忘 却 の 罪 科

 - 翼 有 り し 者 た ち -  第 四 話

原案:崎 続 様 / 構成&文:J I N

 1

「ああなるって判ってたの。あんたは」

細身の肉体をしどけなくベッドに投げ出したまま、女が尋ねた。

うつ伏せた白い額に銀糸の髪が零れかかり、その額と同じ仄白い陶磁のような背には、黒々とした見事な翼が折

られている。勝ち気で、邪悪の色もあらわな、ともすれば思慮浅げな瞳は、かの謀略に長けたと評される第一王

子の懐刀と呼ばれるにはいささか物足りない感がないでもなかったが、美貌という点に於いては抜きん出て美し

い。

案の定、窓辺の長椅子でくつろいでいた第一王子は、完璧なまでに秀麗な眉をかすかにひそめてたしなめた。

「あんたと云うのはよしなさいと云ったろう? そういう物言いは下賎な者の云い方だ。私は好きではないね」

「………」

冷ややかに返された言葉に女は黙り込み、だが小さな声で謝った。彼女は満足げな微笑を浮かべるとシルクのガ

ウンのまま、もう一度青年の寝ている寝台へと歩み寄った。燭台のかすかな明かりに怜悧な微笑が浮かぶ。

「そう、それでいい。…あれのことならお前が気にすることはない」

絶対的な言葉。計算と謀略に長けた長兄ならではの自信だ。

「だけどっ!」

思わず反論しかけた女の絹糸のような髪に手を差し入れる。

「案ずることはない。あれは、もうあの天使の虜だ。お前も噂くらいなら耳にしたろう? ただでさえも下賎な

血のゼルを義母上が認められると思うかね?」

上品な指先が髪を梳く。女はそっと眼を閉じて、降りてくる唇を待った。赤い舌がちろちろと彼を誘う。

「お前は、いい子だ。そうしていれば愛してあげよう」

低く囁いて、彼はゆっくりと唇を重ねた。沸き立つような愉悦が込み上げてくる。

(…それにしても、ゼルともあろうものが天使に溺れるとはな。くくっ、次の手はどうしたものやら…)

南の離宮の天使はもうすでに城中の噂になっていた。鷹揚な父王はのんきに構えているがプライドの高い后はさ

ぞや眉をひそめていることだろう。そう考えるとますます心が弾む。

「…んっ…兄様…カイ…ム、もっと…あなたの…波動を」

己の腕の中で喘ぐミレディに彼は艶然と微笑む。頭の片隅でちらりとゼルもこの弟のようであったならと思うが、

すぐに思い直した。どんなにしても合わない者は合わないのだ。邪魔な芽は早く摘んでしまうに限る。たとえこの

国の誰もが王位第一継承者はカイムだと疑わないにしても、自分に従わない者の存在など許してはならない。絶対

に許してはならないのだ。たとえ弟でも。たとえ妹でも。

「…あ…あ…」

甘い声が彼の耳をくすぐる。義妹はもう悦楽の海に溺れているようだ。しきりに腕をさまよわせて兄のエネルギー

を欲しがっている。

「仕方のない。先刻したばかりだと云うにまだ欲しいのかね?」

苦笑まじりに囁くと彼女は肩をはだけた。咬み傷、それもまだ生々しい。夢中ですがりついてくる。

カイムを信じ切っている妹だ。このまま心の臓を抉りだしてやっても恐らくは気づかないまま塵になるだろう。そ

う思うと身の裡に嗜虐の焔が燃え立つ。

感情のおもむくまま、己が心のままに行動するミレディ。カイムが丹精込めて造り上げた芸術品であった。

柔順で残虐で淫らな、たとえそれが血肉を分けた兄であっても、己の快楽の前には禁忌を持たない美しい人形…。

白磁の肌がほんのりと上気する。眼で楽しんでは、柔らかな喉に、なめらかな白い肩に、己の所有する証しを再び

血飛沫とともに刻んでゆく。

私に逆らわなければ今暫くは生かしてやろう…。

「カイ…ム…っ、あ…あぁっ…」

ミレディは穿たれる兄の牙に喘ぎながら落ちていった。勿論、魔界とて掟はある。兄妹の姦淫はもとより、魔族同

士の波動の享受は極刑に値する。しかしカイムにとってにはそれすら手段のひとつに過ぎないのだ。

彼は満足そうに唇の端を持ち上げた。そう、こうでなくてはならないのだ。たとえミレディが第二王位継承者だろ

うとそんなことは問題ではない。この国のすべてはカイムただひとりのものなのだ。いずれは父王も朽ちる。でな

ければその首級に取って代わり、王を傀儡として操るのもいいかもしれない。いずれにせよカイムの自由にならな

いものがあってはならないのだ。

 理知的な額に艶やかな黒髪がはらりと散る。ある意味ではゼルと寸分違わない容姿である。だがコージのように

うねうねと流れるそれではない。ようやく翼にかかる程の長さに切り揃えた髪…。むろん、戦いに邪魔になるから

だ。

無用なものは切り捨てる。それがカイムのやり方だ。万人が認める王の器量を備えているという自覚もある。

なのに、どうして気にかかるのだろうか。あの妾腹の義弟が…。


 

 ティアは誰もいなくなった屋敷でひとり湯浴みをしていた。

広々とした白亜の湯殿には尽きることなく透明な湯が沸き出している。まるで神殿のようだと思って、キリッと胸

が痛む。神殿など行ったこともないのに…。

(…ふ、まさかここまで堕ちるなんて…)

ゆったりと四肢を伸ばし、ティアは眼を閉じた。ここには誰もいない。広がっているのは白い闇だけだ。何も見え

ない白い闇…。

この離宮を訪れるのはゼルと彼の側近であるジェガンという男だけだ。そのジェガンも彼女の存在を快くは思って

いないらしい。

何の役にも立たない天使など疎まれて道理だが、その彼がいつだったか、-多分コージがここを訪れなかった時だ-

云ったことがある。この屋敷は以前はゼルの母親が住んでいたと。

王子の母と云えば后ではないか。大勢の貴族や側近、それに侍女達にかしづかれる、女王の中の女王。そんな身分

の者がこんなところに…?

不審げなティアの様子にジェガンはゼルの出自を口にした。

誰にも認められなかった愛妾…マヤ姫。その悲恋とゼルの幼少時代の思い出話…。語る相手もいなかったからだろ

う。あるいはゼルのティアに対する執心ぶりについ口にしてしまっただけなのか…いずれにしろいかつい、口数の

少ない側近は訥々と、ゼルの半生を語った。もちろんその後で彼は、だからといって自分の主人たる王子に下手な

同情なぞするなと激しく律して出ていったのだが。

広間に掛かっていた肖像画がその人なのだろう。面差しはゼルとよく似ていた。

はっとするほどに美しい妖魔だった。乳白色の肌に深紅の唇。澄んだ蒼い瞳がどこか哀切な感じがした。

(関係ないわ…あいつがどんなヤツだろうが私には関係ない。あいつは私を…)

王子に強いられた屈辱が脳裏をよぎる。彼にどんな過去があれ、ティアがここに囚われているのはゼルの意向ゆえ

だ。同情などできよう相手ではない。

そう思うのに、胸が、心が、締め付けられる。実の兄達にさえ疎まれ、受け入れられなかった独りぼっちの小さな

王子…。彼は何を考え、何を想ったのだろう。

 ティアは知らず知らずに身の裡に沸いてくる感情を持て余し、振り切るように湯の中に身を沈めた。

 湯浴みを終えるとティアは居間へと戻った。湯浴みの最中に用意されていたらしく、大理石の低いテーブルの上

には相変わらず食事が載っていたが、それには見向きもせずに彼女は暖炉の前に座り込んだ。

腹立たしい現実がそこに在る。

もう魔界の物を食べないからといって天界へ戻れるという保証はどこにもない。いや逃げる力があったとしても、

妖魔と契ってしまった天使など天界では受け入れないだろう。奇異な眼差しで見られていた以前とは違う。

魔界の毒素は確実にティアの身を蝕んでいる。

いつ翼が闇に染まるのか、いつこの身がおぞましい姿に変化するのか……考えただけでも恐怖に身がすくむ。

(…いいザマね…)

天使は苦笑まじりにバサリと翼を震わせた。

先陣を切って戦場に飛び出したのはいつのことだったろう。

<…他の者と容姿が違うことなど気に病むことはないのだよ。主は気まぐれであなたを造られたのではないと、私

は思うよ。きっと私達には及びもつかないような宿命が、あなたには用意されているのだろうね。あなたはそれだ

け主に愛されているのだから…。>

神々しい翼を背にした大天使はそう云って柔らかな微笑を浮かべていた。同じ造られるのなら彼のように造られた

かった。穏やかな性質、優しい微笑、彼こそが聖天使の名にふさわしい天使だった。彼のようになりたかった。

それに引き換えこの身はどうだ。この白い翼がなければ誰も妖魔と疑わないに違いない。暗褐色の髪に闇の瞳。翼

が染まろうが染まるまいが、どれほどの違いがあるというのだろう。

(堕天使…か。まさに私のための言葉だわ…)

思わず自嘲するような笑みが唇に浮かんだ。天界でもっとも忌み嫌われた言葉が今のティアの姿だった。


 

「王子、いったいいつまであの天使を飼って置くおつもりですか…っ」

いよいよ辛抱できなくなったのか、側近であるジェガンはついにゼルに詰め寄った。言葉の裏には天使に対するあ

からさまな嫌悪が潜んでいる。

「ジェガン…」

ゼルはぎろりと彼を睨みつけた。だがジェガンはその眼光にひるみもせず言葉を続けた。いつかは云わねばと思い

つつ、逡巡していた末の苦言である。

「もう…もう、限界です。もう充分ではありませぬか。何ゆえ聖天使などをあの離宮に住まわせるのですか。私に

は王子のお考えが理解できかねます。先頃は侍女達にも不審をよび、口にするも馬鹿らしい噂が宮廷でも囁かれて

いるのですぞ」

ジェガンの言葉にゼルはニヤリと笑い、言葉を継いだ。

「……もとより変わり者とは云われていたが、魔界の第三王子はとうとう気が触れた。よりにもよって聖天使に懸

想して南の離宮に囲っている…か?」

揶揄するようなゼルにジェガンは声を張り上げた。

「王子っ!」

「誰が何をほざこうが構わぬ。何ならそのほうが云うてやればよいではないか。俺はあの人が気になる。この地に

頼る者とていないというにあの気高さはどうだ。あれほど誇り高い天使を…いや我ら妖魔と比べてもあれほどの者

などおるまい。ジェガン、そなたにだから云うが俺は…」

云いかけた言葉をジェガンは鋭く遮った。

「王子っ、それだけは、それだけは口にしてはなりませぬ。ご身分をお忘れですか。貴方様はこの魔界の第三王

子、天使などにお心を寄せたところで報われるはずなどないことは誰よりご存じでございましょう。惑わされては

なりませぬっ」

蒼白な顔で進言する側近にゼルは眼を伏せた。そんなことは今更云われるまでもないことだった。薄い唇を微笑が

彩る。

「そのほうの云い分も判らぬではない。だが放っては置けぬ。いや、お前に隠し事なぞしても始まるまい。俺は、

あの人が愛しいのだ。くっくっくっ…謀らずも兄上の思惑通りというわけだ」

自嘲するようにゼルは笑った。堕ちたのはティアではないのだ。兄に対する反発心も手伝ってか、堕としめて自分

の虜にするはずが、いつの間にか心を奪われていた。嫌悪の表情に傷つくしかない己がいた。

「…王子…」

「ジェガン、お前なら判るだろう? 俺は好きで生まれたわけじゃない。誰も欲してはくれなかった身だ。父でさ

え俺を忌まわしく思っているはずだ。愛しい女の子とはいえ、俺さえ身ごもらなかったら母も死にはしなかったく

らいだからな。…お前がいなかったらとうに骸になってた。繰り言を云うたところで始まらぬが、こんな身分なぞ

要らなかった」

ジェガンは思わず言葉を失った。確かにマヤ姫は彼を産み落とすと同時に死んだ。だがその事実をゼルは知らない

はずだったのだ。

だからなのか、とジェガンは思った。

いつでも我が身の出自に苛立ち、激していたゼルである。

「……誰も教えてはくれなかった。…誰かを恋うるということが、愛しいという感情がこれほど甘美なものであっ

たとは、胸を抉られるような苦痛さえも心地よいものであったとはな。…だがもう、遅い。-案ずるな。あの人は

俺を憎んでいる。これから先も俺にだけは心を許してはくれまい」

寂しげに笑うゼルの姿にジェガンは言葉もなくうなだれて出ていった。

戯れ言などではないのは彼にも判っていた。おそらくは最初から。

あティアという天使がここに、魔界に降りたのは決して偶然などではない。大いなる何者かの意志によるものだ。

聖天使でありながら、あまりにもらしくない聖天使…。そして魔界の王子でありながら、深い孤独と絶望だけを背

負ってきたようなゼル…。出会うべくして出会った最悪の取り合わせだ。第一王子カイムはこの結末を見越してか

の天使を土産などと云ったのか…。

(…つくづく酷なことをなさる方だ…)

ジェガンは離宮への足を速めながら、こぶしを握り締めた。

 腰に携えた剣が、耳障りな音を響かせていた。

                                           第五話に続く

                                               2002.09.28(土) UP


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