忘 却 の 罪 科

 - 翼 有 り し 者 た ち -  第 ニ 話

原案:崎 続 様 / 構成&文:J I N

 1


 囚われの天使の名はティアと名乗った。聖天使とも呼ばれる上級天使でありながら、彼女はひ

どくその身分にそぐわない天使だった。輝ける金の髪もなければ、蒼穹を切り抜いたような瞳も

ない。

美しいが、天使のそれではないのだ。

風に舞う短い枯れ葉色の髪。褐色の肌。そして瞳は、闇色。上級天使だなどと誰が信じようか。

けれどその背にあったのは紛れもない銀白色の、まさに上級天使以外に持ちようのない見事な双

翼なのだ。それが彼にとっては不幸の兆しだったのかも知れない。

 彼女は戦士だった。ただし生粋の戦士ではない。自ら志願して戦士になったのだ。

生まれながらの戦士ならいざ知らず、志願までして戦場に降りる天使は数少ない。

聖戦などとは云いながら誰しもが判っているのだ。それは戦いであり、殺し合いなのだと。たと

え相手が闇に属する、天使とは相いれない者共とはいえ、天使はそもそもが殺戮を好まない種族

である。

だが彼女にとって戦うことは苦痛ではなかった。天馬を駆り、剣を振るう時は、他者とは異なる

己の姿も忘れていられた。だからこの戦いにも自ら志願したのだ。女性の証である膨らみさえ鎧

で隠し、一人の少年兵士として。

けれど今回は相手が悪過ぎた。

残虐にして勇猛と云われる妖魔の国の中でも戦術に比類なきと云われるほど知略、戦略に長けた

魔の国の第一王子が戦列に加わっていたのだ。

飛竜に乗った美しき敵の将…。彼は真っ先にティアに眼をつけたのだろう。見事な翼を持つ上級

天使は滅多に戦場には現れない。まさに千載一遇であった。

かの王子が放った長い鞭はまるで生き物のようにティアの首に絡み付き、それから腕を、そして

最後には脚の自由までをも奪い去った。

捕らえられた天使を下級天使達はどんな想いで見送ったのだろうか。

 天馬のいななきが、遠く響いていた。


 

 その荒ぶる魂を、傷付いた肢体を魔界の異端児は驚きの目で見ていた。

ゼルとて天使を見たことがないわけではない。翼だけは立派な天使なら何度も見たし、蔑みを湛

えたような蒼い双眸を戯れに抉りだしてやったこともある。けれどあんな天使はひとりもいな

かった。

初めて血に染まった遺骸ではない、生きている天使をきれいだと思った。

 荊で戒められていた天使は手ひどく傷つけられていたにもかかわらず、灼熱の眼差しでゼルを

睨み上げた。天使という甘いイメージなどどこにもない烈火の戦士だ。恐怖に震え、そのくせ蒼

い瞳の奥底に嘲笑と侮蔑をたたえていた天使達とは違う。

ただ自分の境遇に怒り、屈辱に身震いしていた天使。おそらく彼女の眼にはゼルの存在さえ映っ

ていなかったに違いない。憤怒に燃えさかる紅蓮の炎が漆黒の瞳に映っているようだった。

引き込まれずにはいられない、その瞳。悪魔は、天使に魅入られた…。

「…じ…王子っ…」

物思いを遮られ、ゼルはハッとしたように顔を上げた。

「なんだ?」

「なんだではございませぬ。先程からお声をかけておりますのに…」

「ああ、愚痴はいい。用件を申せ。あの人…いや、天使殿がもしや何か所望されているのか?」

侍従長は露骨に眉を寄せた。ただでさえもいかめしい顔がますます険しく見える。

「そのことですがな。私はいいかげんに酔狂はおやめくださいと申しあげているのです。よりによって聖天使を

囲うなど王子にもあるまじきお振る舞い。そうは思いませぬか。かような不祥事がもしカイムどののお耳にでも

入ろうものならまた何を云われるものやら…」

「は、そんなことか。くだらぬ。兄上の耳に入ったとてよいではないか。そもそも土産などと称して彼女の身柄

を俺に預けたのは兄上の方だ。あの人に与えた仕打ちは許し難いが、まぁ状況が状況ゆえに今更苦情も云うわけ

にもゆかぬであろうな…」

「王子っ!」

「なんだ?」

怒髪天をついた侍従長の叫びも虚しく、ゼルは一向に悪びれた様子もない。ジェガンははぁっっと深いため息を

ついてかぶりを振った。

 彼は最初、ゼルが捕虜である聖天使を南の離宮に住まわせると云い出した時、また新しい戯れ言なのだろうと

安易に考え、聞き流していたのだ。

魔界の第三王子と云えば冷酷無比で有名な、別に氷の王子とも呼ばれる王子である。そんな彼が本気で天使に心

を奪われるなどと誰が信じようか。だが事実、今の彼は聖天使の虜も同然だ。

西の都に珍しい剣があったと聞けば馬を駆り、東の里の果実は美味だと聞けば自ら採りにゆく有り様だ。

冷静沈着と称えられた氷の王子とも思えぬこの体たらく。ジェガンが頭を抱えるのも無理からぬことだった。

それに…と思う。南の離宮と云えばゼルの生母アヤ姫の住まいだったところである。今まで小姓はおろか誰ひと

りとして足を踏み入れさせなかった場所で、彼の一番気に入っている屋敷だ。どうにも不吉な予感がする。

戯れ言であってくれたらどれほどいいことか…。そう思いながら王子の私室を後にしたジェガンであった。


 

 南の離宮に身柄を拘束された聖天使は飢えていた。むろん食事はジェガンという名の側近が差し入れてきては

いたが、彼女はそれを口にしてはいなかった。

この地にあるものを口にすればどうなるか…吐き気をもよおすほど忌ま忌ましい結果になることは判り切ってい

る。むろん食べなくてもか弱い人間のように即、生命に関わるというほどではないが、飢えは体力はおろか精神

力までをも確実に奪ってゆく。天使にとってなくてはならない天の光に、その光がもたらす心を蕩けさせる暖か

さに、彼は飢えていた。

 当然、飢餓の苦しみは捕らえられた時から覚悟していた。上級天使とはいえ天界の中央に関わっていたわけで

はないから捕虜待遇に置かれるはずもない。

それなのに、この待遇はどういうことなのだろう。

ティアは、ここに幽閉した第三王子の考えがどうにも理解できないでいた。切り札にもならない自分を囲うなど

正気の沙汰とも思えない。かの王子は初めこそあしげく彼女の元を訪れていたが、最近は側近だけを寄越すよう

になった。

 最初のうちはそれこそ夜毎彼の怪我の具合を確かめ、それが自然に治癒してゆく様をほっとしたような顔で見

ていた。一体誰が氷の王子などと呼んだのか、穏やかで優しげな表情は彼女の知っていた天使の中にもいなかっ

たタイプだ。

だが、むろん信用などしなかった。それが彼ら魔族の手管なのだと思い、王子が姿を見せるたびに手近にあった

置物や彫刻を投げ付けてやった。彼はひどく傷ついた悲しげな顔でティアを見詰めて、黙って出ていった。

もっともここ最近は、もう物を投げ付ける体力も残ってはいなかったが、王子は天使の、心まで委ねたわけでは

ないと云いたげなきつい眼差しが苦手らしい。

どうしていいか判らないといいたげな困ったような表情を浮かべて、何か言葉を逡巡しているが、結局それも見

つからないようで戻ってゆくだけだ。

(帰り…たい)

見上げれば満天の星空だ。天界と魔界は別の次元に存在している表裏一体の世界である。きっと向こうの世界で

も誰かが同じようにこの星空を見上げているに違いない。

「そんなに…帰りたいのですか?」

まるで心を読んだかのようなタイミングで声をかけられて、ティアはぎょっと振り返った。気配に気づかなかっ

た。そんなことは今まで一度もなかったことだ。

ゼルはテーブルの上にあった果実に眼を止めると秀麗な眉をつらそうにひそめた。

「また食べてないのですね。…どうして食べてくださらない。そんなに命を削りたいのですか、あなたは。」

「………」

「…ここで生きるには、この地の物を食べなければならないのは、あなたとてお判りでしょう? もう天界のこ

とは諦めなさい」

「そして…無様な生きざまを晒せと云うのか」

冷ややかな言葉にゼルははっとした。初めて口を利いたのだ。

それは何とも云えない声音だった。溜まり切った澱を吐き出すような、そんな声…。

「ティ…ア…」

云いかけたゼルの言葉を彼女はぴしゃりと遮った。

「呼ぶな。王子か何か知らないが、お前なんかに名を呼ばれる謂れはないっ。汚らわしい妖魔め……」

やつれてはいるが天使の誇りに満ち、尚も侮蔑の色を映した漆黒の瞳。ゼルのそれと同じ瞳なのにそこには憎し

み以外何も映ってはいない。

「……私をなぶるつもりなら好きにすればいい。けれどお前なぞに辱められはしない。この身は魔界の毒素に侵

されようと、妖魔などに屈しはしない…っ」

冷ややかな、ではない。彼女は怒りを抑えているのだ。本当はもっと激しい気性なのだろう。それゆえあっさり

捕らえられた揚げ句、こんなところに幽閉されているのが我慢ならないに違いない。

穏やかな物言いに込められた痛烈な侮蔑にゼルは全身がわなないた。今まで彼相手にそんなことを口にした天使

はいない。大抵は己が命欲しさに媚びてくるか、そうでなければ殺していた。色々な方法でもって。

「…怒ったのか? なら私を殺してみるか? 簡単だ、お前の持ってる剣なら私を無に還せる。……ここが心の

臓だ。その剣で貫いてみろ」

ティアは薄く笑うと、自分の胸を広げて心臓を指し示した。

挑発しているのはゼルにも理解った。

捕らえられてすぐなら、まだ天界にも帰る術もないではなかった。事実、護衛と称してつけられたジェガンの眼

を盗み、逃亡しようとしたことも一度や二度ではない。

しかし今となってはそれも手遅れだ。ティアの言葉通り、天使の身にとって魔界の毒素は、生命を保持するのが

精一杯なのだ。この重く澱んだような大気の中ではもはや羽ばたくことも出来ないだろう。

むろん「方法」はある。ただひとつだけ……。

だが到底無理なことであったし、魔族に哀れまれるなどティアの気性では我慢できないだろう。そしてこの状況

で己の誇りを護るには妖魔の剣で塵になるしかない…。そう考えての挑発だった。

「……あなたは忘れておいでのようだ」

感情のこもらない声音でゼルは応えた。かすかな苛立ちはあるものの、不思議と憎悪の念は沸かなかった。

ただ、己の身を思い知らされた。決して相いれない立場の違いというものだ。

どんなに想っても所詮、相手は天使なのだ。いや天使であることが問題なのではない。ティアだけなのだ。ゼル

を前にして心を許さないのは。

 だからこそ惹かれるのか、それでも惹かれるのか…。

ゼルは心を決めた。どうしても手に入らないものだと思えばいくらでも冷酷になれる。たとえどんなに望んだと

ころでいつか、などという日はこないのだ。そんなものが存在するなら彼はこれほど荒みはしなかった。

ならば…と思う。それなら初めから期待などしなければいいのだ。どちらにしろ目の前の天使は自分を憎悪し続

けるだろう。生ある限り…。

「…この地の物を口にしないからといって、あなたが天界に還れる術はもうないのですよ。ならば賢くなりなさ

い」ゼルの唇に皮肉な笑みが浮かぶ。

「………」

ぎろり、と睨んだティアに彼は薄く笑った。

「…と云って聞くあなたではなさそうだ。たしかに天界の物と比べたら魔界の物など口に合わないでしょうし

ね。けれど天界とてそうここと変わりがあるわけでなし…。そういえば天界には『罪の実』がありましたね。か

の罪の実が何に造られるか思い出してごらんなさい。…然様、我ら妖魔の骸に成る忌まわしき実…。あいにくこ

の地にはないが似たようなものならあるんですよ」

「……ま…さか」

思い当たった考えにティアは顔色を変えた。彼の言葉が何を示しているか理解したからだ。氷の王子は絶佳の美

貌をにやりと歪めて続けた。

「そう。天使の樹…うるわしい天使の果樹。…我らもたまに戴いてますよ。あれは実に美味だ。…馨しい香りと

芳醇な蜜。まさに聖なる実…。そう今のあなたのようにね」

「……っ」

「いい顔だ。俺が今どんな気持ちか判りますか?」

カッと怒りに見開いた漆黒の瞳が美しいとゼルは思った。

屈辱に細い をわななかせる天使はなんと気高くも美しいのだろう。妖魔の餌となる人間などでは決して持ち得

ない清廉な魂…。大きく見開いた瞳は漆黒のそれだというのに一点の曇りも蔭りもない。

そんな瞳を前にすると身の内に淫らな欲望がふつふつと沸き上がってくるようだ。

「……っ」

ティアは荒々しく唾を吐き捨てた。ゼルはそんな彼女に、ゆっくりと近づいてゆく。長衣がサラサラと秘めやか

な音を立てた。

「あなたに聖なる実を食べさせてみたらどうだろうかと…」

「ふざけるなっ  それを口にしてまで誰が生き永らえようと思うかっ」

「くくくっ…。云うと思いましたよ。けど、もうひとつ手がある。そう、我らの血…。実が結ぶ前でもさしたる

違いはないでしょう。ま、多少刺激が強いかも知れないが、確実だ。確実に、我らの同族に…妖魔になれる」

美貌の王子は妖しく微笑んだ。

 欲しいと思ったものは何もなかった。魔界の王子でありながら、天界と魔界の戦いにさえ興味がなかった。そ

の自分が初めて欲っしたものを手に入れて何が悪いと云うのだ? この屋敷の中で彼に逆らう者などいないの

に。

「…何を…っ」

ティアが反応するが早いか、ゼルは手にしていた妖魔の剣で自らの左肩を刺し貫いた。ドクドクと血が、妖魔の

蒼い血が溢れだす。天の蒼よりさらに深い蒼…。

茫然としたティアを抱き締め、彼は艶然と笑った。

「飲みなさい」

「…い…や…ッ」

ティアは顔を背けて呻いた。きつい香りが鼻先をかすめる。我知らず喉が鳴った。

飲みたい… 。本能がそう叫んでいた。一口、ほんの一口でも飲めば、気も狂うようなこの渇きは癒されるだろ

う。

だが、そうすれば間違いなく異形の者へと変化する。浅ましくも妖魔の血を貪った姿で生き恥を晒すくらいな

ら、いっそこの場で事切れた方がまだしも救われるというものだ。

頑として顔を背ける聖天使にゼルは片手で顎を捉えた。きつく結んだ唇に自分の唇を重ねる。

「…は…っ」

一瞬、何が自分の身に起きたのか彼女には理解できなかった。もがいてもゼルの腕はびくとも動きはしない。む

しろ絶対的な能力差を思い知らせるだけだ。

妖魔の唾液が体内に忍び込んでくる。ゼルの肩から溢れた血と同じ甘い、危険な、強烈過ぎる刺激だ。

「…そう、大人しくしなさい。手荒な真似はしない。俺はあなたを塵になんてさせませんよ。絶対に…」

氷の王子は不吉な言葉を天使の耳にそっと囁いた。

                                           第三話に続く


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