1
ティアは暗い庭園の中を歩いていた。天空には星ひとつ見えない。すべてが雲に覆われている。つい先刻まで
冴え冴えとした月が照っていたから、その美しさに誘われるように散歩していたのだ。ここで見る月も天界のそ
れと変わりなく見える。
かつては美しかったのだろうが、手を入れる者がいないのか、随分と荒れ果てた庭園である。それでも足に触れ
る雑草がひんやりと心地よい。
『は…ん、これが噂の聖天使なの』
いきなり耳に飛び込んできた声に振り返ると、数名の近衛兵らしい妖魔を従えて美しい女が立っていた。要人の
警護をしているくらいだから腕は立つのだろうが、全身鱗のような皮膚で覆われた近衛兵達はひどく醜怪に見え
た。
そんな妖魔共の中で彼女は恐ろしく際立った容姿をしていた。濡れ羽色の翼は小ぶりだが、細身の体躯に似つか
わしくバランスは取れている。その中でも更に際立つ、短く刈り上げた銀糸の髪に深い碧の瞳…。そして血の気
のない青白い頬に血糊のような唇…。
妖しいまでの美貌の妖魔だ。その額を華奢な造りのセルクルが彩っている。
(こいつが…魔界の王女ミレディ…?)
彼女が捕らわれた時にもおそらくは身近にいたはずだが、第一王子の印象が余りにも強烈だったので格別意識し
ていなかったのだ。それにしてもなんという美貌なのだろうか。禍々しいほどの美貌とはこういうことを云うの
だろう。
と、ふいにその美貌が歪み、嘲るような表情が浮かんだ。
「ふ…ん、この程度の天使に骨抜きにされるとはゼルも堕ちたもんね。聖天使などと云っちゃいるがどれほどの
ものか…。」
「………」
おそらくは噂の天使の様子を見物にきたのだろう。ティアはそんなミレディには眼もくれず踵を返した。
「待て。私が誰か判ってんでしょう?」
「…判ってたら何だと云うの?」
振り返りもせずにティアは答えた。その声に誘われるように木々がカサリと乾いた音を鳴らす。風が出てきたよ
うだ。
「だったらそれなりの礼のしようがあろでしょう。仮にも王女が捕虜如きの顔を見にきてやったのよ。それとも
天界には礼の作法もないっての?」
「…あいにくだけど私、妖魔なんかに取る礼なんか知らないわ。」
「…っ」
冷ややかなティアの言葉にミレディはぎりっと歯噛みしたが、すぐに冷笑を浮かべ言葉を返した。
「はん、なかなか云うじゃないの。お綺麗な天使さまは云うことまで突っ張ってるわ。よほどゼルが甘やかして
いるんだね。それともその翼は飾り物なのかい? 闇色の瞳の天使なんて、初めて見たわ。」
「………」
「くくくっ、黙り込むところを見ると自覚はあるようねぇ。して見るとあの噂…夜毎ゼルに抱かれているという
のは満更でもないんでしょう? 妖魔の波動を受けても染まらぬ翼と闇色の瞳。あんた…ホントに天界の者な
の?」
「………そういうあんたはどうなの? 王族にしちゃ随分見事な銀髪だけど?」
「な…っ 」
毒を含ませた言葉を云い捨てて、ティアはそのまま戻ってゆこうとする。ミレディはすかさず同行の妖魔に目く
ばせて携えていた剣を取った。
「…お待ち」
低い声でミレディが唸った。妖しいまでの美貌を持ちながらその声は、ゾッとするほど嗄れている。その言葉が
合図だったように妖魔達が天使のゆく手をざざっと阻んだ。
ティアは、ゆっくりと振り返った。漆黒の瞳が意味ありげに瞬く。ティアはミレディの反応を待っていた。
「お前達、そいつを逃がすんじゃないよ」
「はっ!」
間髪置かずに妖魔が天使の腕を捕らえる。
「なんで私が逃げるというの? 自分ひとりじゃなにもできない腰抜けの妖魔を恐れるとでも思ってんの? 生
憎だけど、それほどヤワにゃできてないわ。さ、殺るんなら殺ってみなさいよ」
喉元に突き付けられた剣を見据えたままティアは嘲笑した。ミレディはカッと瞳を見開いて剣を振り上げた。切
っ先が嬲るように頬をかすめる。
と赤い筋がそこに刻まれ、つ、と滴が伝った。
「なるほど。赤い、血か。あやつの、妖魔の精を受けてもまだ妖魔にはなってないってわけね。だったらただ殺
すだけじゃつまらないわねぇ。魔界の者でも眼を背けるくらい醜悪な妖魔に変化させてやる。浅ましい姿になっ
たお前を奴はどう扱うか…その方がよほど面白いというものよ」
美しい顔で、ミレディは艶然と微笑み、続けた。
「…天使の血肉は大層美味だそうだな。お前達、私が赦す。そいつを血肉をすすり、嬲れ。滅せぬ程度にね!」
ざわっ…と妖魔達でさえもたじろいだのが判った。
天使を陵辱する…それは妖魔にとっても禁忌なのだ。むろん裏では天使と通じる妖魔もいれば、醜怪な姿になっ
てさえ妖魔に焦がれる天使もいないではない。だからこそ王子が天使を囲っていても戯れ言ということで片がつ
くのだ。
だが表向きは、幾世紀も昔から禁じられてきたタブーであり、敢えて天使を犯そうという妖魔はいない。それは、
天使と通じることが魔界を揺るがす大事に繋がるからかも知れないし、或いは数世紀に及ぶ戦に影響するからか
も知れない。
そういう意味では天使という存在はいまだ聖域なのだ。が、すぐに王子に忠実な側近達はそのままティアをその
場に押し倒した。
命じられるまでもなく、確かにこの天使はどこか他の天使とは違う。妖魔のひとりが舌なめずりをして薄く切れ
上がった唇を淫猥に歪めた。そこに覗く鋭い犬歯…。
「な…ッ。よせっ…く、離せ…ッ」
こんな展開になろうとは挑発したティア自身でさえ予想外のことだった。
慌てて身をよじり、伸びてくる腕にあらがうが、ただでさえも体力の落ちた身では思うような反撃ができるはず
もない。荒々しくのしかかってくる妖魔達の生臭い吐息を首筋に感じ、全身が総毛だった。
ザラついた手のひらで下肢をまさぐられ、天使は嫌悪と屈辱に顔を歪ませる。身を覆っていた薄絹は容赦なく裂
かれてしまった。赤銅の肌が露になる。
「離せ…ッ。い…やっ…!」
幾つもの腕が彼女にまとわりついてくる。
欲望を果たそうとする腕が、獣を思わせる剛毛に覆われた腕が、おぞましかった。
ゼルに抱かれ、その波動を何度も身に受けているというのに、妖魔共に嬲られると考えただけで、全身の血液が
凍りつくようなおぞましさを覚えた。
ミレディは地に組み伏せられ、髪を振り乱してあらがう天使を面白そうに見下ろしている。
「そこで何をしておるっ……!」
いきなり、地を震わすような怒声が辺りいっぱいに響いた。ごうっ、と廊下に疾風が吹く。それはティアを守る
ように包み、堪らず妖魔は石壁に叩き付けられた。
「これはいったいどうした有り様だ。ミレディ様、これはどういうことです?」
姿を現したのはゼルの側近、ジェガンであった。疾風は彼の剛剣と黒墨の翼が起こした異能である。彼は組み
伏せられたティアの様子にひどく驚愕したらしく、そしてまたその側に立っていたミレディの姿を認めると食っ
てかかった。
「ジェガンか。邪魔するな、その方には関わりなきこと」
あからさまに不快そうな表情を浮かべて銀髪の魔女は一蹴したが、ジェガンも黙ってはいなかった。
「何を仰せられます。この方は仮にも我が王子の客分ですぞ。それを主のいない時になんというご無体な…!」
「なによ、ただの余興じゃない。老体に口を挟まれる筋合いじゃないわ」
「いいえ、そうは参りませぬ。この方の身柄はカイム様より我が王子がお与かりされたもの。いかなミレディ様
とてこのような無法は赦されませぬぞ。お前達、さっさとその手を離さぬかっ!」
厳しく一喝され、妖魔達は戸惑いながらも身を起こした。位だけをいえば、ジェガンの方が彼らよりも格上なの
だ。妖魔達がティアの肢体から離れたのを機にジェガンは自分のマントをバサリとティアの上に掛け、冷ややか
にミレディを睨みつけた。
「今宵のところは私の胸ひとつに納めておきますゆえ、貴女様もお戻りなされい。戯れ言はほどほどにされたが
御身のためと思いまするぞ」
威嚇めいた叱責にミレディは怒りに身を震わせていたが、形勢不利と感じ取ったのか、忌ま忌ましげに舌打ちを
して踵を返した。細くしなやかな黒翼が弧を描く。
むろん、側近達を従えて戻りながらの捨て台詞は忘れなかった。
「はっ、ゼルもゼルよね。何が客分なんだか、噂は誠だったというわけ。まぁ精々その変種を可愛がるがいいわ。
しょせん下賎の出ね、お似合いの相手よ。」
闇の中に魔女の嘲笑だけが響いていた。
2
ぼろぼろに裂かれた薄絹を乱暴に脱がせ、離宮の浴室に天使を追いやって、ジェガンは憮然とした表情で剣を
降ろした。針のように引き締まった顔をさらに険しくする。
なぜミレディのしようとしていたことを止めてしまったのか…。
あの天使が妖魔達に穢されようが彼の知ったことではなかった。いやむしろ辱めを受けてそのまま殺されでもし
たなら、それこそ願ってもないことだったはずだ。あの天使さえいなければゼルとて以前の王子に戻るだろう。
なのに、どうして止めてしまったのか…。
ジェガンはテーブルの上に置いた剣をチラリと見やった。
(本当なら私こそが…)
この剣を使うはずだった。王子のゆく末を考えれば一時、不興を買うなど何でもないことだ。いや、もう二度と
王子の前に出仕できなくとも後悔などしなかろう。
ジェガンにとって第三王子はそれだけ大切な王子なのだ。
誰しも己よりも大切に想う相手がいるという。そんな言葉を知ったのは随分若いころのことだ。だが若過ぎてそ
れがどれほど大事なことか、失ってみてどれほど悔やむものか判らなかった。
けれど今なら、今のジェガンなら判るのだ。
マヤ姫。
護れなかった美しい妖魔…。幼なじみだった女性は誰に看取られることもなく独りきりで逝ってしまった。
幼い頃より見知った仲ではあったが、主君の愛妾と思えばこそ親しく言葉を交わす事も憚られた。奪って逃げれ
ばよかったのか、そうすればあんな哀しい想いを味わわせずにすんだのか…。
もうあんな思いは二度としなくないのだ。
誰を敵にしても護りたい王子。それが第三王子のゼルだ。その王子を護るためにはどうすればいいか、それを一
番よく知っているのもジェガンである。
(けれど、あの天使がいなくなったら王子は…どれほどお心を痛めるか…。)
そう思うと思い切れなくなる。
幼い頃から冷酷な王子だと云われていた。気が立っていようものなら情けをかけた女の心臓すらあっさりと、
楽しみながら抉りだす。一瞬のためらいさえもなく、だ。その反面、誰にも心を許さずこの離宮に籠もっている
だけの王子だった。誰にも顧みられず、たった独りで…。
文字を教え、兵法を習わせ、剣の相手も自ら務めた。けれど側近という立場が王子との間に壁を作っていたのも
承知している。
そんな王子の心を初めて動かした相手があの天使なのだ。一刀のもとに消し去るには忍びなかった。
3
妖魔に触れられた箇所は青黒い痣となっていた。それがおぞましくティアはムキになって体を洗っていた。洗
いながらどうしてジェガンは助けてくれたのだろうと思う。最初から彼はティアを憎悪していたのに、なぜミレ
ディの狼藉をやめさせたのだろう。けれど感謝の念は、もちろん沸かなかった。
(せっかくの好機だったのに…。)
もう終わりにしたかった。剣で消えるならそれもいい。凌辱されて我が身と知れぬほど浅ましい姿に変貌し、何
も判らなくなってしまえるならそれもいいかも知れない。天使の意識を持ったまま翻弄されるのは、肉体に与え
られる苦痛よりも尚つらかった。もう天界に戻れぬなら、かの大天使に逢えぬなら、このまま潔く朽ちてゆきた
いと彼女は思った。せめてそれくらいの希望くらい与えられてもいいように思えた。
妖魔と契ってしまった罪深いこの身であっても…。
部屋に戻るとゼルが待っていた。ジェガンはいない。多分隣室にでも控えているのだろう。そう思うとます
ます腹が立った。
「また、ご機嫌斜めのようですね。もういいかげんに話を聞いても」
ミレディとの一件は聞かされていないのだろうか。いつもと変わらぬゼルに、ティアは闇色の鋭い眼差しを投げ
付ける。
「でてって。あなたの顔なんて見たくもない…」
「そんなに嫌わないでくれませんか。今日はね、あなたにお土産があるんですよ」
きつい天使の言葉にゼルは少しだけ哀しそうな顔をして、だがすぐにおもねるような口ぶりでそう云った。
「……?」
「ほら、ちょっとこっちへおいでなさい」
ゼルが指し示したのは真新しいテーブルだった。いやテーブルというよりは円台という方が近い。周囲をきらび
やかな宝石で縁取りをしてある、王子という身分をもってもかなり高価な、いわくありげな円台である。
「…なによ、それ?」
「水鏡ですよ」
「水鏡…って、まさか…?」
あっさりと返された言葉にティアははっとしたようにゼルの顔を見上げた。
「だって退屈なのでしょう?」
「…けど、それは…」
云いかけて、彼女は口をつぐんだ。ゼルがいかな手段で水鏡を手に入れようが、それをどう使おうが、そんなこ
とは彼女の関知するところではない。
確かに興味はある。天使であれ妖魔であれ、よほどの身分の者でなければ垣間見ることも叶わない秘宝中の秘宝
…。国に唯一あるそれは正式な王位継承者のみが受け継ぐという。それが水鏡といわれる魔鏡だ。
少なくともティアはまだそれを覗いたことはなかった。それを覗けるのは戦場など知らない清らかな天使だけだ
ったから。
「…見…たい、な」
かすかに表情を和らげた笑み、ともいえないようなそれを浮かべた天使にゼルは涼やかな微笑でもって答えた。
この顔が見たかった。いつもの感情を殺した冷たいそれではなく、ほんの少しでもいいから気を許した笑みを
見たかったのだ。
「喜んでくれると思いましたよ」
この微笑みが見たくて、ただそれだけで父王に膝を折ったのだ。
よほど気が向かなければ公式の場にもろくに姿を見せない王子の変貌に父はさぞや驚いたことだろう。ましてそ
の望む物が物だ。
王位が欲しいのか、という問いかけに王子はかぶりを振った。王位第一継承者は兄のカイムだ。もとより反逆の
意志はない。王子という立場ですら疎ましいばかりなのに王位など望んではいない。
欲のない返答に父王はひどく残念がっていたが、それでも次の戦には一番の手柄を、と約束した王子にそれを渡
したのだ。
つかの間の、穏やかな空気。一瞬が永遠であれと願う愛。あまりにかけ離れた二人の距離が少しだけ近付いた
夜であった…。
第六話に続く
2002.10.6(日) UP
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