1
時折、思い出したように意識が舞い戻ってくる。辺りは闇が支配している。
漆黒の、深い冥い闇だ。まさに冥府の闇…いやそうではない。ここは南の離宮と呼ばれる屋敷だ。
そして今、ティアを支配しているのは黒き翼の王子だ。その翼が彼女の霞む視界を遮っているのだ。全身の力が
抜けている。
まるで自分の身体ではないようだ。それでも生々しい、そして総毛だつほどおぞましい感覚だけは感じる。
黒き翼に絡み採られる聖なる天使。…いや、もはや天使とは云えないだろう。妖魔の波動を、彼等の愛を身に受
けた天使なぞかつて一人もいないはずである。
「……や…っ…やめて…ッ…もう…」
「まだですよ。飢えてたんでしょう? もっともっと与えてあげますよ。天界になど帰さない。あなたはもう私
のものだ。ずっとここに閉じ込めてやる。何も考えなくていい。私だけを見て、私だけを感じてればいいんです
よ」
まさに悪魔の囁きだった。甘く、そして優しい声音で堕ちることをそそのかす。駄目だと思いながらもティアは
鮮烈な口付けを振り払えなかった。
頭ではむろん理解していた。
妖魔の血液や体液に含まれる「波動」…生体エネルギーが天使にとって素晴らしい活力になることも、それを一
度でも身に受ければ二度と聖天使になど戻れないことも。捕食の関係の下位…それは天魔大戦の行く末さえも暗
示してはいた。
けれど。
神経を引き裂くほどの屈辱を感じる反面、身体の中から充実してくるものがある。
「もう天界には帰さない。このきれいな翼とてじきに闇に染まるはずだ。私のと同じようにね。ああ怯えなくて
いい。あなたがどんな姿になっても私は気にしないから。いや、いっそ誰もが眼をそむけるほど醜怪な妖魔にな
ったらいい。天界の誰が見てもあなただと判らないくらいね」
ゼルは嬉しそうな声で恐ろしい言葉を続ける。ティアは活性化される身体を得ながら、意識を遠のかせていった
…。
それからというものゼルはまるでそうするのが当然とばかりに、夜ごとティアを抱き己の波動を与え続けた。
そうして、ティアが過去を忘れてしまうように、熱く、激しく。
むろんティアは抵抗し続けたが、灼けつくような飢えには耐えられないのか、抗いながらもゼルに身をゆだねて
いた。心とは裏腹にゼルの体液を受け入れることは確かにここで生きる糧となる。たとえ浅ましい姿に変化して
も、だ。
だが、ゼルの予想とは裏腹に天使の容姿に変化はなかった。
昼と云わず夜と云わず抱かれているにも関わらず、ティアの背にはいまだ美しい双翼が揃っているのだ。いやむ
しろ神々しいばかりの光を発して、生半可な妖魔風情では離宮に近づくことさえできない有り様だ。
もちろんまったく変化がなかったわけではない。ひとつは漆黒の闇にも似たその双眸だ。くちづけを交わす間の
虚ろで妖艶な瞳も、ひとたび正気に戻ると嫌悪もあらわに彼をねめつけ、激しく憎悪する。
そして今なお天界を焦がれるのだ。ゼルが訪れなかった夜、天界のそれと変わらない降り落ちるような満天の
星空を見上げている。そうかと思えばベランダと云うにはかなり広い張り出し窓で渡る風に耳を澄ましている。
心にかかる相手でもいるのか、切なげな顔が物陰から覗くゼルの胸を抉った。
そんな表情は一度としてゼルには見せない。己が不運を嘆いて彼に媚びでもすれば、あるいは現状を変えること
ができるかも知れないだろうに、そんな風に割り切ることも、まして屈することもしないのだ。
見知らぬ世界にただひとりきりの心細さ。けれど誰にも心を許さない孤独な囚われの身…。その気高さがいっそ
哀れだった。
「…ティア」
声をかけると聖天使ははっとしたらしく、身を強ばらせて振り返った。いつまでも慣れない獣のような仕草だ。
その顔に先程までの儚い表情はない。
闇の王子は薄い唇の端を持ち上げて苦笑を浮かべた。
「何をそんなに警戒しているんです?」
「…別に警戒なんてしてないわ。あなたの顔を見て気分が悪くなっただけ」
どうやら今日は機嫌がいいらしい。気が向かなければ返事もしないのだ。ティアの反応に、彼はくすくすと笑っ
た。歓迎されたことなどないが、それでも反応があるだけまだいい。
「私の顔はそんなに気持ち悪いですか? これでも好いてくれる者は多いんですけどね」
「だったらそういうヤツを相手にしたら? …なんだって私にそんなに構うの。あなた、王子なんでしょ。天使
なんかに関わってたら罪になるんじゃ…」
「おや、心配してくれるんですか?」
ゼルは冷淡に微笑んだ。ゆっくりと近づいてくるゼルにティアは後ずさる。グッ…と抱き締められて彼女は嫌悪
に顔を歪める。もちろん彼がここを訪れる時は「儀式」の時だ。そしてそれがなければ自分が飢えに苦しむとい
うことも判っている。事実、抱き締められているだけなのにその腕を振り払う力すらない。
「はッ、誰が! …魔族に抱かれるくらいなら、魔性に転生するくらいなら塵になった方がマシだっ!」
怒鳴りつけるティアにゼルは眉根を寄せた。いつでもこうだ。漆黒の瞳の奥底では、静かに、だが決して消える
ことのない憎悪の炎が揺らぎ続けている。捕らえたのはゼルではない。長兄カイムだ。それでもティアはゼルに
だけその憎悪を向けるのだ。
「そんなことはさせないと云ったでしょう?」
「なんでっ。放っとけばいいでしょう。放っときゃどうせ死んでしまうだけなんだから。これ以上愚弄してどう
しようっていうの…」
ティアの怒りは刹那激しく燃え上がり、そしてすぐつぶやきとなって消える。
無駄な言葉なのだとは判っている。これまでも彼女は何度もそう云った。もはや天界に帰ることもままならず、
さりとて『天使の樹』にもなれないだろう。
いつ浅ましい姿に変化してしまうのか、ただそれだけを怯えている日々。だがゼルがそれに応えたことはない。
背ける顎を捉え、悪態しかつかない唇を塞ぎながら眼を閉じる。
何故? 何故なのか、ゼル自身にしてもよくは判っていなかった。
たかが天使だ。捕虜の価値もない、むしろ手間のかかる、王子の慰み者にするにはあまりにも毛色の違う存在だ
ったはずだ。
だからこそカイムはティアをゼルにゆだねたのだろう。王位第一継承者である長兄からの贈り物を無下にはでき
ないだろうと踏んで…。
むろん中には確かに天使に憧れる変わり者の妖魔もいるが、それとて嬲って遊ぶ程度の執着でしかない。いずれ
は飽きて下級の妖魔に下げ渡すか、犯すだけ犯して嬲り殺してしまうのが常だ。
それなのに彼女が塵と化してしまうと思っただけで苛立ち、いてもたってもいられなくなる。この感情をなんと
云えばいい? 天界の戯言の…「愛」?
(馬鹿な…。妖魔であるこの身にあるのは征服欲と支配欲だけだ。そして、略奪と殺戮のもたらす甘美なまでの
快感…。)
事実、王子であるゼルに楯突き、反抗するこの傲慢な天使を凌辱していると背筋を痺れるような快感が走る。誇
り高い眼差しが羞恥と屈辱に震える様は、かつて手慰みに嬲った天使共や妖魔達などとは比べようもない。腕の
中で悶える華奢な体躯を目茶苦茶に引き裂いてやりたい。
その反面、包み込むように抱いてみたいという気もある。気が遠くなるように深い愛撫で、ティアが縋り付いて
身も世もなく泣き出すくらい優しくしたいとも思う。
これは妖魔の感情ではない。だがそうは思っても、その相反するふたつの感情がゼルの中で葛藤していた。
3
今夜もバルコニーの中央で彼女を抱き締める。
魔族の唇を伝い溢れ出す血と波動。それを否応なく嚥下する唇と細い咽。狭い器官を裂かれる痛み。体内を魔の
波動が暴れ猛り狂い、すがるよすがを探して腕がさまよう。どうしたらいいのか、ティアにも判りはしない。
これが苦痛だけであればどれほど楽なことか…。だが、儀式に慣れた身体は心を裏切り、この凌辱でしかない行
為の中から悦楽を見いだしてしまっている。押し寄せてくる疼きにも似た快感の波がティアの誇りをぐしゃぐし
ゃに喰らい尽くすのだ。
攫われるままに快楽に身をゆだねればいい、そう思うには天使の意識が鮮烈過ぎた。
「っ…は…うっ…、あ…ああ…っ」
「…私を受け入れなさい。力が欲しいんでしょう?」
優しく、時には猛々しく抱き締めながら耳元でゼルが低く囁く。彼の声は独特だ。冷ややかで、傲慢で、そのく
せ甘い。
手摺りにかけた手が小刻みに震えている。ゼルの抱擁は身の裡に棲む魔物を意識させる。与えられる熱い想いに
耽溺する…ティア自身も知らなかった魔物だ。
苦痛だけならまだいい。いや苦痛こそが彼女の望むすべてだった。それならば相手を憎悪し続けるだけですむの
だ。けれどそうではないのだ。身が蕩け出してしまうような快楽を、もう彼女の身体が、光の細胞が覚えてしま
っている。
悦楽が呪わしいとティアは思った。己の浅ましさに吐き気すら覚える。女を捨て、戦士として生きてきた。他者
と肌を触れ合わせたことなどこれまで一度もなかった。それなのに。
「も…や、いや…っ、も…う」
嗚咽まじりに何度も繰り返される言葉は、いつでもゼルの存在を否定する。
決して媚びない、そのかたくなな態度にゼルは苛立つ。ここには、いやもう天界にすら帰れない身で一体何を望
むというのか、もう少し、せめて微笑みを返すだけでもいいから心を開いてくれたならもっと優しく扱ってやろ
うものを…。
こんな天使は初めてだった。いや天使に限らない。妖魔も、それもゼルを取り巻く王侯貴族の令嬢達でさえ、気
まぐれに声をかけただけで云うなりになった。
なのに、この天使はどうだろう。彼が支えていなければそのまま奈落に身を落としてしまうだろうに、それでも
屈しない。苛立つ心を抑えながら、それでも彼は天使の耳に甘く囁く。
「ほら、云いなさい。私に身を委ねると云いなさい」
ティアは身を許しながらも切なげに声を殺した。いやいやと短い髪を振り乱す。辱められて、汚される聖天使は
痛ましく、そして美しかった。
濡れた頬を新たな涙が一筋、伝った。
第四話に続く
あとがきの前払い。
読んで下さっている読者様、ありがとうございます。なんだか恋愛ものだよ〜恥ずかしー(^^;)。途中原案に協力
して頂いている崎様とR指定にならないよう悪戦苦闘しております。
先日古本屋で買った「本当は恐ろしいグリム童話」(けっこうこのテの本も流行りましたね)。何故かアンデル
センの「人魚姫」の別解釈もあったんですが、面白い。けっこうインスパイアされてます。
続きは何時になるかなぁ。この後インケンお兄ちゃん登場予定(^^)。
2002.09.23(月) UP
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