1
義姉ミレディにより、獄中に投じられた魔界の王子の噂はたちまちのうちに国中に広がった。ある者はかの王子
ならさもあろうと面白そうに笑い、ある者は勇猛果敢な美貌の王子に同情的だった。そんな中で噂は離宮に住まう
ティアの耳には入ることもなく、時は残酷に過ぎていった。
ゼルが罪人として王宮の外れの塔に身柄を投じられてからしばらく後、数世紀にも及ぶ長い戦は一応の終結をみる
こととなった。何度も検討され、それでもなかなか合意には至らなかった停戦である。
「ゼル、もう噂くらいは耳にしたかね? 戦は終結したぞ。……おっと、そのままでは話しづらいな…」
停戦と共に実質の王となった第一王子カイムはゼルを前にそう云った。
むろん実体ではない。自身は贅を尽くした部屋の中だろう。それでも魔力は変わりなく使えるらしく、
カイムが口の中で呪文を唱えると、ゼルの四肢を拘束していた鎖はあっさりと外れた。
「………」
ゼルは崩れ落ちたまま返事をしなかった。いや、もう答える力すら残ってはいないのだ。その上、彼の幽閉された
塔には天界の光だけではなく特殊な細工もされていた。すなわち能動的な、つまり逃亡や攻撃の魔力が使えないよ
うに、だ。
今のゼルにある力といえば、せいぜい防御するのが精一杯といったところだろう。しかしそれすら彼は行使しよう
とはしない。
そんな義弟の有り様にカイムは満足そうに笑みを浮かべた。
「哀れなものだな、もう返事もできぬほどか。さもあろう、ここではさしものそなたでも赤子同然だからな。……
して、この間の返答はどうするね?」
冷ややかに見下ろすカイムにゼルはふいと顔を背けた。
「そう悪い取引ではあるまい。所詮妾腹のそなたではないか。私に永遠の忠誠を誓い、下僕となるのなら罪一等を
減じ、自由の身にしてやるというのだ」
「………」
嘲笑を含んだ言葉にもゼルは返答しなかった。怒りはなかった。カイムがどのような眼で妾腹の弟を見ていたか知
らないゼルではない。憎しみの感情などとうに凍てついてしまっている。
だがその申し出には頷けなかった。ここで頷けばカイムはゼルを解放するだろう。だがそれでどうなるというのだ。
計算高い長兄のことだ。その言葉通り、未来永劫ゼルを束縛し続けるのは火を見るより明らかだ。
「…返答をせぬということはこの『罪の間』で朽ち果てても構わぬということか?。…まぁそれもよかろう。……
意外なものよな、ゼル。あれほどにまで執着していた天使をも捨てるというか?」
その言葉にゼルは初めて顔を上げ、兄を見上げた。
「あの人を…どうすると…」
「どうもせぬ。いまさら天使なぞに関わっているほど暇でもないしな。…そういえばミレディの話だとあの天使は
翼を再生したという話だ。くくくっ、そなたには残念かも知れぬがな、純白の翼だそうだ」
「純白の…」
「そうだ。高貴な身には下司な妖魔の波動など受け付けぬというわけだ。どんな気分だ。そなたが私の申し出を受
けぬというのなら、私はあの天使を天界へ返さざるを得ぬ。もとより天界からの使者からの要請もある。まして停
戦してしまった以上魔界に留め置くというも妙な話だからな」
……ティアを天界に還す…。
その言葉はゆっくりとゼルの胸に染みた。
あれほど天界に焦がれていた天使だ。それがティアにとっては一番よいことだろう。もはゼルには何の力も残され
ていない。
ゼルはやつれた身体を起こすと眼の前に佇む虚像に向かい、静かに礼を取った。
王族としての最後の、そしてカイムに対しては初めての心からの礼だった。
2
戦の終結は、事実上捕虜扱いだったティアの待遇も一変させることとなった。
少なくとも離宮以外の場を渡っても咎められることはなくなったし、一応は貴賓客並の待遇になったともいえる。
そして離宮には連日、光のヴェールに身を護られた天界からの使者が舞い降りるという、かつてない奇跡のような
現実を妖魔達も垣間見ることとなった。
一度はティアが最も敬愛していた大天使までもが上級天使を従えて天馬と共に訪れた。創造主たる“神”に最も近
しいといわれるその姿、その光輝くオーラに離宮はおろか城一帯が震撼した。上級妖魔でさえ、戦慄を覚え…しか
しあろうことか至福の感情を味わうこととなった。
むろん依然として天界と魔界を隔てる結界は存在していたが、それでも停戦は互いの世界の関係をそれくらいゆる
やかなものにしていたのだ。
「…ティア、もうあなたは自由の身なのですよ。私と共に天界に帰りましょう。もうあなたは十分苦しまれた。こ
れ以上魔界に留まる必要はないでしょう?」
福音のごとき言葉が彼女の名を呼び、これまでティアが心の奥底で何度も伸ばした手を逆に向こうから差しのべて
くれている。
そう優しく促されたというのにティアの心はひとつも浮き立ってこなかった。あれほどに逢いたいと思った大天使
なのに。天界へ帰りたいと願っていた自分なのに。
穏やかな微笑はささくれたティアの心を癒しはしたけれど、それだけなのだ。
「……シルバのことは私も聞きました。可哀想なことだったと思います。けれど、そのことであなたが苦しまれる
ことはないのですよ。あなたには何の罪もない。ただ少しだけ彼よりも運がよかっただけです。それに…判ってい
るでしょう? この天界と魔界の停戦は一時的なものです。こうして魔界に迎え入れられても、この均衡はいつか
…近い未来には崩れるでしょう。そうなってからではもう遅いのですよ」
「判ってます。…けど…どうして我たちはこのままではいられないのですか? どうして敵にならなければならな
いのですか? どうして理解しあえないのですか?」
それは魔界に囚われ続けたティアならではの言葉だった。
大天使は優雅な柳眉を寄せてかすかに表情を曇らせた。蒼穹を映し取ったような蒼い瞳になんともいえない色が宿
る。
「それは…私では何とも云えないことです。今となってはいずれから起こった争いであったのかも判らないことで
すが、長い…長い確執だと伝えられています。今は一応停戦することができましたが…薄氷のような和解に過ぎな
い。これまでの確執はそう容易には氷解するものではないでしょう」
「敵…だと、あなたまでもがそうおっしゃるんですか? だからさっさと天界に戻れと、再生した翼が天使のもの
なら悩むな…と!」
「ティア…」
「無理です。私は、私には無理です。何もなかったことになんか出来ない。過去は過去としてそこにあるというの
に眼を閉じてやり過ごすことなんて…」
「その翼が赦しの証しだとは思えないと…?」
「………結局、私は誰も救えなかった。こんな私が天使だなんて…天使の資格なんかもうどこにもないわ」
うつむいたティアに大天使は哀しげな笑みをもって立ち上がった。
「そう結論は急がなくてもよいでしょう。前にも云いましたね、あなたが生まれたのは何か、私などには及びもつ
かない大いなる宿命なのかも知れないと。異郷の地でも変わらなかったあなただから、きっとそれなりの訳がある
のかも知れません。今日はこのまま退散しましょう。けれど、忘れてはなりませんよ。あなたは天使なのだと」
「………」
小さな声で、ティアは大天使の名をつぶやいた。その声に彼はにっこりと微笑み、まばゆいばかりの翼を広げた。
「では私は戻ります。……ああそういえばシルバの腕輪が天宮の泉に置かれてました。もし、もしあれを供えてく
れた方にお逢い出来たら、私が感謝していたと伝えてください」
……え…?
はっと顔を上げたティアの前で大天使は天空に舞い上がっていった。彼女のブロンズの体を護るように包んでいた
天界の光も、天空で待機していた天使達も徐々に小さくなってゆく。ティアはクッと口唇を噛み締めた。
帰りたくない訳がない。あのまばゆい、なんの不足も不満もない、美しく穏やかな世界が恋しくない訳がない。
それでもティアは大天使の手を取れなかった。
祝福のキスをしようとしてくれた彼の手を擦り抜けてしまった。
(私は…もう天使なんかじゃない)
結果がどうであれ、ティアは妖魔であるゼルと契約を取り交わしてしまった。自らの肉体を取引の材料にしてしま
ったのだ。
いまさらどうして戻れよう。誰が知らなくともティア自身が知っている。
その想いが彼女を踏みとどまらせてしまったのだ。
(それにしても…シルバの腕輪って…)
考えるまでもなかった。ゼル以外に誰が天宮までゆけるというのだ。
天界は妖魔にとっては灼熱の地…。同じ天界でも光の弱い外れならいざ知らず、天宮といえば凄まじい光の渦に輝
いている。その宮殿に向かうなど…自滅行為だ。
いくらゼルが王族で妖魔としての能力が高かろうと、闇のヴェールで身を保護しようとその負担は……。
ティアはその時のゼルを想って身震いした。それがどれほどの苦痛か、魔界に堕ちたティアだからこそ判るのだ。
全身を業火に晒し、体内の血液すらも沸きたったに違いない激痛…。そうまでしてもゼルはティアとの約束を叶え
ようとしていたのだ。
(あいつ…馬鹿…。なんて…なんて馬鹿なの…っ )
ティアはぎりぎりと口唇を噛み、冥い北の塔を睨むように見上げた。
ゼルが幽閉されているという北の塔…。あたりは暗闇になっていても尖塔にだけは光が射し込んでいる。妖魔にと
ってはただ苦痛でしかない天界の光が…。
3
「足元が急になってます。ティアどの、お気をつけて」
低い声に促されてティアは慎重に長い階段を登る。前をゆくのはティアの側近ジェガンだ。手元を照らすのは僅か
ばかりの灯火…。
長い、気も遠くなるような長い階段が続いている。もちろんゼルを幽閉したカイムはこの階段を使ってはいないの
だろう。
彼の気配など冥道の入り口からは塵ほども感じない。そしてまたティアには知りようのないこの兄王子の怨念と確
執に、今は気をとられている余裕はなかった。
階段はようやくひとり分だけ通れる空間しか確保されていないようだ。いつから使っていないのか、辺りは湿気
と積もった埃の匂いに満ち、その隙間をぬうように生命力だけは旺盛な妖蟲どもが這いずり廻っている。
この最北の塔が、同族を裏切った代償にゼルが手にした『罪の間』であり、『裁きの間』だった。
そして何枚めかの錆かけた扉をこじ開けたとき、その場所は現れた。ティアにとっては懐かしく、優しく肌を刺す
光と共に。
ここが…。
狭い階段を登りながら、ジェガンもまた悔恨に胸を締め付けられていた。こうなると判っていて、それでも王子を
諌められなかった我が身が情けなかった。
一目でいいの、と天使は云った。すっかり元通りになった翼を漆黒の長衣に包み込んで、何かを決意したような
表情で、ゼルに逢いたいと…。
その刹那ジェガンは思わず腰の剣に手をやっていた。
憤怒のあまり抜き取ったそれはティアの喉元に寸分狂いもなく突き付けられていた。身体の方が先に反応してしま
ったのだ。だがすぐにはっとしたらしくその刃はゆるゆると収められた。
恒久的に続いてきた戦が終結しようが、和平という道に向かって天界と魔界が歩みだそうがそんなことはジェガン
にとってはどうでもよかった。
大事な王子だった。自慢の王子だった。マヤ姫の忘れ形見、というだけではない。誠心誠意、慈しみ育てた…その
王子がよりにもよって反逆者として幽閉されたのは一体誰のせいだ。
すべてはこの天使ゆえではないか。
「私を殺せば、あなたの気がすむの? …なら、そうしてもいい。だけど、今は駄目。今は死ねない。あいつに逢
って話をするの。そうしなきゃ、ならないのよ」
喉元から流れた真紅の血…。かけらほどにも怯まずティアはそう云った。
『罪の間』は、魔界の罪人に相応しく天界から射し込む光に満ちていた。誰が考えだしたものか、闇に棲む妖魔
にとっては天然の拷問部屋だ。
好んで訪れる妖魔などいないというのか、罪人は壁に手足を拘束されただけで放置されていた。むろん見張りもい
ない。ただ、ぐったりと顔を伏せた王子の姿は、居丈高で自信に満ち溢れていたゼルとは別人のようだ。
かつて魔界一と謳われた見事な漆黒の髪は光に灼かれて色を失い、天界の男神のようだった美丈夫ぶりも哀れなま
でにやつれている。
「……王子…っ」
その姿を見るなり、ジェガンは走り寄って足元に身を伏せた。
「なんと…なんとおいたわしいお姿に…っ」
「………ジェガン…か?」
切れた糸を紡ぐが如く、切れ切れの言葉でゼルが弱々しく応じる。ジェガンは感極まったようにゼルの裾に口づけ
た。
「ここにおりまする。我が王子…っ」
「よせ…手が灼かれ…る…」
ゼルは、それでも身をよじってジェガンを拒もうとしたが、ジェガンは灼熱の痛みにも怯まず焼けただれた足に頬
を寄せた。
「王子、我が王子よ。どうぞお命じくだされ、第一王子を抹殺せよと。さすれば我が命に代えても必ずやお救いい
たしまする!」
それは紛れも無い本心だった。妾腹とはいえ王位継承権を持つ王子に与えられた苛酷な責めにジェガンは怒りに声
を震わす。
そんな彼にゼルは、しかし諭すように言った。
「馬鹿を申す…な…。掟は掟だ…その方まで罪に問われる…」
「けれど、あ、あまりにも惨うございまする。…王子たるお身でこのような…」
「…俺は悔いてはいない…。これがあの人を…ティアを愛したゆえの罪なら無に還ろうと構わぬ…。愛し…愛して
るのだ、あの天使を…。ジェガン、そなたなら…判ってくれよう…愛しき者の願いなら……。そこに誰か…いるの
か…?」
その気配に気づいたのかゼルはついと顔を上げて不審そうに呟いた。黒水晶の如き瞳も今は濁り、焦点を合わせて
はいない。もう眼も見えなくなっているのだ。
「ゼル…」
「ティ…ティア…? なぜ…ジェガン、どういう…ことだ…?」
「ジェガンは関係ない。私が…頼んだの」
ティアは堅い声でそう云い、一歩踏み出した。
むろん何をどういっていいのか、ティア本人にももちろん判っていなかった。
ただ、逢いたかった。自分を凌辱し続けた男に逢いたかったのだ。
「お前…馬鹿だ。天宮にゆくなんて…なんでそんなことしたの? どうなるか判んなかったっての?」
まるで怒っているような言葉だ。いつの間にか、跳ねっ返りの口調に戻っている。ゼルはくすりと笑った。
「なに笑ってんのよ…」
「光栄ですね…あなたに気にして…もらえるなんて…。お顔を見られないのが残念ですよ…。」
「ば…馬鹿っ…」
天使の声は震えていた。漆黒の瞳には涙すら浮かんでいる。涙は今にも溢れてしまいそうだ。どうして涙が溢れて
くるのか、どうして胸が痛むのか…。
その気配に気づいて彼は眉根を寄せた。
「泣いて…るんですか? どう…して…? 泣かないで…俺なんかのために泣かなくていいんですよ…。あなたを
苦しめたのは俺なんだから…」
静かにゼルは云った。そうしていてさえも灼熱の激痛は彼の身体を突き刺しているだろうに、彼はかけらほどにも
そんな素振りを見せようとはしない。それどころか見えない眼でティアのことをこそ案じているのだ。
「…翼…再生したと…聞きました……これで、天界に…帰れますね…。俺ももう一度見たかったな、あなたの翼…
すごく、きれいだった…」
夢見るようにゼルは云った。閉ざされた瞳にはそれでも彼女の姿が映っているのか、その表情はひどく満足そうに
見えた。
「勝手なこと云って…、私を妖魔にするって…云ったくせに…ッ」
自分と同じ妖魔にして天界には帰さない…。そう云ったのだ、ゼルは。
天使の誇りも翼までも奪い、自分以外の者を見るなど許さないと…。
眼も唇も身体も、そして心さえも明け渡せと…。
すべてを奪い束縛し続けた男は、その同じ口唇で甘く囁くのだ、今になって。
「ティア…?」
「…つらかったでしょう。こんなになってしまって…髪もめちゃくちゃじゃない。眼も…痛かったろうに…お前、
ホント馬鹿だ…ッ」
ティアはそっとゼルの髪に手を触れた。きれいだと思ったのはティアも同様だった。聖天使…? 不思議そうにそ
う云った妖魔は冷ややかな瞳に哀しい色を浮かべていた。乱暴にティアを切り裂きながら、それでも傷ついていた
のはむしろゼルの方だ。
知っていた。夢の中で救いを求めていた声が誰のものであったか…。
ティアは知っていたのだ。愛を伝える方法を知らない妖魔のことを。
それを無理にでも忘れようと。
「…あなたの手は暖かいね…。どうして、こんなことになっちゃったんだろうね……でも、もういい…。あなたが
俺を訪ねてくれた…それだけで満足ですよ…」
「ゼル、ゼル。わたし…」
初めて自分から、忌わしい魔族の手をとった。途端。
「!」
驚愕の、声にならぬ声をあげる。その手はひからび、節くれだっている。もはや植物のものであった。
「ジェガン、そこにいるか?」
何かを云いかけたティアの言葉を遮ってゼルは呼びかけた。
「は。ここに」
入り口で控えるように命じられていたジェガンはすぐさま扉の向こうから姿を現し、ゼルの前に膝を折った。
「話はすんだ。……この人を…連れてゆけ…。そしてもう…二度とここへは来るな…」
「ゼル。わたしは…あなた、を」
「ジェガンっ、命令だ…ッ」
尚も云い募ろうとするティアの言葉を遮り、ゼルは語気も荒く云った。
「わかり、ました」
「いやっ! ジェガン、放して。わたし、わたしゼルを!」
老兵は血涙を滲ませながらもその命に従い、抗うティアを強引に引きはがした。干からびた唇に微かな笑みを浮か
べた闇の王子の姿は、そうしてまた重き扉の陰に消えた。……それがティアの見たゼルの最後の姿だった。

数日後、彼は天界の光に身を灼き尽くされ、一本の魔界樹に姿を変えた。
完全な死ではない。ただ無に還らなかっただけのことだ。それでも王の名代となったカイムには納得のゆく末路で
はなかったらしく、かつてゼルであったその樹は離宮の庭園へと移されることとなった。いわゆる、見せしめの為
に。
4
鐘が鳴っていた。新王カイムの戴冠式の鐘だ。第三王子が謀反人として滅し、もう王位を脅かす者がいなくなっ
たからなのか、戴冠式は重臣達の見守る中で滞りなく執り行われた。魔界の新しい王の誕生だった。
「ティアどの…ティアどの、どちらにおいでですか?」
どこからか声がする。
「ティアどのッ! おお、こちらにおいででしたか」
咲き乱れる花の中でティアは眼を閉じていたが、頭上から覗き込まれてパッと眼を見開いた。途端に彼女は不機嫌
そうな表情を浮かべた。
「…るさい」
「こんなところでお休みでしたか。天界からご使者が見えて…」
「うるさいって云ってんのッ。あんもうっ、聞こえなくなっちゃった」
苛立たしげにティアは半身を起こすとジェガンを睨みつけた。
「は…何がです?」
「うた」
「……え?」
ジェガンにはティアの言葉の意味が判らなかった。耳を澄ましても聞こえてくるのはせいぜい風のうねりくらいだ。
「眠ってたんじゃないわ。あいつの歌、聞いてたんだもの」
「あいつ…て」
「なに云ってんの、ゼルに決まってんでしょ? ……ったく、こんなことならもっと前に聞いときゃよかったな。
こんなに優しい歌を歌えるなんて知らなかった…」
くすくすと笑いながら、ティアは顔をあげて自分の傍らの樹木を見上げている。
ジェガンはそんな彼女を怪訝そうに見下ろしていたが、思わず膝を折ってその顔を覗き込んだ。
「ティアどのっ!?」
「なんなの…? 変なひと」
ティアはにっこりと微笑んで応える。天使以外の何者でもない穏やかな微笑で。
そしてふと気づいたように樹木に眼をやり、言葉を続けた。
「…ああ、だからあなたも変なヤツになっちゃったんでしょ。こんな頑固者のジェガンが養育係だったんでしょ。
ふふ、ばか、そんなんじゃないから」
まるで樹木に語りかけているように見える。時折照れたような表情を浮かべ、ジェガンには見えない相手と喋って
いるようだ。
「? え…ここで? しょーがないな、いっぺんだけ、だからね」
ティアは翼を広げるとふわりと浮かび上がって宙を舞った。そしてひとしきり飛んで見せるとそのまま樹木の枝に
腰を下ろした。
「ティアどの、降りておいでなさい。天界のご使者がいらしているのですぞ」
ザザァッ、と梢が鳴った。
「大丈夫、いかないわ。……ジェガン、誰がきても同じと伝えて。私はここを離れる気なんかない」
ティアはそう云うともう一度翼を広げ、大きく羽ばたいた。それは魔界に生まれ落ちた妖魔と比べてもひけを取ら
ない力強い羽ばたきだった。
濃厚な魔界の大気の中を自由に飛翔する天使…。ジェガンは何事かを感じたのか、愕然とその姿を見ていた。
その夜、ティアはジェガンの手によってきらびやかな衣装を着付けられた。魔界に囚われた天使の為に天界の使
者が用意してきたものだ。
「なん…なの、これ…。ジェガン…?」
不思議そうに見返す漆黒の瞳…。
ジェガンはその前に膝を折った。敬意に満ちた正式な礼…。ゼルの意志を継ぐ、それがあの時…王子を見舞った折
りの決心だった。
ジェガンなら判るだろう、とゼルは云った。かつてひとりの妖魔を愛したお前なら自分の想いが判るだろう、と。
「ティアどの、もう充分です。王子もいない今、あなたが魔界におられる必要はありませぬ。どうぞ…天界に、光
の宮へお戻りください」
「いない? なに云ってんの。いるじゃない、あそこに」
ティアは屈託なく応え、外に眼を馳せた。
「あれは…あれは魔界樹です。転生したわけではありません。……ティアどのがどれほど待たれても一度死したも
のが蘇るはずがないではありませぬか。人間ならいざ知らず我ら妖魔に再生は…人間のように転生することはあり
得ないのです」
「…おかしなことを云うひとね。魔界樹ですって…? ゼルはあそこに…」
「しっかりしなさい。王子は、我が王子はもうどこにもおりませぬ…っ。あれは王子ではありませぬ!」
ジェガンはティアの肩に手をかけて、思わず強く揺さぶった。
ゼルの死がティアの精神に何をもたらしたのか、あれほどにまで彼を憎んでいた天使の心をどう変えたのか、聡
明な側近には何か感じるところがあったのだろう。ティアは困惑したようにかぶりを振った。
「……だって…あいつが死ぬわけがないじゃない。もう天界には返さないって…ずっとわたしの側にいるって…」
「ティアどの…?」
「やっと…やっと、同じになれたのに…」
聖天使は離宮の庭園に眼を馳せたまま小さくつぶやいた。そしてふと思い当たったように瞳を曇らせた。
「……だから…なの? 私がこんな風にこんな醜くなってしまったから…?」
あふれた涙がティアの頬を伝う。ジェガンは意味が判らず目の前の天使を見つめた。醜く、とはどういうことだろ
うというように。再生した両の翼はまばゆいばかりに光輝いているではないか。ティアは依然として美しい天使の
ままだ。
怪訝そうに見つめるジェガンの手を払いのけ、ティアは素早く彼の腰から剣を抜き取ると、ベランダから飛び出し
た。暗闇にはばたく白い両翼…。その美しさにジェガンは後を追うことも忘れて茫然と見送っていた。
魔界樹はティアの訪れを喜ぶようにザザァッと梢を鳴らした。
「…お前…ずるい…。私が……なったらいいって…そ…云ったじゃない…。…ずるいぞ…? こ……なの、もうや
だ…いやだ…抱いてよ、前みたいに…わたしを…」
ティアはその根元にたたずむと哀しげに魔界樹を見上げてつぶやいた。そして己の手首に口を当てると力任せに引
き裂いた。ドクドクとあふれる血潮…。
震える手で血塗れた手を空にかざす。
「……ほら…ね…? 同じ、でしょ……」
けれど光の粒子と共に流れるそれはやはり天使のものでしかない。
後を追ってきたジェガンはその様を不思議そうに見ていた。初めは自分も錯乱したのかと思った。けれどティアの
傍らにたたずむあの影は……。
魔界樹に寄り添う天使を見つめながら、ジェガンもまた自らが狂気に駆られてゆくのを感じていた。
第九話に続く
2002.10.25(金) UP
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