1
どれだけの時が流れたのであろう。
天界と魔界、その時の流れを人智で推し量るのは適わぬことだ。
二つの世界の和平の記念式典が同じ場所で催されることになったが、そのころ魔界のあちこちでは無に帰したはず
の魔界国の第三王子の姿が見られるようになった。
最もすでに王として不動の地位を造り上げていたカイムはむろん気にも止めなかったが、度重なる不審な噂は、和
平によってかりそめの平安をもたらしていた魔界にもわずかずつではあるが、亀裂をも生み出していた。
そしてまた肉欲に溺れ兄を盲信していたミレディは、長い時の流れと政策によりついには己までを切り捨てようと
した新王を尚も独占すべく執着していた。それは妄執にも近い狂気であった。
そんな、ひとつずつでは取るに足らないほどの、ささやかな出来事が続く中で少しずつではあるが歴史の歯車は
狂い初めていた。
天界との和平は変わらず成立した状態ではあったが、魔界はむしろ混沌としていた。隙あらば人間界に邪悪の種を
植え、尚且つその幼き世界を牛耳ろうと野望を持つ者は後を断たない。互いに牽制しあっているものの彼らにとっ
て人間界はいまだどちらのものともいえないからだ。
そして平定されていたはずの国に第三王子が現れる。長い漆黒の髪にすばらしく見事な闇の両翼は、魔界の者なら
肖像画などで一度は眼にしたことのある王子だ。
むろん魔界側、すなわち王となったカイムは一笑に付したが、事は次第に剣呑な様相を呈してゆく。
何しろ天界魔界を問わず彼の現れるところには必ずなにがしかの諍いが訪れるのだ。それは単に戦の兆しというだ
けでなく、魔界国の立場を徐々にだが、悪しき方向へと導いてゆくこととなった。
そうなってみて初めてカイムは噂の真偽を確かめるべく、私兵を派遣する政策を取らざるを得なくなっていったの
だが、それが仇となりやがて魔界の周辺の各国からも不穏な動勢ありとの見解を持たれることになっていった。
2
かつて魔界一美しい宮殿と讃えられた離宮…。
前王が愛妾のために建てたというその離宮が王の命によって取り壊されることとなったのは、やはり彼にも思い当
たることがあったということなのだろうか。あるいは、無に帰したはずの第三王子の噂がカイムの王としての心情
に影を刺したゆえなのか…。そこに第三王子が住まわせた天使はもういない。いつ姿を消したのか、何ゆえゼルの
側近であったジェガンまでも共に姿を消したのか、知る者もまたいなかった。
ふたりは誰も知らないまま忽然と姿を消したのだ。
そして彼らが慈しんだ庭園も今ではすっかり朽ちていた。同族を裏切り、その罪ゆえに骸ともいうべき姿を晒され
続けてきた魔界樹も同様だった。
「お待ちしておりました。兄上」
かつて魔界一の美貌の妖魔と呼ばれた妹は待ち望んだ人物が姿を現すやいなや、優美な仕草で礼を取り、膝を折っ
た。そんな彼女にカイムは冷ややかに尋ねる。
「王と呼びなさい…何ゆえ人払いをさせてまでこのような場所に余を呼び出したのだ、ミレディ…?」
いつでも自信に満ち、着実に王として歩み続けてきたカイムである。
そんな兄はミレディにとって盲愛の対象であり、カイムの軌跡を辿ることに何の憂いもなかった。けれど、それも
戴冠式までのことだった。
以前なら近衛兵を選出するにさえミレディの意見を取り入れたというのに、王となってからは側に寄ることさえも
許さない。夜毎の睦言さえ遠い。
「兄上、私は…」
「聞こえなかったかね? 王と呼べと云ったのが。臣下の立場をわきまえなさい」
「……臣下…? 私は…王にとって臣下、それだけの存在でしかないと…?」
思いもしなかった冷ややかな物言いだった。
茫然としながら、それでもミレディは聞き返さずにはいられなかった。臣下、そんな言葉ではなかったはずだ。少
なくとも自分とこの兄の間にあったものは…。
そんな彼女に魔王は見透かしたような薄い笑みを浮かべた。
「ふ、では他になんと云えというのだ?」
「兄上は…王は変わってしまわれた。たったひとりの妹だと云ってくださったではありませんか。なのにどうして
…?」
「汚らわしい。半分なりともそなたと同じ血を持っているかと思うと虫酸が走るわ」
「!………っ」
ミレディはかっと頬を紅潮させて信じられないというようにカイムを見返した。
表面上は常に冷静で穏やかだが、野心家で計算高く、誰に対しても厳しい男だった。
それでもミレディにだけは甘い兄だったのに、この冷ややかさはどうしたことだろう。悠久の時の流れの中では刹
那のごとき年月ではあった。だが王と臣下という立場に立って見れば、この兄弟を変えるには十分すぎる時間でも
あった。
「甘やかした余が愚かであったか。…所詮、人形に施政はできぬものよ。そなたに出来ることといえば閨で唏くく
らいのものではないか。…それとも、天界にでも赴いてその肢体で聖なる天使でもたぶらかしてみるか?」
思わずミレディは息を呑んだ。
「知らぬとでも思うたか? 余の眼を盗み下司な者共にさえ身を与えておったろうが。抱かれるためなら使い魔が
相手でも構わぬのであろう?」
それもあながち虚実ではなかった。直接牙を穿ち与える快楽はミレディを淫獣にも変える麻薬のようなものだった。
けれどそれだけではない。牡を悦こばせる手管を教えたのはカイムだ。
かつて第三王子びいきだった前王派は、正式な王位継承者であるカイムが王となるを良しとしない傾向があった。
そんな重臣らを懐柔するために閨を訪れたのはミレディであり、そうするよう命じたのはカイムなのだ。
「浅ましいものよな、誇り高き魔族の血族とも思えぬ。淫魔だとて恥のなんたるかくらい知っていようものを…」
あきれたようにカイムは云った。冷ややかな眼差しには蔑みの色しか浮かんでいない。そのあまりと云えばあまり
な言葉にミレディは兄の顔をただ見上げるばかりだった。
こんな言葉を聴かされるとは夢にも思いはしなかった。政務に紛れてつい疎遠になってしまったのだと…寂しい想
いをさせたと、慈しみの眼差しで抱きとめてもらえるものと疑いもしなかった。
「………じゃな…いわ…」
信じられない思いに言葉さえも震えた。
「何か云ったか…?」
「…兄上がそのようなことを云われるなんて…、私の兄上が…っ! 私は兄上が云われるままに動いただけなのに、
兄上のためになら何でもしたのに…っ 」
「余のために…か。当然であろう。同じ父を持つとはいえそなたはたかだか地方領主が血筋、そのそなたが正当な
王位継承者のために働けたのだ。それだけでも果報というものではないか。それをあのような埒もない流言を流す
とはな」
とカイムは憎々しげにミレディを睨み据えた。だが口調にも表情にも怒りが込められてはいたが、眼差しの奥はど
こか楽しんでいるような感じさえ窺えた。
だから、ミレディには彼の目論みが判らなかったのだ。
「兄上…?」
「王と呼べと云ったであろうが。ゼルが生きているなど流言を流したのはそなたであろう、ミレディ…?」
「兄…王っ! 何を云われます? 私がどうしてそんな流言を流すというのですか。王だけを敬愛している私が何
ゆえ…」
「そのようなしおらしい顔をしてみせてもごまかされはせぬわ。くくっ、残念だよ、ミレディ。由緒正しい魔族の
王家の嫡子が揃いも揃って謀反人とはな」
「ご、誤解です。王は何か思い違いをしておられる。私が謀反を起こすなどと…そんな馬鹿な…っ!」
「言い訳とは聞き苦しいぞ。いずれにせよ、もうそなたに用は、ない!」
ピシャリと云ってカイムは口の中で呪文を唱え、左の手に発光する球体を作り出した。そして驚きのあまり声も出
ないミレディに向けてそれを投げ付けた。
球体はミレディにぶつかったと思った瞬間、パアッと広がって弾け飛び、その身体ごと円柱の中に包み込んだ。
「暴れても無駄だよ、ミレディ。その中ではどんな魔力も使えぬ。むろん自害も出来ぬ。文字通り生きた人形とい
うやつだ。……クククッ、そなたはここで魔界のゆく末を眺めているがよかろう。未来永劫何をできぬままな」
そうなって初めて彼女は兄の目論みに気づいた。
カイムは最初からそのつもりだったのだ。自分が王になるためには邪魔な大臣達を失脚させ、その責任をすべて妹
である彼女に被せる。ミレディはまんまとカイムの謀略に踊らされたのだ。
「あ…兄…う…え…」
それでも、最期にミレディの口から出た言葉はその男の名だ。
徐々に光を失ってゆく翠の双眸…。その、もはや役を成さない瞳に映るのは冴え冴えとした月下に佇む、最愛の長
兄の姿だった。
3
長い、夢を見ていたような気がする。その中で、俺はただひとり最愛のあの人になり、白き翼を羽ばたかせ、
微笑んでいた…。
「お目覚めでございますか、王子」
そう云うとジェガンは『彼』に肩布を掛け、独特の匂いのするスープを運んで来た。
「ああすまぬ。何時の間にか眠っていたようだ」
「疲れておいでなのですよ。さ、これをお飲みください」
「…ああ」
『彼』はそれを口に含んで飲み下し、ふっと思い当たったようにジェガンの顔を見下ろした。
「…ジェガン、俺はどうしてここにいるんだ?」
粗末な窓から見える景色は切り立った断崖ばかりだ。その覚えのない風景はおそらく魔国のものではないだろう。
「……何をおっしゃるかと思えば…」
とジェガンは穏やかな笑みを浮かべた。
「辺境の各国の視察をなさりたいと云われたのはお忘れでございますか? じきに魔界国領に入りますぞ」
暗がりの中で明かりは蝋燭のみ。もちろん、とても王族が泊まるような部屋ではない。
揺れる灯火に照らし出されるのは、青白くやつれている細い横顔。
「そうか…そういえばそうだったな。それにしても…何か妙な気がする」
ゼルは窓辺に腰掛けて、かすかに小首を傾げ、小さく笑った。
夜風がふわりとその髪を揺らす。床までも届きそうな漆黒の髪…。月光に照らされた一筋がキラリと輝いた。まる
で天使のそれのように。
「…その方と旅をしたのはもう随分昔だというにこうしているとあの折りと少しも変わらぬような気がするな。…
ああ、気持ちいい。このまま城へなんぞ帰りたくない。こうして自由な地を…」
「王子…」
かすかに眉をひそめたジェガンにゼルはくすりと笑った。
「案ずるな、そんな顔をせぬでも城には…戻る。戻って兄上の替わりに王になる。そうせねばならぬのだろう?」
その返事にジェガンはようやく晴れやかな笑顔を見せた。
「然様にございます。王亡き後、ミレディ様が謀反に問われ、またカイム様が病の身なれば王子以外に我が国を治
められる方はおりませなんだ」
「……皮肉なものものだ。あれほど俺を毛嫌いしていた兄上が戻るように云うてくるとは。…したが姉上が謀反に
問われたとはどういうことなのだろう」
不思議そうにゼルが云う。ジェガンはハッと顔色を変えると話題を転じた。
「さ、然様なことは王子がお気になさることはございませぬ。さ、明日は魔界領に入りまする。今宵は早々にお休
みくだされ。お休みになられるまでこのジェガンめがお側に控えておりますからな」
「ああ。そうしよう」
ゼルはするりと窓辺から降り立つと寝台へと向かった。
ぐっすりと寝入った王子を見下ろしながらジェガンはその傍らに膝を折った。
今は、我が子のように愛しいとさえ思える寝顔がそこにある。
それは。
(ティアどの…)
消したはずのその名がジェガンの心に重くのしかかってくる。その横顔には、かつての魔界の重臣としての面影は
もはやどこにも残ってはいない。自国に仇なす叛逆者の貌だ。
罪だと、誰よりもジェガン自身が知っていた。けれど、それしかあの時の彼には考えつかなかったのだ。
天使のさだめを背負いながら誰も救えなかった天使は天界にも還らず、自分の心までをも昇華させてしまった。あ
るいは深い眠りについてしまったのかもしれない。
いずれにせよ、罪の意識に耐え切れなかったのだろう。
その空白になってしまった心にジェガンは暗示をかけた。
いわく、お前は天使のティアではなく、ジェガンの主ゼルなのだと。魔国の第三王子なのだと。
持てる限りの妖力と魔術を使った。そのためか、初老だが頑健な体躯も今は見る影もなく、老いさらばえた容貌に
眼だけが異様に燃えていた。
「次の満月の夜だ…儂の命が燃え尽きるまでに…必ずや我が王子の無念を!」
4
王宮では華燭の祭典と呼ぶに相応しい舞踏会が連夜行われていた。
居並ぶ王侯貴族はカイムの政治手腕を称え、彼が小姓や近衛兵達を従えて姿を現すと、一斉に注目した。まだ若く、
美しい王である。老いた妖魔も堅物の大臣さえもが彼を見るなりうっとりと眼を細めて感嘆のため息を洩らす。
欲しいものは手に入れた…はずだった。
だがカイムは言いようのない焦燥に囚われていた。
憎悪せずにはいられなかった末弟ゼル。彼はいつでも冷めた眼差しの奥底でカイムに反発していた。だから謀反人
として葬ったのだ。たかだか妾腹の分際で王子の名を名乗るなど許せるはずがないではないか。
そしてミレディも同様だった。カイムを愛し、身を捧げようとする者など幾らでもいる。だから甘ったれの妹には
長い孤独と永久の罰を与えた。
そして誰にも、おそらくはあれほど身近に置いたミレディにさえ気づかれなかったであろう謀略…。父さえもこの
手にかけた。
戦神とまで称えられた父王。ゼルの謀反に嘆き、王としての務めさえも放棄した男に国の父たる資格はない。いず
れ早いか遅いかの違いだと…。
その父もカイムが渡した杯の中身には気づかなかった。
あるいは父は、それでも彼の思惑に気づいていたのだろうか。差し出された杯を確かめるように飲み干した。
そうしてすべてがカイムの計算通りに運んだというのに、心が浮き立ってこないのはなぜだろう。いやそれどころ
か敗北の予感さえする。
シンと静まり返った自室に戻ってカイムは重々しい溜め息を洩らした。と、そこに何者かの気配を感じた。
「誰か、いるのか…?」
その呼びかけに応えるように寝台の奥できぬ擦れのかすかな音がした。天蓋から降りたカーテンの向こうには確か
に誰かが潜んでいるようだ。
いまだ正妃を娶っていないカイムは時折、小姓や愛妾と夜を共にしていたが、それとて後宮でのことに過ぎない。
ミレディを処断した今となっては自室を訪れる者などいるはずがないのだ。
「…気のせいか」
深酒が過ぎたか。連日の宴でも酔うことのなかった彼だが…。しかし今度こそ気配に気づき、つかつかと歩み寄る
と重いカーテンをバサリと開け放った。
そこには。
「兄上、久方ぶりです」
「…ゼル…」
茫然としたようにカイムはつぶやき、だがすぐに哄笑を上げた。
「クククッ、これはいったい何の冗談だ…! お、お前がゼルの筈がない。奴は私が『裁きの間』に幽閉した。ミ
レディも、王も、私の前を妨げるものは皆!…」
だが狼狽したのはほんの一瞬でカイムはすぐに冷静に戻った。
「いや、違うな。お前は…弟の波動は感じるが…その気には覚えがあるぞ。確か…ティアとかいったな」
「今の一言で十分です。カイムどの。」
ふいに声が響いた。ティアではない新たな気配が空間の歪みから現れたのだ。
しかしそれでもジェガンの穏形を見抜くには時間が掛かったようだ。しわがれた声で彼は言葉をつなげた。
「わたしごときの術が貴方に効くとは初めから思っておりませなんだ。それでも貴方の心の声は確かに聞かせて頂
きましたぞ。…この場で我らを殺してももう無駄です。わたしの見聞きしたものはすべて使い魔が城の外から感じ
取り余さず天界の元老院に伝えるようしておりますからな。いかな魔界の王でも前王までも手にかけたとあっては
鷹揚な重臣の方々とて黙ってはおりますまい」
闇から抜け出たジェガンは異形と化していた。交信能力に長けた下級妖魔を、自らの眼に、耳に、脳に直接術で癒
着させたのだ。
「そうか…」
とカイムは嗤った。
「…わたしともあろうものが気づけなかったとは迂闊であったわ。だが…この程度のことでわたしを葬れると思う
か? 所詮は雑魚の浅知恵よ。まぁいい。わたしを脅かさんと画策した貴様らにはそれなりの礼をしてやろう」
「ぐっ。王子、お聞きになりましたな。こやつが…こやつが先王を亡き者にしたのですぞ! さ、今こそ仇を!」
その言葉に操られるかのようにゼルの姿をしたティアは生気のない瞳のまま剣に手をかけようとする。カイムはす
かさず片手を天に向けて、呪文を唱えた。
「甘いわ…!」
刹那、雷撃がティアを襲った。カイムの手から発せられたそれは彼女を直撃し、なおも大蛇のように彼の身体に絡
み付いていった。
「うっ…く…あぁっ!」
すぐさまゼルの服は、いや肉体ごと炎に包まれた。燃え尽きたゼルの姿の変わりに現れたのは豪奢な白翼を持った
ティアの姿だった。
「あ…わたし…どうして」
今初めて生まれ落ちたようにティアは茫然としていた。そんな彼女の、今は長く伸びた髪をカイムは片手で掴み上
げ、短剣で一気に切り落とした。
磨き抜かれた白亜の床に散らばる褐色の長い髪…。
「…結構。これでどこもあの時と変わらぬ、極上の聖天使だ。……かといってここで制裁を与えるのも妙な話か。
そう…だな、折角の機会だ。かの宮で処刑してやろう。ジェガンの思惑通り天界の者共にもよく見えるようにな」
その言葉に応えるようにティアを取り巻いた雷は、生き物のように蠢きながら離宮の中庭へと運んだ。
5
それはあまりにも惨い光景だった。長い夢から突然目覚めさせられ、己が状況を把握しきっていない天使を下級
妖魔共が貪り喰らう。
本来なら汚れた妖魔にそんな能力はない。彼らにとって天使の持つ清廉な精神はむしろ猛毒にも等しいのだ。清浄
過ぎて触れるだけでも逆に灼かれてしまう。
だが、それも天界の光という恩恵が届いていればこそだ。
長きに渡って魔界を放浪していたためか、あるいは新王カイムの魔力ゆえか、今の彼女にその奇跡はなかった。
姿形こそ天使だが今やティアはただの贄でしかない。
そしてそんな彼女を本能のまま犯しているのは、近衛兵達ですら吐き気をもよおすほど醜悪な姿の妖魔…いや妖獣
という方が相応しい獣共だった。
それらはあろうことかカイムの子飼いなのだ。
その妖獣共に凌辱される天使は痛ましくもあり、またその姿が際立って美しい双翼を有していただけに官能的です
らあった。
「…っ、は…ぁっ…」
意識は、哀しいくらいはっきりしていた。どうして己がこの境遇にあるかは判らなくとも、この悪夢はまごうこと
のない現実なのだ。
鋭い爪が腕といわず胸といわず肌に食い込み、吸盤状の触手が傷口から体内へと潜り込んでくる。一本では大した
質量ではない。けれどそれが数本重なり合ってとなると…。
白濁した液をしたたらせながらズルズルと入り込もうとするグロテスクな触手。
「…ひ…ぃ…っ、う…ぁっ、やめ…て…っ」
かつてない恐怖に心が軋み、悲鳴が喉を突き上げる。
意図的に正気を失うことができるのなら迷わずそう願ったことだろう。たとえそれが天使としては最低の逃げであ
ってもだ。
妖獣に蹂躙されようとしているという、血も凍らんばかりのおぞましさ、その払拭しがたい生理的な嫌悪感に全身
がそそけ立った。
「や…っ、いや…だ……」
シルクのようになめらかなブロンズの肌を妖獣の生臭い息が這いまわる。
肉の薄い、大蛇のそれのような舌が首筋を這い、ぬれぬれとした唾液がしなやかな肌に絡み付く。
その様子はさながら生き餌にむしゃぶりつく悪鬼のようだ。
「あ…あ…っ、や……く…ぅ…っ」
苦痛とおぞましさ、そして心を引き裂く恐怖に涙が溢れた。
錐のような妖獣の牙がティアへと絡み付いてくる。灼けつくような激痛に身体を硬直させて四肢を痙攣させた。
そんな天使の様子に喝采が沸く。妖魔達にとってこれほど血を沸き立たせる見世物はない。
心ある者ならば、おそらく正視に耐えないであろうその地獄絵図にとうとう声が上がった。
「…やめっ、やめさせてください…っ」
ジェガンだった。天使が凌辱されている…その痛ましさが彼の胸を抉った。
そんなつもりはまったくなかったのだ、本当は。
ここまで苦しませるはずではなかった。
ティアがゼルの破滅を知ったあの日、ジェガンは決意したのだ。
誰よりも才長けて、そのくせたった一度の気の迷いに自分すら昇華してしまった誇り高き王子…。我が子のように
慈しんで育てた彼の珠玉だったのに…。一切を投げ出してただ愛ゆえに、囚われの天使への想いゆえに、王子とい
う身分にありながら謀反人などという不名誉な罪に問われた王子…。
その中で生まれたジェガンの決意こそ、復讐だった。
確かにジェガンは、ティアを利用していた。最愛の主君、いや我が子を亡くした哀しみを彼の愛した天使を操るこ
とで紛らせていたし、やがてはカイム共々抹殺するつもりだった。
けれど。目の前に繰り広げられた有り様はそのジェガンすら震撼させた。
生涯唯一の主君と誓ったゼル。その王子が愛した天使が妖魔ですら眼を背ける獣共に凌辱されているのだ。
そう思った途端、ジェガンは行動を起こしていた。彼もまた近衛兵に拘束され身動きのできない有り様だったが、
それでも隙をみてカイムの足元に駆け寄ったのだ。
「もう…もうやめさせてください…っ、こんな…あ、あまりにも惨うございます」
己が抹殺しようと思った当の相手にジェガンは崩れたのだ。
「ほお、その方でもまだ惨いと思う心が残っておったか」
そんなジェガンを見下ろしながら、カイムは冷ややかに笑った。
「私に逆らったのだ。これでもまだ手緩いわ。…貴様の処刑は後回しにしてやるゆえ、まぁじっくり見ているがい
い。…仮にももとは聖天使と呼ばれた身だ、あの下種共とまぐわってどのような浅ましい姿になるか…くくっ、見
物ではないか」
カイムの言葉通り、惨劇は尚も続いていた。
妖魔に蹂躙され、思考もままならぬ天使の顔が、己が境遇をあざ笑うように上がる哄笑にゆっくりと振り返った。
その中に魔界の王の端正な顔を見いだして虚ろな瞳がかすかに揺らいだ。
「……ゼ…ル…」
かすかに唇が名を辿る。今は失われた名を。
カイムは崩れ落ちたジェガンを尻目にゆっくりと天使に近づいてゆく。
一切の感情を押し殺した涼やかな美貌が聖天使の顔を見下ろす。
「そういえば昔誰かがそんなことを申したな。まぁ戯れ言と思うてもあまりよい気分とも云えぬで始末してやった
が、わたしの顔があれに見えるか?」
「…っ…ん…、ゆ…るし…」
云われた言葉をおそらくは半分も理解していなかったろう。ただ目の前の男に許しを乞うようにティアは唇を震わ
せた。その相手が自分をこの状況に追い詰めているなどとは思いもせずに。
「…なるほど」
ふいにカイムは思い当たったように唇を歪めた。
「そうしている様はミレディと同じだな。所詮あやつ…ゼルもわたしも同じだったというわけか。……因果なもの
だ…」
自嘲するように呟いて、カイムはするりと腰の剣を引き抜いた。
「これで貫いて欲しいか。だがひとおもいに楽になどさせぬ。獣に嬲り犯され、最も醜く浅ましい姿になった時、
荒野に放ってやろう。…いや、それとも天界にでも送ってやるか?」
傷つけない程度に剣先がティアの頬を撫でた。が、それはすぐに離れ、カイムは踵を返した。緋色の肩布がばさり
と揺れる。
そんなカイムに妖獣共は忠実だった。彼の手の一振りで動きを止めていたが、彼が背を向けただけでまたも哀れな
犠牲者の肢体にむしゃぶりついていった。
と、その時だった。誰かの思念が集まっていた者達の心に響いた。
……させない…!
打ちひしがれていたはずのジェガンが、恐ろしく素早い動きで側の近衛兵の腰から剣を奪い取ったのだ。そして間
髪置かずに捕らえようとする近衛兵を切り捨てた。
「寄るでないっ! このジェガン、老いてもまだ貴様らごときに捕らえられはせぬわ。刃向かうのなら容赦はせぬ
…!」
騒然とする兵や小姓相手にジェガンは怒号を轟かせ、たちまち真剣のぶつかり合うかん高い音が辺りに響いた。
いきなり繰り広げられた狂騒に小姓達はすかさず己が主人の身を護るべく、カイムの周りを取り囲み、近衛兵達は
各々腰の剣を構え直した。
凄まじい殺気が飛び散る。青白い閃光が走り、欲望に耽溺していた妖獣共ですら、その有り様に身を起こしていた。
「これ以上、これ以上そこな天使を嬲り者にはさせぬ…っ、我が命に代えても護ってみせるっ!」
剣が火花を散らせる。ジェガンは、もはや何も考えてはいなかった。カイムの強大な魔力の前には己が磨きをかけ
たはずの魔術など髪一筋ほどの威力もない。彼がその気になったら言葉ひとつでミレディのように氷の柱に幽閉さ
れるだろう。
それでも構わない、と思った。これ以上ティアが嬲られる様を眼にしなければならないのなら…。天使の涙を流さ
せるくらいなら…。
切りかかってくる兵達をかわしながらジェガンはじりじりとティアとその身体を蹂躙していた妖獣共へと後ずさ
った。痩せ衰えた身体にどうしてこれほどの力が秘められていたのか、数では到底ジェダガンに勝算はなかったは
ずなのに、状況はむしろ老兵に有利だった。
荒れ狂うジェガンの剛剣に妖獣共は奇声を発し、なす術もなく逃げ惑っていたが、その中の一匹がふいにティアに
覆いかぶさった。耳まで裂けた口を開けてカイムから与えられた贄を己が身の内に閉じ込めようとするかのように
牙を剥き出す。
生臭い息がかかる。ジェガンはティアを救おうと身を踊らせたがすでに遅く、鋭い牙は彼女の首筋に埋められてい
た。それでもまだどこか夢心地だったティアは、ふいに襲ってきた激痛にのけぞった。
「……ッ!」
「ティ、ティアどのっ!」
ジェガンは叫ぶなり相対していた妖魔を袈裟懸けに切り捨てた。そして撓めた鋼が弾けるような勢いで瞬時にティ
アへと駆け寄る。
そのままジェガンは大きく振りかぶるとティアの上に覆いかぶさっていた妖獣をも切り伏せた。どす黒い体液を浴
びながらジェガンは茫然と立ち尽くす。
「くくっ…いい様だな、老人。それほどにその天使が大事か? 雲隠れしている間に、貴様の妾にでもしていたの
か? …さあ、余興の、続きだ…。」
カイムの嘲笑ももはやジェガンの耳には入らなかった。
かすかに痙攣する天使…。人が天使に似せて造られたのであれば、それは致命傷といってもよいだろう有り様だっ
た。喉から左胸にかけて裂けた傷口から気泡とともに血の塊が吹き出していた。
それほどの深手であってもむろん治癒はするだろう。けれどジェガンはもう覚悟を決めていた。これ以上の辱めを
受けさせはしない…!
ティアを抱き起こし魔界樹の前に寄りかからせて、彼は背後のカイムを振り返った。
「これが天の采配か。天の御心なのか! 何ゆえ…何ゆえこのふたつの魂をこうまでも弄ぶ! この残り少ない命
をかけて儂は呪うぞ。このふたりを引き合わせ、そして引き裂いた宿命を…。魔界の王よ。これ以上貴方の思い通
りにはさせませぬぞ。天界の方々もよくご覧になるがいい…!」
ジェガンは息を詰めて…その剣をティアの左胸に突き立てた。剣は抉られた傷口を尚も深々と刺し貫き、魔界樹ま
でも届いた。
これが最後の、そして最良の方法だった。
「ティアどの…ご容赦くだされ…ッ」
異形と成り果てた面はなおも険しく歪み、血の涙を流していた。
その時、聖天使はゆっくりと瞳を開けた。ヒュウヒュウと鳴る苦しげな息を押して唇が言葉を辿る。
『…れで、楽に…なれ…る。…あり…が……とう…』
ティアはその苛酷な運命を承知していたかのように微笑んでいた。けれどもう声にはならなかった。ただ消え入り
そうなほどか細い弱々しい思念がジェガンの脳裏に忍び込んでくる。
わたし、最初…あいつの気持ちが判らなかった。好き勝手に扱うあいつが憎くて…だから嫌いでいよ
うと思った。けど…本当はちっとも嫌じゃなかったのかも知れない。あいつの姿が見えないと不安で、心のどこか
が寒さを訴えてたわ…。
結局、認めたくなかったのよね。情けないでしょう? 天使に生まれたくせに愛がどういうものか判らなかったな
んて。
わたしは、自分の知っている愛しか認めたくなかったんだ。
でも今なら云える。あいつが…ゼルが好き。好き…です。もう嘘は云わない。
あいつに逢えて…………よかった……。
ティアの思念は、そうして、闇の中へと沈んでいった。
第十話に続く
2002.11.4(月) UP
●top ●index ●novels ●gallery1 ●gallery2 ●notes ●otehrs ●link ●BBS