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円台は透明な水が張ってあった。多分庭園の端にあった泉のそれだろう。清らかな真水は天界の泉を思い出さ
せる。ゼルは口の中で小さく呪文を唱えていた。唱えている間、水鏡はまるで抵抗するかのようにかすかに波打
ち、渦を巻いていたが、やがて波紋は呪文に同調し静かになった。そこに浮かび上がってくる風景…。
「…これ…が…」
息を詰めて魅入っていたティアが感動したように声を上げた。
そこは、初めて見る異世界だった。
整然とならされた上に造られたのだろうと思われる石畳、朝露にしっとりと濡れた街路樹に生まれたばかりの朝陽
がきらめいている。風変わりだが土で造られた暖かな建造物、そしてゆきかう人間達は笑いさざめき…。
天界とは違う、しかしそれでも美しい異世界の風景だった。
「そう…これがあなた達と我らが争っている世界ですよ」
静かに告げたゼルに天使は瞳を輝かせて魅入っていたが、ふと水鏡に映ったものに興味を示したらしい。声を弾ま
せて、映し出されたものを指した。
「これ、これはなんていうの?」
「ああこれは、馬車ですね」
「馬車…?」
見つめてくる漆黒の瞳に浮かんだ不思議そうな色。ああ、やっぱり綺麗だと思う。
ついさっきまであんなに警戒していたのに。彼が近づいただけで体をこわばらせ、冷たい光を湛えて睨みつけてい
たのに。今はもう子供のような無邪気な顔でゼルを見上げている。
この天使を穢すことのできる者などどこにもいないだろう。そう思うとこの宝石を見いだしたという自負と、そし
て尚も頑なな輝きに心が挫けてしまう…。
「ええ。そう、我々が狩りに使う飛竜や天馬みたいなものとでも云いましょうか。人間が移動に使う乗り物ですよ」
それでも何とか目の前の、無垢な天使にも理解できるような言葉を探して説明すると、ティアは怪訝そうな顔にな
った。
「移動? じゃあ翼は使わないの?」
その言葉にゼルは知らないのか、というような顔になって、しかしすぐにいたわるように眼を細めた。おそらく彼
女は何も知らされてはいないのだろう。
天界の者共のやり方ときたら時に妖魔よりも狡猾な一面を見せる。徹底した管理社会は魔界のそれとは違うのだ。
それでも不満や不審が生まれないのはひとえに彼らの性格の穏やかさゆえだろう。
「見てごらんなさい。人間には翼などというものはないんですよ」
「ない…って、ないって、つ、翼がないっての? 翼…翼がない…うそ…」
驚愕に何度も口ごもるティアの様子にゼルは思わずくすくすと笑った。
妖魔がその種族を前にした時、無条件に殺戮の本能が動くのと同じように、天使はひたすらその弱々しい人間を加
護したいと思うのだ。けれど有翼種族にとって翼は絶対である。
「本当ですよ。ほらあそこにある像にも翼はないでしょう?」
ゼルの指したのは人間達が動いているすぐ側にあった石膏の像だ。四肢を伸ばして天を仰いでいる人間とよく似た
それ。
ティアはゾッとしたように両腕を抱き締めておののいた。不安そうな顔だ。漆黒の瞳が怯える子供のようにまたた
いている。
「あれは…あれが人間の姿…? 見せしめの罰、じゃなくて?」
「くくくっ、そうです。人間には初めから翼がないんですよ」
侮蔑の口ぶりで笑いながら説明するゼルにティアはみるみる蒼白になった。
「そ…んな…そんなバカな…。じゃ、じゃあ、敵が襲ってきたらどうするの。あの馬車ってのに乗って逃げるの?
あれはそんなに速いの?」
もっともな云い分であった。
魔界ほどではないにしろ、天界にも制御できない無法地がある。いわゆる天使に恋い焦がれ、結界を侵した末に突
然変異した妖魔達だ。己が何者であったかも忘れ、闘争本能と破壊本能によってのみ行動するケダモノである。
「敵…ね。人間の世界の敵…って何だか判りますか?」
「………」
「人間ですよ。そりゃ確かに我々妖魔も人間にとっては敵かも知れないけど、どうせあいつらに我々の姿は見えや
しません。それより彼らの敵は彼ら自身なんですよ。彼らは時にひどく残酷で、我々とて真似のできないようなむ
ごい殺し方をする生き物なんですよ。人間の本性は同族ですら平気で手にかける残虐な連中なんです」
「うそ…よ。人間が…人間が同族殺しをするなんて…。嘘…ッ 」
大きく眼を見開いてティアはかぶりを振った。信じられるわけがなかった。
同族を殺すなど、己の仲間を殺すなど殺戮を旨とする妖魔だって滅多にしない。
それは例えて云えば天使が聖なる実を、妖魔が魔樹の実を口にするほどの、最大最悪の禁忌だ。そんなことをする
くらいなら天使も妖魔も己を殺す方を選ぶだろう。その先に待っているものが再生することもかなわない完全な無
であっても。
「お前の…お前の云うことなんか、信じられるか…ッ 」
ティアは怒りをぶつけるように水鏡を叩いた。
怒りで全身の血がグラグラと沸き立ったような気さえした。そんな愚にもつかない事を、それこそこれまでのティ
アの信念を歪めるような事を云い出したゼルにも、そしてそんな彼に少しでも気を許しかけた自分も許せなかった。
「そんなに…そんなに俺の言葉は信じられませんか…?」
ゼルは押し殺したような声音でつぶやいた。
どこか哀しげな響きが声音に滲んでいる。それは彼女に対する問いかけというよりはむしろ独白に近い響きを持っ
ていた。
「信じられるわけ、ないじゃない! お前の言葉なんか…ッ。下司な妖魔の云うことなんか…っ」
吐き捨てるような天使の言葉がゼルの心臓を貫いた。
ゼルが彼女に波動を与えたのは決してただ生かしておくためだけではなかった。
真実、ティアを愛しいと思ったのだ。むろん愛しいという感情がどんなものか判らなかったゼルにはそれが愛かど
うかすら判断しかねてはいたが、それでも彼女を欲した心に偽りはない。
だからこそ憎まれていると思いながらも便宜を図り、ジェガンをも側に置いたのだ。彼にしてみれば誰かの機嫌を
取るなんておよそ初めてのことだった。
それ故思うようにはゆかなかったけれど、それでもティアに喜んで欲しくて、こわばった顔の下に隠れているだろ
う笑顔を見たくて…。ただそれだけで…。
なのにこの天使にはどうしても通じないのだ。ゼルの心が。
「あなたはどこまでも…傲慢だ…ッ」
振り絞るようにゼルはティアの言葉を遮った。漆黒の瞳の奥底がカッと蒼い光を宿す。体内を流れる蒼い血と同
じ、いやそれよりも遥かに冷たい蒼だ。
「その下司な妖魔に組み伏せられて精を受けているのはあなたではないか。俺がいなければ無に還らざるを得ない
その身でこれ以上強情を張ってなんとする」
「だから構うなと云ってるじゃないっ!」
「そんなことはさせないと云った。あなたは何も判っていない。その身で何を望むというのだ。真実を知らず、た
だ与えられた運命だけを信じて…ッ」
「………」
ティアは顔をハッとこわばらせた。静かな男だと思っていた。凌辱こそされたものの、ゼルはいつでもティアにだ
けは妖魔としての己を見せなかったから。
だからこそティアは自由な心を持っていられたのだ。天使としてのぎりぎり最後の誇りだけはなくさずにいられた
のだ。たとえそれがゆえに葛藤があっても。
だが燃え上がったような瞳の前に手が、足が、竦む。
恐れなど自分にはないと思っていた。この身はどのような扱いを受けようとも恐れなど、妖魔に屈服するなどない
と思っていた。なのにゼルの言葉が胸を抉った。
ゼルは…哀しい瞳をしていた。ティアの言葉に傷ついた瞳だ。そして、それはすぐに冥く蒼い瞳となった。
その底光りする瞳が体の自由を奪う。魔力を使われたのは初めてだった。
つまりはコージもそれだけ追い詰められてしまったのだ。この決して挫けない天使に。
「…魔力を使う…なんて卑怯…な…っ」
ゼルは冷ややかに、おそらくティアが初めて見る妖魔の貌で、薄く笑った。
「卑怯…? 光栄ですね。卑怯で邪悪で…それが我ら妖魔の本性なんですよ。聖天使ともあろうあなたが知らない
訳はないでしょう? いや、知らないならそれでもいい。教えてあげますよ。あなたが知らない真実のことを。ど
うしても天界の規律から抜けられぬというならこの俺が抜けさせてやる。そうして人間がどんな生き物か、その身
でもって知ればいい」
不吉な予感にティアは身を翻そうとした。が、妖魔の能力で動勢を封じられているティアである。それでも逃れよ
うという意識がこわばった体を動かした途端、派手な音と共に水鏡もろとも床に倒れ込んでしまった。
「……俺に抱かれてもあなたは変わらない。美しくて、傲慢で、残酷だ。そんなに変わりたくないなら、変わらな
いならこの手で変わらせてあげますよ。この美しい翼はもういらない。闇に染まらない翼などここでは何の意味も
ない」
「…ッ」
ゼルの手が聖なる者の肩にかかった。と、思った途端、その手が彼女の背にいまだ燦然と輝く翼を掴み上げる。
「なに…を…ッ 」
振り返ったティアの眼に端正な、天使よりもずっと美しい魔王子の顔が映る。
その眼差しは、何か言葉にしがたい、ひどく思い詰めたような、そんな色をしていた。いや、そう思ったのもほん
の一瞬のことだ。
「ッ!」
その刹那、ティアの喉からは声にもならない絶叫がほとばしっていた。
血が逆流するような激痛に息が止まる。骨を断つような不気味な音が辺りに響き渡り、背筋を灼熱の痛み、などと
いう生易しいそれではない激痛に切り裂かれる。かすかに眉を寄せてティアは言葉を続ける。
「何をどう云ってもあなたは俺を受け入れてはくれないのでしょう? 叶うことならこの胸を切り裂いてこの心を
あなたに見せて上げたい。そうしたら判るのに…。息ができないほど苦しくて、あなただけを求めてしまう。血を
流すこの心はすべて…すべてあなたゆえなのに…」
「…は…ッ あ…あ…ッ」
血を吐くようなコージの告白。だがそれもティアの耳には届かなかった。翼を閉じるどころか、体内に仕舞うこと
さえできない。激痛と、考えもしなかった恐怖に、天使は全身を痙攣させ、悲鳴を上げ続ける。
そんな姿を痛ましそうに見下ろしながら、それでも彼は己の行為を、天使にとっても妖魔にとっても誇りの象徴と
もいえる翼を引き裂くという行為を、やめようとは思わなかった。
翼を失うということは彼ら翼を持つ一族にとって最大の脅威であり、ましてそれをもぎ取るなど、数世紀前なら
いざ知らず、今や拷問でも与えられない。
だがその禁忌もゼルの前では何の意味も持たなかった。己と交わっても変化しないなら天使でも妖魔でもなくして
しまえばいいのだ。手に入らない心なら粉々にしてしまえばよいのだ。そんな凶暴な考えに取り憑かれていた。
けれどその刹那、ゼルは確かに紛うことなき愉悦のただ中に居た。
無垢な翼を犯す快感…。悲鳴を上げてのたうつ背…。尽きることのない泉のように溢れてくる真紅の血…。
長い刻を生きてきたゼルが初めて愛しいと思った天使だった。その愛しい者をを追い詰めて、追い詰めて、その間
際で手にしたそれらに彼がどれほどの絶望を感じていたか、おそらくは誰にも推し量れるものではなかったろう。
それでも彼は、得られない心の代わりにティアの生命と憎悪を選んだのだった。
血も凍るような凄まじい悲鳴を聞き付けて隣室にいたジェガンが扉を開けた時には、もう天使の背にあの見事な
翼はなかった。
床に突っ伏したティアの、すべらかな背中…。そこを真っ赤な血がドクドクと、天使の驚異的な治癒能力をもって
も追いつかないとばかりに溢れ出している。
ティアはもはやぴくりとも動かない。あまりの激痛に意識を手放したのか、磨き抜かれた床にぐったりと沈んでい
る。
ゼルは、そんなティアを見下ろしていた。端正な顔からは何の表情も読み取れない。翼をもぎ取られた彼女よりも
白い、血の気の失せた顔でただ見下ろしているだけだ。
その無残にもぎ取られた翼の残骸が、茫然と立ちすくむゼルの足元に落ちていた。
ティアは夢を見ていた。恐ろしい夢だった。
彼女は逃げていた。追ってくる者はひとりなのか、それとも複数なのか判らない。判っているのは、逃げなければ
ならないということだけだ。
息が切れて苦しかった。空へ駆けようと思うのに重苦しい大気が羽ばたくのを遮る。いやこの状況ではむしろ翼は
邪魔なだけだ。いっそ体内へと念じてみてもそれすらできない。
そこはティアの知らない湿地のようなところだった。泥とぬめる藻に足を取られては危うく転びそうになる。しな
やかな足からは無数の血が流れていた。湿地に潜む吸血生物のせいだ。甘い血の匂いに誘われるように振り払って
も吸い付いてくるおぞましい生物達。どうして自分がこんな状況に追い込まれたのか彼女には判らなかった。いや
あるいは頭のどこかでは理解しているのかも知れない。けれど認めたくないのだ。
わけの判らない恐怖に悲鳴が喉元に込み上げてくる。
ティアは全裸だった。いつの間にか天空からは白いものが舞い初めている。切り裂かれるような寒さに心さえも凍
てついてしまいそうだ。
……一体自分が何をしたのいうのか。こんな罰を受けなくてはならないような罪を犯したというのか…
言葉にならない問いかけに応えるように雪はますます激しさを増している。
(逃げ…ないで。逃げないで…ティア。)
吹雪まじりに哀しい声が聞こえた。怯える意識の隅に流れ込んでくる弱々しいそれ。
(苦し…い。ああ…誰か…)
声の向こうに何かが、いや何者かの影が見えた気がした。ティアは思わず足を止めて振り返った。ひどく恐ろしい。
足を止めたらそのまま湿地の中に引きずり込まれそうな恐怖がイズミの心臓を鷲掴みにしている。けれどこの声は
彼女に救いを求めているのだ。置き去りにはできない。ティアは傷ついて血を流している魂を救うために遣わされ
た天使なのだ。
(愛してる。愛して…いるのに)
声はますます哀切な響きを覗かせている。けれど決して近づいてはこない。
まるで彼女を恐れるかのように吹雪の向こうから同じ言葉を繰り返すだけだ。
(この心は罪か。あなたを想う心は昇華できぬ……なのか…)
血を吐くような独白が天を呪う。言葉にしがたいまでの凄まじい怒りと深い哀しみ…。けれどティアにはどうして
やることもできなかった。形のないものへ祝福の口づけは出来ない。姿のないものへ癒しの言葉は唱えられない。
まして今のティアに何が出来ようか。自分ひとり支えることのできぬこの身で。
と、ふいに激痛が彼女を襲う。振り向くと妖魔の醜悪な顔があった。
耳まで裂けた口、濁りを帯びた邪悪な双眸、抉られた鼻からは腐敗臭ともつかない汚臭が漂っている。
ティアは我知らず悲鳴を上げていた。一体いつの間に取り囲まれていたのか、その数は十数にも及んでいる。
妖魔達は奇怪な哄笑を上げて彼女の背に、正確には翼に喰らいついていた。
シャクシャクと翼を咀嚼するおぞましい音が耳に響く。
苦痛と、それ以上の恐怖にティアは身をよじり、振り払おうとしたが、途端に湿地から伸びだした蔦に四肢を捉え
られてしまった。
みるみる成長した蔦に聖天使は全身を拘束され、空中で縫い止められる。美しくも痛々しい天使のオブジェだ。
妖魔達は我先に四肢に喰らいついてくる。肉を食み、肌を裂き、血を啜る。
(いや…やめて…やめて……っ)
悲鳴が絶叫に変わっても妖魔達はティアを切り裂くのをやめようとはしない。飢えた眼差しで彼女を喰らい続ける。
(ティア……。あなたを愛して…る…。)
哀切な声はいつまでも同じ言葉を繰り返していた。
ゼルは沈痛な面持ちでジェガンの報告に耳を傾けていた。長い髪に隠れた顔に血の気はない。
「…そ…れで…?」
予想できない結果ではなかった。翼を失った天使がどうなるか…。
それでもあの時は、ティアの清廉な翼が、決して染まらない翼が目障りだった。
ジェガンは頭を垂れたまま、静かに言葉を続けた。
「もはや一刻の猶予も残されておりません。あの天使をどうされるかご決断ください」
「そ…れはティアを諦めろ、ということなのか?」
「それが最良にございましょう。」
冷ややかに切り返された言葉にゼルはギリギリと奥歯を噛み締めた。
「お気が召さないのでしたら私が手を下しましょう。なに…それほど苦しませたりはしませぬ。その方があの天使
にしても宜しゅうございましょう」
「………い…やだ…」
「は…?」
「嫌だ。あの人を…無に還すなど、俺は嫌だ……!」
「王子…。」
「嫌だ、嫌だ、俺の手の届かないところへなど逝かせない!」
まるで子供のように癇癪を起こしたゼルにジェガンは眉をひそめた。呆れたわけではない。これまで一度として何
かを欲したことのない王子だからだ。できることなら何とかしてやりたいと思う心に嘘はない。
だが口をついたのはまったく反対の言葉だった。
「しかしあのままでは苦しみを長引かせるだけですぞ。手立てはもう…」
己が心を殺しても諌めるのが側近の役目なら使命を果たさねばならないのだ。重々しく云い放つジェガンの言葉を
黙って聞いていたゼルだったが、ふいに顔を上げた。
「……魔界樹の実…あの実なら…」
「王子っ! まさか…」
思い当たったことにジェガンは眼を剥いた。
「天界の外れにあるという、かの樹の実なら…あの人を、ティアを救えるのではないか?」
魔樹の実なら傷ついた天使を救えるのだ。もともと天使には素晴らしい治癒能力が備わっている上に、その能力を
更に高める果実が魔界樹の実なのだ。いや或いは魔界に棲息する聖なる実でも効果はあるかもしれない。
けれどティアはあえて天界へゆこうと思った。瀕死の天使を救えるなら少しでも確実な方がいいのだ。
「なりませぬっ。王子、それだけは…それだけはなりませぬっ! 天界へ足を踏み入れるなどと…魔界に対する背
信行為ですぞ! 自ら禁を破られるおつもりですか!?」
「禁…? そんなものはどうでもいい。俺が欲しいのはティアだけだ。あの人が消えるなど、俺は…絶対に認めぬ
っ!」
歴戦の豪傑が、ゆっくりと肩を落とした。
「…王子…、ならば、ならば私が参りましょう。王子はあの方のお側に…」
「いや、俺がゆく。そなたにはあの人を頼む。……頼めるのはそなたしかおらぬ…」かつては心などそれほど欲し
いとは思わなかった。ゼルの周囲に群がる者共といえば、寵愛か権力か、はたまたその両方を目当てに追従してく
る者ばかりだった。
真実など何程の価値もない、なまじ眼にも見えず、触れることも出来ぬ心など、ガラクタよりも始末の悪い感情で
しかなかった。
けれどティアに逢って初めて彼は心が欲しいと思った。
どんなに汚してみても挫けず、決して開かないかたくなな天使の心が欲しいと思った。ただ一度でいいから心から
の笑顔を見たいと思った。
そのためなら自らの命すら惜しくはなかった。魂を差し出すくらいでティアを救えるなら躊躇なく差し出したろう。
孤独な王子は、傷つけることでしか心を伝える術を知らなかったのだ。
寂しそうに微笑んだゼルを止めるすべを、ジェガンはもう持ってはいなかった。
ゼルが命懸けで採ってきた果実の威力は確かに効をなした。うつらうつらと浅い眠りを繰り返しながら、ティア
は徐々に体力を回復しつつある。ゼルが裂いた翼の跡は薄いかさぶたとなった。
「……あいつは……」
「は…?」
ほとんど片時も離れずティアの看病をしていたジェガンに尋くともなしに尋ねると、初老の側近は穏やかな微笑み
を浮かべて寝台の側に膝を折った。
「王子はここへは参りませぬ。心配せずに養生なさい」
「…………」
尋きたいことはそんなことではなかった。けれどそれ以上問う気にはなれなかった。愚にもつかない自尊心がティ
アの口を閉ざした。
「今日はご気分が宜しいようですな。お庭の方でも散歩なさいますか?」
「……ええ、手を貸してくれる…?」
素直に応じてティアはジェガンに手を差し出した。もともとほっそりしていた腕がここしばらくの生活でますます
華奢になってしまったようだ。
翼のない身体はうまく均衡を取れず、足元がふらつく。
ジェガンに手を引かれて屋敷を出ると、荒れ果てていた庭園はすっかり様変わりしていた。一面の花…花…花。
「…こ…れは…」
「お気に召しましたか? 少しでもティアどののお慰めになればと庭師に手入れさせたのですが。どうにも私は無
骨者で花などよく判らないもので…」
「あ…あなたが…?」
「……は。何かお気に障るものでもございましたか?」
「い、いえ…見事な花ばかりね。…ありがとう」
かすかに微笑んだティアにジェガンはそっと視線をはずした。
そのまま少し散歩したいという彼女を残してジェガンは下がることにした。
やりにくい、と彼は思った。
他に手がないでもなかった。ジェガンはゼルの側近であり、彼の身辺を警護するのが仕事だ。部下も、もちろん気
丈な侍女だっている。自ら天使の世話などせずとも他に任せる者だっているのだ。
(王子がそう望まれたからだ…)
振り切るようにかぶりを振ってジェガンはそう独りごちた。そうでなければ誰が好んで天使の身の回りなど気にす
るものか…。
一方、残されたティアは美しい庭園の中で佇んでいた。咲き乱れる花々の甘い匂いが心地よい。こんなに心安ら
いだのは魔界に来て初めてかも知れない。
あれほど苦しかった魔界の重苦しい大気も慣れてしまったのか、今となればどうということもなく感じる。或いは
翼を失ったがゆえに何かが解き放たれたのかも知れない。おぼつかない足取りでゆっくりと歩きながらティアは考
えていた。
天使は何者をも救う存在だと教えられてきた。けれどそこに妖魔は含まれてはいないはずだ。敵なのだから。
…だが本当にそうなのだろうか。
ならばどうして天使に焦がれる妖魔が、妖魔に心を奪われる天使がいるのだろう。
何の約束もなく、まるで熱病に浮かされるように堕ちてゆく同胞達。以前なら、苦々しい思いで見送っていたのに…。
公明正大であるはずの同胞達が陰で自分を何と見ていたか、ティアは知っている。
堕ちてゆく天使達を冷ややかに見下ろしながら、その傍らでどうしてそれが異端としか思えないティアではないの
かと訝しんでいた蒼穹の瞳。美しく、傲慢で、選ばれた種族だと驕っていたかつての同胞達。
その蒼い瞳に無言の責めをティアはずっと感じていた。
そう思って、彼女はきつく唇を噛んだ。そうではない。そんなことを思ってはいない。思ってはいけない。自分は
天使なのだから。
あの王子のせいだ。自分までどこかおかしくなってしまったのだ。
搦め捕るように狡く、そのくせ大胆で強引な口づけ…。
灼熱の、まさに身の裡から焼き焦がすような熱い、波動…。
それが屈辱だけでなくなったのはいつからだろう。
誰もそんな風に触れたりはしなかった。明らかに異端のティアを遠巻きに眺めていた。一切のしがらみを飛び越え
て、ただ真っすぐに想いを突き付けてきた魔界の王子…。彼女にはそれが愛などとは到底思えなかった。思いたく
もなかった。
愛とはもっと暖かで、優しいものだと、そう信じていた。ならばあれは一体なんだというのだろう。あの激しい、
灼けつくような行為は一体何を意味しているというのだろう。
(判らない…あいつは一体何を望んでいるの?)
ゾクリ、と身の裡で何かが頭を擡げる。何度肌を重ねても判らない。
何もかも判らないことだらけだ。ゼルの行為の意味も、天界にいる時とまったく変化のない自分の身体も。
それとも。
何か、大切な何かを、忘れているというのか。
形すら見つけられない罪悪感のようなものが、彼女の心に薄く染み渡る。一度白布についた染みは、例え微少でも
純白ではあり得ない。
ティアの意識は、また深い闇の中を漂い始めた。
第七話に続く
2002.10.21(月) UP
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