忘 却 の 罪 科

 - 翼 有 り し 者 た ち -  第 七 話

原案:崎 続 様 / 構成&文:J I N

 1

 ゼルが戦場に赴いたのはそれから数日経ってからのことだった。彼の来訪が途絶えて久しいのでさすがに不審に

思って尋ねたのだ。

ジェガンの話では、ティアが捕らえられた頃よりも戦況は悪化しているという。果たしてそれがどちらにとって悪

化しているのかは不明だったが、時折戻ってくる使者に城内は騒然としているようだった。

それでもティアのもとには相変わらず罪の実が届けられる。

最初は、気にならないでもなかった。魔界樹は天界の外れの、これが天界かと思うほど荒れ果てた地に群生してい

る。魑魅魍魎の棲む、恐ろしい場所だ。上級天使なら絶対に近づかない忌みなる聖地。

けれどそれがなんだというのだ。

(私には…関係ないわ)

別にティアが頼んだわけではない。ゼルが勝手に届けてくるのだ。勝手に…。

気にしてやる必要などないのだ。彼はそれだけのことをしたのだから。

翼をもがれた身ではもう還る場所もない。そう思ってティアは我知らず溜め息を洩らした。この身は一体なんなの

だろう。天使でもない。さりとて妖魔になるでもない。胸に広がるこの苦々しい感情は一体…。

 そんなある日のことだった。また天使が捕らえられたという噂を耳にしたのは。

「…ジェガン。その、天使の名…判らない?」

「判らないことはありませぬが…聞かぬ方が宜しゅうございましょう」

煎じた薬湯を差し出しながらジェガンは素っ気なく応えた。

「知ったからといってどうなるものでもありますまい?」

確かにそれはそうだ。ティア自身囲われの身なのだ。不運な天使を救う術があるわけではない。だが黙り込んだテ

ィアに別の声が応えた。

「…シルバ、とか名乗ってましたよ」

戦装束のまま現れたのは離宮の主、第三王子のゼルだった。

「これは王子…お出迎えも致しませず申し訳も…」

ジェガンは慌てた様子で膝を折った。

「ああいい、いい。構うな。…それよりこれを何とかしてくれ。重苦しくてかなわん」

そう云うゼルにジェガンは立ち上がると、手慣れた様子できらびやかな宝石で彩られた帷子を脱がせにかかった。

そして一通り脱がせ終わるとゼルの指示に従って出て行った。

「…具合は、どうですか?」

沈黙を破ったのはゼルの方だった。だがティアは無言で薬湯の杯を傾けている。

「…相変わらずのようですね」

苦笑まじりにつぶやくと、ゼルはティアの側ではなく少し離れた長椅子に腰を下ろした。全身から力が抜けてゆく。

ひどく疲れていた。なのにどうして自分の私室ではなく、この屋敷に足を運んでしまったのか…。ゼル自身にして

も己の行動が不思議であった。

歓迎されないことは承知している。幽閉し、闇の波動を与え、あまつさえ翼すらも奪った自分だ。そんな自分をこ

の天使はどれほど憎んでいるだろう。かなうことなら切り刻みたいほどに憎悪しているに違いない。そうと思うと

胸の奥がキリキリと痛む。その反面、それほどにまで彼が憎悪するのは自分ただひとりだという、奇妙な感情も介

在している。善くも悪くもティアが心惹かれるものは此処にはないのだ。漆黒の眼差しはいつでも別のところに存

る。

だから、逃げた。

追い詰めて貪り尽くしてしまいたい欲望とこれ以上憎しみの眼差しを受けたくないという想いが、ゼルを戦場へと

駆り立てたのだ。

(それでも…惹かれる……!)

思いどおりにならない己にゼルは疲れた身体を背もたれに預けた。そのまま眼を閉じ、奥歯を噛み締める。重い沈

黙を破って彼はきっと云うだろう。出てゆけ…と。きつい眼差しでコージを見据え、そう云うに違いない。

「…シルバ…って」

「…え?」

思いがけずティアの方から云われてゼルはハッと顔を上げた。ティアは窓の外に顔を向けたまま、逡巡するように

言葉を続けた。

「シルバって、云ったわね。その…さっき…」

「あ…ええ。…捕らわれた天使ですね、確かそう名乗ってたはずですが。……それがなにか?」

「どんな…どんな奴だった?」

「どんなって云われても…そうよく見たわけではないのではっきりとは云えませんが、金髪碧眼の天使でしたよ。

ああ、そういえば変わった腕輪をしていましたね」

「変わった…腕輪? そ…それ、手首と腕を繋いだ形の、金を編んだ…?」

そう云ってティアは自分の腕で示して見せた。その仕草にゼルはかすかに考えて頷いた。確かにそんな形の腕輪だ

った。

「……シルバが……」

ティアは言葉を失くしたように低くつぶやいた。知らぬ相手ではない。いやそれどころかシルバという名の天使は

彼女にとって数少ない友人だった。

「……ティア…?」

ゼルの不審げな様子にティアはしばらく口を閉ざしていたが、やがて意を決したように云った。

「彼は…どうなるの?」

「え…?」

「彼は…彼も天界には戻れないの?」

「戻れないでしょうね」

あっさりと、ゼルは云った。偽りを口にしたところでティアは信じはしまい。

捕えた天使は戦士には似つかわしくない優しげな面差しをしていた。捕虜として価値のあるほどの天使ではない。

ましてここしばらくの戦況は魔界に有利という状況だ。むろん戦況のことはティアには云っていないが、あの天使

もいずれ誰かの慰み者として下げ渡されるだろう。

「…助け…たい…」

聞き洩らしてしまいそうなほど小さな声でティアは云った。

「お前なら…お前ならできるだろう? 彼を…シルバを助けたい」

「恋人だったとでも?」

「違うわ!」

皮肉な言葉にティアは即座に否定し、友人だと続けた。漆黒の瞳には下司な邪推はするなと云わんばかりに蔑みを

たたえたままで、だから助けたいのだと。

王子であるお前ならできるだろうと。まるで当然のように。

「うるわしいことだ。ではその報酬に何をくれます?」

「報酬……」

ティアは戸惑い、ゼルの瞳を見返した。

やはり間違いであったかとも思った。妖魔に頼み事をするなど無駄なことだったのかも知れない。しょせん妖魔は

妖魔、弱みに付け込んでくるのは彼らの常套手段だ。

第一、今のティアに何を差し出せるというのだ。四肢の自由はおろか、翼さえも奪った張本人が……!

「……当然でしょう? あなたの恋人…いや友人でしたね、その友人を助けたいのでしょう? その報酬に私は何

を得ることができるのですか?」

「………何が、あるって云うの、こんな身体の私に……っ」

吐き捨てるように云ったティアに魔界の王子はくすりと笑い、応えた。

「あなた自身…」

「………え…?」

「あなたのすべてですよ。髪も、瞳も、腕も、脚も、それと心…。そのすべてを私にゆだねると約束してくれるな

ら、力を貸しましょう」

その言葉にティアは思わず声をあげて笑った。彼はすでに彼女のすべてを手にしているではないか。この離宮に幽

閉したのはゼルであり、逃げる術もないというのに翼まで奪い去ったではないか。いつだって傍若無人な振る舞い

でティアを組み伏せ、凌辱の限りを尽くしているではないか。聖天使の誇りを踏みにじり、魔界の波動を求め、喘

ぐだけの存在にしてしまう、そんな男が一体何を云うのだろう。

「…クックックッ…何を云うかと思えば…。いまさらでしょう。この私のどこにお前の触れていないところがある

っていうの?」

「そう…でしたね」

ゼルは薄く微笑んだ。きつい眼差しはあの日から少しも変わってはいない。どんなに征服しても、いや征服できた

と思ってもこの瞳から光を奪うことはできないのかも知れない。傲慢で、気高いこの天使は…。

(それでも…触れさせてはくれないだろうに…)

その金色の魂に焦がれ、砂を噛む思いで戦場に赴いた。そうでもしなければ心が裂かれてしまいそうだったから。

 …けれど、判らないのだ。彼女には…!

「シルバは…還れるのでしょう?」

謎掛けのような言葉でティアは云った。けれど彼女には確信がある。氷の王子と呼ばれるこの男はきっと自分の願

いを叶えるだろう。そして、もとよりティアに希望はないだけの話だ。

「還してあげますよ。あなたがそう望むなら…ね」

ゼルは冷ややかな顔で大義そうに長椅子から立ち上がると背を向けた。

「戦場の血で汚れているんですよ。随分と…天使を切り捨ててしまいましたから…ね。湯浴みをしますからあなた

もついておいでなさい」

それは命令だった。ティアは顔色も変えずにかすかに頷いて、その言葉に従った。



 2

 翼を失った身体は精神のバランスをも欠く、と云う。今のティアはまさにそんな具合だった。あるべき物がない

というのはそれだけで不安定であり、統一した思考が奪われてゆくことなのかも知れない。そして、それは彼女も

翼を奪ったゼル自身でさえ気づかない深いところでゆるやかに進行してゆくのだった。

「……あ…っ、…んっ」

離宮の夜は熱く、そして長い。

寝台の上に座ったコージの膝に腰を落として、ティアはその広い肩口に頬を押し付ける。一定の間隔で唇を通して

与えられる魔の波動……。手が勝手に自分を抱く男の髪にすがりつく。視界を奪うそれは、まさに漆黒の闇のよう

だ。

かつて翼のあった、薄いカサブタになった箇所を長い爪が弄ぶようにうごめく。ティアはせつなげに髪を振り乱し

た。

「や…っ、そこ触る…な、そ…こは…あ…っ」

しっとりと汗を掃いたしなやかな背が、淫らな律動に煽られ、撥ねる。片手で抱え込んだ髪を梳きながら、ゼルは

耳元に吐息ごと囁いた。

「…私を、愛していると云いなさい」

ぞっとするほど甘い声音でゼルがささやきかける。己の声音がどれほど相手を狂わせるか、彼は充分承知していた。

二言、三言ささやいて、羞恥に染まった耳朶を少し強いくらいに食む。舌に甘い味が広がってゆく。甘い禁忌の味だ。

「あ…あ…っ、…い、いっ…愛して…ッ、だか……ら、も…っ」

喘ぎながら女は男にしがみついてくる。その貌がきれいだ…と男は思った。

ティアはもうゼルの手を拒まない。彼が望めばどこででも、それこそ庭園の真っ只中でも、その褐色のしなやかな

からだを広げ、己を迎え入れる。肉の快楽に溺れたように身をうねらせて、すべてを彼にゆだねる。

けれど、ティア自身は気づいてはいるまい。その表情にはいつも戸惑いの色が浮かんでいるということに。諦めと

いう名の泉がその瞳に湛えられているということに。

その初々しい清らかな表情が、男に抱かれるにしたがって徐々に淫らになってゆくのだ。その様はまるで血を啜っ

て咲き誇る花のようにさえ見える。

 明後日にはまた戦場に向かわなくてはならない。それゆえ少し乱暴にしすぎたかも知れない。組み伏せたからだ

が痙攣するように震えている。

「ティア、あなたを愛してる…」

激流のただ中にいるティアにその言葉は聞こえないだろう。そうと判っていて、だからこそゼルはつぶやいた。

「あぁっ……!」

翼の根にすがりつく手に一際力が込められたと思った途端、まるで糸が切れたようにティアは意識を手放した。


 3

 目覚めたのはそれからどれほど過ぎてからのことだったか、意識を取り戻した時、ティアのかたわらにゼルの姿

はなかった。全身が甘く痺れている。それを自嘲するようにくすっと笑った。

いつまでこの時が続くというのだろう。それとも見掛けは翼を失っただけでこの身はすでに妖魔と化しているとい

うのだろうか。

「お目覚めでございますか、ティアどの」

扉越しにジェガンの声が聞こえた。

「…ええ、起きてるわ」

答えるとジェガンは長衣を片手に寝台へと近づき、全裸のティアに素早くそれを着せかけ、ゼルから贈られた高価

な装身具で支度を整えてゆく。

相変わらず無口な男だが、それでもティアに対する態度は、以前から比べるとずっと凪いでいるようだ。

「あちらにお食事の用意が整っております」

「…あ…。ごめん、食欲ないから…」

「困りますな。ティアどのもお判りと思いますが、貴女のお食事は我が王子が禁を侵してまで手に入れてこられる

ものですぞ。体調が優れないのは判らないではありませぬが」

苛立ちを押し殺して云うジェガンにティアは渋々と頷いた。

「…食べるわよ…。あの、ね。あなたからあいつに云ってくれない? 別にあれでなくとも、私、平気だから。

きっと魔界のものでも食べられるからって。」

「…それは、ご自分で申し上げてください。王子は、もう私の言葉など聞いてはくださらぬ。何を…一体何を考え

ておられるのか…」

顔を背けてジェガンは苦々しくつぶやいた。

 この天使がきてから王子はすっかり変わってしまった。何事にも悠然と構えていたかつての王子ではない。天使

が少しでも気に入って、この離宮での暮らしを嫌がらないように、荒れ果てていた庭に手を入れさせるように、な

どと命じた。

そればかりか何度止めようと、天界へと潜り込み魔樹の実を採ってくるのだ。

天使が魔界で生きにくいように、妖魔も天界では生きにくい。天界から洩れてくる光でさえも苦手なのに、溢れる

光の中では呼吸すらままならないだろうに。どんなに見事な翼を持っていようと、闇で編んだヴェールで身を保護

しようと、灼けつくような苦痛を浴びているだろうに。

(…まこと、困った方だ)

何度も、その原因たる天使を己が手で亡きものにしようとジェガンは思った。けれど、できなかった。王子がどれ

ほど嘆くか、だけではない。ジェガン自身も、この天使の前に出ると気持ちが揺らいでしまうのだ。何もできない、

今となっては何の力もない天使だというのに。邪心のかけらもない漆黒の瞳がこれほど心を打つものであったとは

思いもよらなかった。

 一方、ティアもどこか(自分自身ですらも気づかないほどかすかな変化ではあるが)変貌しつつあった。

ジェガンの手によって運ばれた彼女の為の食事。ゼルの命令でもあったし、食べなければならないとは思うのに、

用意されたそれらを前にやはり、食欲は沸かなかった。それどころか嫌悪感さえ感じる。

(これって…やっぱり妖魔になった、ってことなのかな)

ゼルにもがれた翼の跡はすっかり癒えたが、時折そこがむずむずと、何かが這いずるような痒みに襲われる。新し

い翼が生えてくるのかも知れない。

だとしたなら、その翼はきっと、妖魔の翼と同じ闇の色をしていることだろう。いや、あるいは翼とは名ばかりの、

見るもおぞましい形を有しているか……。

そうまで考えてティアはぞくりと腕を抱き締めた。何ゆえ自分はこうまで客観的に考えていられるのだろう。天使

なら…本来の天使なら、とうに気が狂うか、異形の者へ姿を変えているはずではないか。少なくとも妖魔に抱かれ

て何の変化もなかった天使など……いない!

(私は一体……これではまるで…まるで…)

その先を思い浮かべてティアは激しくかぶりを振った。恐ろしさに全身が震え出す。けれど沸き上がった疑念はど

んなに否定しようと晴れなかった。

 その日の午後のことだ。

ティアはあの日以来投げ出して置いた水鏡を前にしていた。退屈凌ぎに、とゼルから贈られたあの水鏡である。呪

文はジェガンが教えてくれた。天使としての能力は失っても呪文の持つ魔力は有効だ。

そしてティアは、水面に映し出された真実に愕然とした。

 …騙されていた……!

シルバは天界に還されたのではなかった。薄汚れた牢屋で拷問され、四肢をズタズタにされ、殺されていたのだ。

憤怒のあまりティアは胸を掻き毟り、ゼルを、そしてろくに確かめもせずに信じてしまった自分を呪った。

「これは一体、どういうこと……!」

ギラつく瞳でジェガンに食ってかかると、一瞬彼の瞳に狼狽の色が浮かんだ。

彼も知っていたのだ。自分だけが何も知らされてなかったのだ。

怒りのままにティアは彼に掴みかかった。決して傷つけるなという主の命がためらいを生む。そんなジェガンの隙

をついてティアはその腰から剣を抜き取った。

「何をなさいますっ。お返しなされ…!」

「よくも…よくも! 呼んでっ、あいつを呼んできてっ。あの嘘つきの卑怯者を、この手で殺してやるっ!」

「違いますっ、あれは、あれは王子のせいではありませぬ。間に合わなかったのです。我が王子はティアどのとの

約定を違えるおつもりは…」

「言い訳も嘘もたくさんッ」

何とか宥めようとするジェガンを怒鳴りつけてティアは手当たり次第に剣を振り回した。しばらく剣を扱っていな

かったというものの、かつては戦士として剣を振った経験もある。武器さえ手にすれば翼のない身でも一太刀浴び

せるくらい出来るはずだ。だが、それはティアが以前の力を持っていればこそのことだった。今の彼女は魔界の剣

を手にしただけで逆に精力を奪われる弱々しい存在でしかなかった。

それでも振り回している剣は年代物の調度品や窓に当たり、それらが次々と派手な音を立てて壊されてゆく。

「何事だ………!」

ほどなくしてゼルが姿を見せた時、部屋の中は凄まじい有り様となっていた。

「シルバ……シルバ…どうして、救えなかった……っ……!!」

ティアは本気で抗った。許せなかった。

立場は違えど信用していたのだ。何か根拠があったけではない。むしろ取引になり得るような取引でなかったのは

承知している。まして相手はあざとく姑息な妖魔の王子なのだ。けれど、自分を見つめたあの眼差しは決してティ

アの想いを、願いを違えるようには思えなかった。

しかし結果はどうだ。シルバは殺された。彼女が何も知らずに王子に抱かれている間に殺されていたのだ。

 心の優しい天使だった。

天界といえど決して満たされ切った世界ではない。まして他者と容姿から異なるティアにとっては胸の痛むことの

方が大きかった。そんな中で春の陽差しのような彼の微笑みにどれほど救われたことか。

彼女はもう天界に戻ることなどとうに諦めていた。妖魔の波動を受けた汚れた身で戻れるわけもないことは充分承

知していた。

だからこそ彼だけでも救いたかった。救いたかったのに……!

 「…あきらめ、なさい…」

剣をほどかれ、その身を抱き締められ、冷ややかな声が耳を打つ。

「私は…お前を…憎む…っ、絶、対に、許さな…っ」切れ切れの、それは呪詛だった。

身動きひとつできぬように魔の力で拘束されるなら、いっそ自分の心さえも麻痺させて、誰に抱かれているのかも

判らなくするがいい。吐き捨てるようにそう云った。

その言葉を聞くとゼルは一瞬強ばり、息を呑んだ。そして彼女の怒りと憎悪の丈を込めた眼差しにかちあい、視線

が絡み合う。

ゼルは哀しいくらい深い眼差しで聖天使を凝視めていた。冷ややかな声音とは裏腹にそれは、シルバを救えなかっ

た彼よりも哀切な色を覗かせている。

けれどその眼差しに映ったものに、ティアはとうとう気づかなかった。


 4

 ティアが水鏡を覗く前。

魔城の片隅の牢獄で、ゼルはようやく囚われの天使を見い出した。

両手を戒められ、宙づりにされた美しい天使はすでに全身がズタズタにされていた。美しい天使への拷問は、おそ

らくかなりなものだったのだろう、惨たらしく責められその痛みに暴れた弾みに壁に打ち付けたか、あるいは逃げ

られないように意図的にそうされたのか、白い翼は痛ましくも折れていた。その翼では仮に肉体が治癒しても、か

つてのように蒼穹を羽ばたくことはできないだろうと思われた。

湿気とかすかな異臭を放つ牢の前には鋭い牙と爪を持った妖魔が番をしていた。

二匹の牢番は互いに牢内の囚われた天使に舌なめずりをし、いずれその片鱗でもおこぼれに預かれないかと噂して

いた。と、ふいに大気が歪んだ。何事かと思った牢番の前に噂にしか聞いたことのない、変わり者の王子が佇んで

いた。

「これは王子…斯様な穢れた処へお出ましとは………!」

ただでさえ妖魔達にしてみれば滅多に会える相手ではない。いきなり石段の上に姿を現したコージに牢の番人は慌

てて膝を折った。

「そこを開けろ」

低い声で命じる。が、牢番達はハッと顔を上げるととんでもないというようにかぶりを振った。

「な…にを仰せられます。ここにはどなたもお通しせぬよう、第一王子より堅く命じられております。いかなゼル

王子のお言葉でも従いかねます。どうぞその議ばかりはご容赦ください」

「第一ここには王子のお気にかけるような者はおりませぬ。斯様な処にお出ましになられたのが他の方々のお目に

触れでもしたならそれこそ一大事にござりまする。早々にお戻りくださいませ」

「この俺に指図するか……!」

ピシャリと云われ、牢番はすかさず平伏した。

「め、滅相もごぞいませぬ。決してそのような…」

「しかし、カイム王子が…」

平伏したまま牢番は何とか宥めようと言葉を探していたが、そんな彼らに王子はふっと表情を和らげた。

「そのほう等、なんぞ勘違いをしとるようだな。俺は別に兄上に逆らうつもりでここへ参ったわけではないぞ?」

「は……いえ、私は別に…」

うろたえたように口ごもる牢番にゼルはにっこりと、極上の笑みを浮かべて続けた。

「天使が囚われたと聞いた。拷問係は退がったのか?」

「は、先程」

「では俺が尋問する。そこを開けい」

「じ、尋問?」

牢番達は怪訝そうにゼルを仰いだ。王子自らが牢を訪れるなどかつてなかったことだ。まして罪人の血で手を汚す

など信じられない。だがこれ以上命令に異議は唱えられなかった。牢番達は互いに顔を見合わせ逡巡していたが、

ゼルの冷ややかな眼差しを前にうやうやしく道を開けた。

 中は、罪人の住まいに相応しく血の匂いに彩られ、また長い年月大気から隠蔽され続けたゆえの湿気にひんやり

としていた。立ち込める異臭にゼルは眉をしかめる。天使は、つま先が床に届くか届かないかくらいに宙づりにさ

れていた。

「おい、床に降ろせ」

「は、いえしかし…王子、その者は手負いです」

「だからどうした? こんな今にも事切れてしまいそうな天使にこの俺が何かされるとでも…?」

あっさりと切り返されて牢番は慌てて壁のハンドルを回した。ピンと張っていた鎖がたわんで傷ついた身体がぱさ

りと床に投げ出される。

「それでいい。そのほう達はしばらく下がっていろ。ここには、誰も通すな」

その命令に牢番達は、もう何も反論しなかった。

 天使は、多分床に降ろされた弾みで目覚めたのだろう、うっすらと眼を開けた。

そして自分を見下ろすゼルの姿を認め、かすかに戸惑ったような表情を浮かべた。たった今まで彼を嬲り続けてい

た残虐な、醜怪な姿と感情のない爬虫類のような瞳の拷問係とはあまりにも違う。容姿だけなら、その背に雄々し

い漆黒の翼さえなければ、天界でもそう眼に出来ないだろう美貌の若者。ほんのささいな仕草にも高貴な生まれが

感じられる。額の王族の証しがなくても身分のほどは想像がついた。

「…あ…なたは…」

弱々しい響きの中にかすかな敬意が含まれている。

「いかにも俺はこの国の王子だ。…助かりたいか?」

「それは…どういう意味…でしょうか」

「…お前を逃がしてくれと頼まれた」

憮然と、ゼルは云い捨てた。ティアが心を寄せる相手など自ら殺してしまいたいのが本音だ。けれど…。

「幸い俺の手元には魔樹の実もある。望むなら、手引きもしてやろう」

「……」

天使、シルバは驚いたように彼を見上げ、言葉をなくした。

捕らえた天使の逃亡に手を貸す…? それがどれほどの罪に値するのか知らぬではないだろう。まして王子という

身分だ。

「誰に…誰に、頼まれ…たのですか…?」

「そんなことは知る必要はない。…逃亡するというのなら手を貸す」

傲慢な物言いの中にためらいが感じられた。だがそれは、同族を裏切り天使に手を貸すことが、ではない。ゼルに

は判ってしまったのだ。

この天使には覇気がない。美しいが、弱々しいそれだ。生来のものか、あるいは拷問の結果か、衰弱が激しすぎる。

これでは天界と魔界を隔てる結界を超えようとしただけで生命を燃やし尽くしてしまうだろう。

そんな思惑を知ってか知らずか、天使はゼルの言葉に静かにかぶりを振った。

「何ゆえだ…?」

「…無駄です。私はも…天を翔べない…。翔べない天使など……。それに私を…ただお助け…くださるのではない

…でしょう? …その誰かの犠牲の上になんて…立ちたくないのです。…私はもう……。どうぞ、お捨て置きくだ

…さい…」

息も絶え絶えになりながら、それでもそのシルバは薄く微笑した。

覚悟の笑みだった。

「…では何か、替わりに所望するものはあるか?」

「お心遣い…感謝します…。あなたとあなたをここへこさせて下さった方に…」

「礼などいい。望みを云え」

苛立ったようにゼルは云い、顔をそむけた。胸の奥がむかむかしていた。天使という種族は、みながみなこうだ。

己の運命をあっさりと受け入れてしまう。こんな苛酷な運命をどうして呪わずにいられるのか。どうして諦めてし

まえるのか…!

「……では…この腕輪を天界に…天界に葬って下さ…い…」

静かに天使はそう云った。それすらもおそらくはさほど強く願っていたのではないだろう。有り得るはずのない現

実に夢を託したかった…。その程度の願いなのだ。

 結局ゼルは、その腕輪だけを手に踵を返すしかなかった。

 5

 熾烈化する戦場とは裏腹に天上界の中枢では互いの世界を統治する権威者達が和平に向けて交渉を重ねていた。

特殊な大気に保護されているそこは天界の者も魔界の者も一堂に会することができるようになっているのだ。その

中には魔界国の第一王子、カイムの姿もあった。先頃伏せることの多くなった父に代わっての名代である。

無論これまでも会議はなされていたが、熾烈化する一方の諍いにとうとう元老院が重い腰をあげたのだ。このまま

では人間界をも巻き込んで三つの世界が破滅へと向かってしまうのは時間の問題ともいえた。

もちろん戦に優勢な立場の魔界の権威者達は天界の申し出である停戦には承服しかねていた。しかし、天界を統治

することができないのも事実である。まばゆいばかりの天界を魔界と同じ暗黒の闇で覆うにはすべての妖魔の力を

もってしてもおそらくは出来ないことであったし、そしてまた闇に棲息する彼らであってもやはり天界に対してど

うしても拭えない畏怖の念があったのだ。

「…ともあれ、我らが諍いを止めぬことには人間界への影響もはかばかしくない。先頃では人間界も不穏な動きが

あるということだ。ここは双方停戦ということにしてはいかがなものか」

「いやそれにはまず、どちらが人間界を統治するか、その決断の方が先決であろう」

「そんなことを云い争っているからいつまでも停戦ができぬのだッ」

「これ以上血を流しあってどうする。もとは…もとは我らとて『同じ種族』であったというのに…!」

「待たれよ、それは口にしてはならぬことぞ!」

誰かが強い口調でたしなめる。そんな埒もない会談がもう半世紀も前から繰り返されていた。そんな様子を末席で

眺めながらカイムは欠伸をかみ殺していた。

(くだらぬ。斯様な口論をしているくらいなら戦場にでてみればよかろうものを)

こんな会談など何の意味もない。けれど統治者とはそういうものなのだ。

 一向に進まぬ停戦会議だったが、その時まさに転機が訪れた。

「会議中、失礼する!」

居丈高に現れたのは銀髪の武人、いや男装の麗人であるミレディだ。兄であるカイムにだけ、意味ありげに視線を

投げる。訝しむ権威者達を後目に、彼女は下級妖魔を引き出した。隠形を得意とする、いわば密偵だ。

その妖魔が伝えたのは、天界侵犯の罪人が捕らえられたという知らせだった。そしてそれは列席していたカイムに

とっては願うべくもない吉報だった。

 天界侵犯は重罪も重罪だ。存在できぬはずの光の中に妖魔が存在するということは魔界が天界を支配できる可能

性があるということになってしまう。あり得るはずのない事実が白日の下に晒されるというのは元老院にとっては

何より都合の悪いことなのだ。その妖魔が結界を侵して天界の外れで捕らえられたというのだ。

「誰なんじゃ! 魔界を貶めんとしたその逆賊は?」

元老院の魔族が口々に問いつめる。

「それが…ゼル…様なのです」密偵が消え入りそうな声で言う。

「な、なんと!」

「カイム様、い、一体どうするおつもりなんですか?」

誰もが耳を疑う重罪に腰を浮かした中で一人ひっそりと笑っていたのは、やはり魔界の第一王子だった。

魔界の権威者達は天界への負い目に身を震わせてカイムに詰め寄った。もう一息で優位に立てるはずだったもの

が、たったひとりの妖魔の謀反によって面目を潰されたのだ。

それもよりによって魔界の第三王子たる妖魔が原因でだ。

 カイムは少しも慌てなかった。膝を折り、深々と頭を垂れながら、我が身の不徳とうなだれた。そして一族から

罪人を出してしまった上はいかような処分をも受けると云い、逆に権威者達を慌てさせた。

 天界と魔界の諍いはずっと続いてきたのだ。その中でも魔の国の功績は多大なものがあった。たとえ罪人を出し

はしてもこれまでの功績を考慮すれば、他の国々に対しても迂闊に処断することは出来ようはずもなかったのだ。

結局カイムは一切の咎めを受けることもなく、己の希望通りにその罪人を、つまり彼にとっては腹の違う弟の身柄

を罪人として受け取ることとなった。



「くっくく。まさに願ってもない希望通りになってきたな。我が想い、あと少しで適う…」

 血の夕闇が迫る帰途。まさに悪魔の笑みで竜を駆るカイムとミレディの姿がそこには在った。

                                           第八話に続く

                                               2002.10.21(月) UP


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