをしていたでしょう。今、イラクで、アフガニスタンで、アフリカで、アジアで、争いと飢えのため幼い命が失われ続けています。戦費提供や自衛隊派遣ではなく、なによりも平和を。そして水と緑と食糧を。あなたにも、“小さなかぼそい骨の言葉”が、聴こえるでしょう。

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