1
抜けるような青い空、そして美しい珊瑚礁の海岸線に続く白砂と点在する椰子。かつては神々の庭と呼ばれた島
も折からの観光ブームに乗って微妙に変わりつつある。それでも変わらないのは、マンゴー(水浴)から始まって
マンゴーに終わるというこの島独特の生活習慣と鷹揚な、けれども根深い宗教習慣だろう。
そこに在る神は、島が独自に信仰していた宗教にジャワから伝えられたヒンドゥ教、その上さらにインドから渡っ
た大乗仏教までが融合しているという話だ。それが日本人には理解しがたい宗教、バリ・ヒンドゥ教である。もっ
ともそうは云っても所詮旅行者である身には、だからどうというほどのことはない。せいぜいが異教徒の参拝を拒
む寺院に入れないくらいだ。
この島では快楽が善であるという教えに添って、いとも容易く恋の花が咲き乱れる。恋に恋焦がれる若者達にとっ
てここはまさに楽園という名に相応しい国なのだ。
「だからっ…あ、やだっ…ばかっ」
「だから? なんです?」
首筋にかかった息にティアは竦み上がる。いくら人目がないとはいえ、こんな昼日中からコンナコトをするなんて。
チェアデッキを置いた広々としたバルコニーには、南国特有の灼熱の太陽が降り注ぎ、先刻ルームサービスで運ば
れてきたフルーツジュースの入っているサーバーの氷は熱さのために溶けてしまっている。
「いいかげん行かなきゃ…午後からは、ガイド、入ってんの…よせってば…っヘンタイっ!」
渇いた熱気に晒されてじっとりと汗を掃いた褐色の肌に大きな掌とキスを受け、ティアは短い髪を振り乱す。彼女
にとってはもちろん彼が初めての恋人である。誰も触れたことのない、まったくの無垢できよらかな体だった。
漆黒の長髪を揺らし、男は傷つけたりしないように慎重に、それこそティアが蕩けてしまうのではないかと思うほ
ど優しく丁寧に…抱きしめた。それでも無垢な体は慣れるということを知らないらしい。何度抱きしめてもかすか
な怯えを感じさせる。そんな彼女の初々しい仕草に、その男…ゼルは端正な顔を綻ばせてくすくすと笑う。男の手
は大胆にもジーンズの上を滑っていく。ジーンズとはいっても丈の短い大腿もあらわなそれである。
震える膝が愛しい。白いシャツは男の無遠慮な手から身をよじる内にはだけ、よく灼けたなめらかな肌が外気に晒
されていた。
「そのガイドって誰です…?」
揶揄するともなしの言葉にティアは一瞬言葉を失い、いやいやとかぶりを振る。覚えていない訳ではない。会社か
らもホテルのフロントからも聞いているし、いくら日本語を話せるガイドが少ないとはいえ、最近ではカタコトの
日本語で愛想を振り撒くホテルマンもいる。その上いまいましいことに、昨今の日本人といえば多少のリスクは旅
の醍醐味とでも思っているのか、わざわざ日系人ではないガイドを要求したりするのだ。
両親が残してくれた小さな家とわずかばかりの畑しかないティアには、ガイドで得る金は生きてゆく上で欠かせな
い比率を占めている。けれど。
「…知らな…あ…っ」
この状態で尋ねられて応えられる訳がないではないか。
「知らないこと、ないでしょ? 知ってるはずだ。ほらちゃんと思い出して。じゃないともっとイジワル、する
よ?」
ゼルが微笑みながら囁いた。なおも悪戯は続く。ティアはびくんっ、と身を震わせて男の髪に縋り付いた。
「……ふ…っ、あ…確か…サカキ…とか…」
かろうじてその名を口にする。男は面白そうに笑った。
「はい正解。じゃあね、俺の所属プロダクションの事務所は?」
「……んなの…知る…かっ、やだ…跡つけんな…」
「ふふふっ、きれいな肌だ。こんなによく灼けているのに跡がつき易い…素敵ですよ。俺の物だって印つけとかな
くちゃ、不安でたまらない」
「ヘ…ンタイやろ…うっ、あ…やっ…」
吸われた箇所が熱くなる。痺れるような、疼くような感覚が其処からじわじわと拡がってゆく。
ティアはどうしていいか判らないとでもいうようにシーツに顔をうずめた。恥ずかしくて眼なんか開けていられる
わけがない。
「ゼ…ルぅ…」
非難とも哀願ともつかない声音で、ティアは男の名を呼んだ。
「ああ、そんな可愛い顔を見せられると我慢できなくなりますよ」
すっと細められた涼やかな眼差しが目の前のしなやかな肢体を凝視する。ティアはカッと頬を赤らめて顔をそむけ
た。それでも、ゼルの視線は彼女の体から離れない。まるで視線に嬲られているようだ。
「愛してる…。あなたが…欲しかったんだ、ずっと。」
低い声でゼルはそう囁いた。甘い響きと強い日差しに気が遠くなる。何故だろう、遥か昔その旋律に幾度も触れた
気がした。
2
「ねえ…」
ふいにどこからともなく声がした。ゼル=スメラギは辺りを見回す。もちろん誰もいるはずもない。ここはサスー
ル海岸に一際目立つ十階建のホテル、バリ・ビーチの特別室。せっかく取れた休暇のため、マスコミをシャットア
ウトできるようオーダーした部屋だ。まして小うるさいマネージャー兼おせっかいな友人は、戸外の暑さもものと
もせず意気揚々と出ていって戻らない。もっとも次の公演の準備がなかったら、彼とて同じように異国情緒たっぷ
りな祭りを見物に出掛けただろう。ここは情熱の国だ。一夜のアバンチュールを楽しむのも旅の醍醐味というもの
だ。
そして彼にはそれだけの素養があるのだ。
黒い長髪と瞳を除けば、精悍なマスクといい引き締まった長身といい、クォーターであるドイツ系の血の方が濃く
表に顕れている。そしてその声と佇まいには人を惹きつける何かがあった。
「おい、そこのお前…じゃないあんた」
声はゼルの困惑をよそに苛々したように呼びかける。
「ドアじゃないわ、窓だってば」
「…な…」
ゼルは窓の外を振り返り、思わず眼を瞠った。ベランダの近くまで枝を延ばした木の上に人が立っていたのだ。
「そんなところでなにしてる…?」
「別に覗いてたわけじゃないわ。…あのさ、そこいっていい?」
この状態で何を覗いていないというのだろうか、とは思ったがそれよりも枝の方が今にも折れそうだ。はにかんだ
ような笑顔がゼルの返答を待っている。その顔には見覚えがあるような…いや、既視感というものだろう。
「ま、待て動くな、すぐ手を貸すから…」
「手なんかいらないって」
慌てて駆け寄ろうとしたゼルに彼女はニコッと、まるで褒められたばかりの子供のように笑って枝をしならせなが
らベランダに、いやゼルの腕に飛び込んできた。
ティアは、あざやかなバテイク(ジャワサラサ)のシャツをはだけたまま、それをウエストの辺りで無造作に縛
り、やはり同じような白いコットンの短パンを履いているという、いかにも南国の人間といったいでだちでゼルの
前に立った。バリの太陽にも似た強烈な個性、鮮やかな印象の女性…いや女性というよりは少年だ。おそらく一度
でも逢ったら容易には忘れられないタイプの人間…。煎れ立ての紅茶のような、そのくせちっとも手入れなどして
いなさそうな髪…。その髪の間に覗いたまなじりのきつい、けれどきらきら光る瞳が特に人目を惹く。
そしてそのほっそりした躯は、まるで太陽にでも愛されたかのように蜂蜜よりもやや濃いブロンズ色に染まってい
た。
「しつっこいんだ、あいつ」
少女は云った。ルームサービスで運ばせたジャワコピーを飲んで、サンドイッチを口にほうり込んで。
「しつこいって何が?」
不審そうに尋ねたゼルに少女は困惑したようだが、口に入れたサンドイッチを甘ったるいバリコピー、いやすでに
ミルクコーヒーとなったそれで流し込んで、渋々と話し始めた。人に馴れない野生の獣のようなところがあるが、
根はおそらく純粋なのだろう。問われるままに返答をする。
「…私、ティア。このホテルの近くの旅行会社で働いてんだけどさ。あ、ガイドの方だけど。ほら最近日本人の客
多いだろ。で、つまりその通訳ってわけ」
なるほどそれでなのかとゼルは得心がいった。
常夏の島、情熱の国と呼ばれながらもバリ島は決して豊かな国ではない。近代的なホテルも最近建設されたもの
が過半数だし、第一それらとて観光客や比較的裕福な人々のためのものだ。島の暮らしは苛酷で貧しい。夜も明け
ぬ内から『田毎の月』と呼ばれる段々畑のような水田へ出掛け、汗水垂らして働くのだ。
ましてそれが土地を持たない日系人とあっては尚更だろう。
「でも…さ。今日の客………なんかヘンな奴で…」
少女は云いにくそうに言葉を濁した。
「ヘン…て?」
「……メシ、奢ってもらったから云うけどさ…笑わないでよ。私だってヘンだとは思うんだからさ。その、…触る
んだ…私のこと」
「触る…?」
「ああ。髪とか…その、腰とか…。あげくの果てに抱き着いてきて。『マイボーイ』なんて言って。も、勿論何考
えてんだってぶん殴ってやったけど」
途端にゼルは吹き出した。
(確かに…)
そんな気になっても仕方のない少女だと、ゼルも思った。きつい、ともすれば睨んでいるとしか見えない漆黒の瞳
も、形のよい柔らかそうな唇もただの少女のそれではない。なのに匂い立つようなこの色気はどうだろう。女とし
てはまだまだ未完成な、けれども先刻見た野生の獣を思わせるしなやかな動作が瞼の裏に焼き付いている。
(榊か。あの馬鹿、また変態趣味を出しやがったな。男の子と勘違いしたんだ)
吹き出したゼルにティアはあからさまにムッとしたようだ。
「何がおかしいんだよッ」
「あ、すみません。ちょっとね、その…あなたに肘鉄を食らわせられた客っていうのを想像したら…だめだ、おか
しいッ。くっくっくっ、ああ別にあなたを笑ってるんじゃないですよ。でも…くっくっくっ…」
弁解しながらもゼルは耐えられないように笑いだした。そんな彼の様子にティアは憤慨していたが、つられたよう
に彼女も笑いだした。明るい、まるでこの国の太陽のような笑顔だ。屈託のない、無邪気な…。
その笑っている少女を前にゼルは、奇妙な感情を覚えていた。懐かしさともつかない、胸が痛くなるような…そん
な想い。これは一体なんだろう。どこかでこんな光景を夢見ていたような気がする。初めて逢ったはずなのに、ず
っと昔から知っていたような…。
この笑顔がひどく心を沸き立たせる。
「あ…」
食べかけたサンドイッチを落としそうになる。思わずよろけた彼女をゼルが抱きかかえた。
導かれるように、二人は恋に落ちた。
3
「愛してる…。あなたが…欲しかったんだ、ずっと。」
囁いて耳朶にキスをする。甘い、多分ティアが好きなマンゴスティンやピイサン(パイナップル)のジュースより
もはるかに甘いキスだ。彼女は出逢ってから何百回めかのキスに、それでも頬を上気させてそっぽを向いたまま、
ゼルの首に手を回した。
好きだと、愛してると何度云われただろう。まさか逃げ込んだ部屋に滞在していた男とこんな関係になるとはテ
ィア自身思いもよらなかった。何よりガイドを頼まれたのはほんの数日前のことだ。その時はただ通訳が欲しいの
だろうとしか思わなかったのに、ゼルはもちろん同行していたスタッフも語学には堪能で通訳の必要などなかった
のだ。
ゼルは、昔死んだ祖父が語ってくれた日本という国のアーティストだった。四方を海に囲まれ、四季という季節に
彩られる美しい東の国…。幼かったティアを膝の上に乗せて、祖父は口癖のように何度も祖国の話をしたのだ。戦
争という名の殺人をしたくなくて捨ててきた祖国の話を…。
だから、本当は日本人を相手にガイドの仕事などしたくなかったのだ。けれど貧しい国では食べるためになら何で
もしなければならない。
『あなたが…好きだ。どうすればあなたを手に入れられる?』
何度も何度も口説かれて、だからというわけではないけれど、ティアはいつの間にかゼルの言葉にうなずいていた。
どのみちゆきずりの相手だ。仕事が終わったらそれでおしまい。彼は日本に帰り、ティアのことなどきっと忘れて
しまう。それでもいいと思えたのは何故だろう。本当は帰りたかったのに意地を張って帰らなかった祖父を思い出
したからだろうか。それともゼルの中に自分でしか癒せない何かを見たような気がしたからだろうか。
どちらにしても彼の滞在はあと五日しかない。
真っ白なシーツに沈んだブロンズの肢体…。まだ線の細い体だ。ぐっすりと寝入ったティアの瞼に口づけをして、
ふとゼルはその背にあるものに気づいた。なめらかな曲線を描くその背にある…。
(なんだ…? 痣…?)
染みひとつないきれない背の肩甲骨の辺りにあるかすかな蔭り…。これは一体なんなのだろうか。
ゼルはその背を魅入られたように見つめた。
そうして、そこから、光が弾けた。
4
白く、輝く世界の中に二人はいた。ゼルには漆黒の翼が、ティアには白い翼がある。
「…私、どうして? ゼル? ああ、ゼルなの! あなた、魔界樹になったのに…?」
混乱しながらも二人は抱き合った。
「ここは…天界か? いや、もっと高みのある、どこか…」
彼らの周りには何もない。ただ、意識があるのが感じられる。
どうやら彼らの体も実体ではないようだ。お互いに触れても、その手は通り抜けてしまう。
(ゼルよ…ティアよ)
頭に直接響くその言葉に、ティアは驚嘆した。
(運命の子らよ。私はミカエルと呼ばれた者の意識だ。)
「大天使様! い、いったいこれは…」
(驚いたろう。よくお聞き。ここが天界と魔界、二つを統べるところなのだ。)
二人は固唾を呑んで聞き入った。
(天界も、また魔界も元は一つのものであった。しかしその唯一なる我等が始祖は、善と悪の意識の葛藤があまり
に強固な為、世界を裂いてしまった。強い精神の力が二つの相容れぬ肉体を創り出し、呪詛をかけてしまったのだ
…。我らの始祖はその事を心に封じてしまったが、お互いを認めようともせず、排除したいという負の感情は厳然
と残る。結果、永く愚かな争いを続けてしまったのだ。
我らは受け継ぐしかなかった。忘却という罪科を。
お前達の父母の代に、覚醒の兆しは見えていた。異種族でありながら愛を貫こうとしていたのはお前達と一緒で
あった。しかし運命に抗うことは出来なかった。それゆえ更に過酷な試練を受けてきたろうに…ゼル、ティア。お
前達の愛が、世界を開放したのだよ)
暖かい感情が二人を包む。崇高な意識は、ミカエルのそれだけではなかった。優しき友、懐かしい父母、孤高なる
老兵…。それらがミカエルの意思を肯定する。
(世を人に委ね、われ等は仮初めの衣を脱ぐ。さらなる高みに向かうため。魔族もまた同じ。翼は鳥に、爪と牙は
獣に返そう。さあ、お前達も…)
「いやだ」
静かに、ゼルは首を横に振った。
「俺は、ティアとともにいたい。でもまだ抱き足りないんだ。もっと、もっと触れていたい。あなたのように高貴
な存在にはまだなれそうもない、いや、ならない。魔族にも戻らない。
俺は…熱い血潮を、きしむ肉を、触れることの出来る優しさを、感じていたいんだ!」
強い意志が瞳に在る。ティアが見つめる。彼女もまた同じ想いであろう。つなぐ手に、今までとは違う感触が蘇っ
てくる。
(そうか…ならば、物質の波動を、再びお前達に与えよう。祝福とともに…)
ひときわ光が強くなり、意識がその中に溶けていく。二人はお互いのぬくもりだけを感じていた。
そして。
5
頬をしずくが伝った。それは顎を伝い、ティアの背に落ちた。
「…ん……なに…? え…ゼル…?」
背に受けたそれに気づいたのだろう。眼を覚まして寝返りを打ったティアは、彼の顔を見るなり驚いたように眼を
見開いた。ゼルは泣いていたのだ。漆黒の瞳に涙をたたえて。声もなく静かに泣いていたのだ。
「な…なに泣いてんの?」
「え…あ、なんでも…なんでもないんです…ただ、あなたが好きで…」
ティアはその言葉に唖然として、だがすぐに破顔した。
「ば…っかねぇ、なに訳の判んないこと云ってんの。夢でも見た? なっさけないわ、んなでかい図体してぼろぼ
ろ泣いてんじゃないのっ!」
「そ…ですね。はは、情けない。あなたはここに、俺の腕の中にいるっていうのに…ヘンですね。愛してる…愛し
てる。こんなに誰かを好きになったのは初めてだ。この髪も眼も口も…愛しくて、どう云えばいいのか判らないほ
どあなたが……好きだ…」
云いながらゼルはゆっくりとティアに覆いかぶさった。彼女の髪は日なたの匂いがする。髪だけじゃない、腕も胸
も脚も、すべてが太陽の匂いに満ちているのだ。ティアは顔を赤らめたものの抱かれるままにしていたが、不意に
悲鳴を上げた。
「な…っ!」
慌ただしくゼルの腕をすりぬける。理由はいたって簡単。ベッドサイドの時計が眼に入ったからだ。
「やっばーいっ、なによこれっ、もう三時じゃないっ。ガイド二時の約束だったのに。なんで起こしてくれなかっ
たんだよっ。ああっちくしょうっ…私の服っ、服どこだっけ」
「大丈夫ですよ」
「なにが大丈夫よっ。ニトゥール社はすげー厳しいの。客からクレームがあったらいっぺんでクビなんだからっ。
…ああどうしよう、眠っちゃうつもりなんかなかったのに…」
慌ててベッドの下に脱ぎ散らかしてある服をかき集めているティア。そんな彼女の様子を眺めていたゼルだが、そ
の慌てようも可愛らしくて思わずくすくすと笑った。そしてその背後から近づいてふわりと抱き締めた。長い髪が
ティアの頬をかすめる。
「大丈夫って云ったでしょう。ほらこっちを向いて」
「なにすんのよっ! え…やだっ、あ…んっ」
キスがティアの唇を塞ぐ。逃れようと抵抗する細い体を自分の腕の中に封じて、ゼルはその耳元に囁いた。
「逃さないよ、ティア。」
「…や…だっ…放してっ…ゼル…、放せってばっ!」
あまりにもむきになって逆らうから、ゼルはようやく力をゆるめてやったが、やっぱりおかしくて笑ってしまう。
「笑うなっ! なにがおかしいのよっ、こんなに困ってんのに!」
「くっくっくっ、だって…。まだ気づかないの? 今日の客」
「………え…?」
「俺の所属事務所、サカキ芸能プロダクション」
「まさか…」
「そう。駄目ですよ、ちゃんと覚えてなきゃ。依頼人は俺。つまり向こう四日間は俺ひとりがあなたを独占できる
ってことです」
「あ…」
「だからね、慌てる必要なんかないんですよ。今日の予定は…そうだなぁ、まずレストラン・ピノかプリ・スレラ
あたりで軽く腹ごしらえしてチェルクからマス村に足を延ばして見るってのはどうです? でもって夜はドカール
(馬車)でデンパサールを観光する…ね?」
「もう、もう、も! …ドカール? あ、私乗ったことない」
途端に顔を輝かせたティアにゼルはにっこりと笑った。
「ええ、そう云ってたから」
「え…じゃ…?」
「くっくっくっ、そんなおっきな眼をして。落ちちゃいますよ。それに…そんな顔をされたら出掛けたくなくなる
でしょう?」
とことん甘い男である。真っ赤になって地上の天使はかみついた。
「やっぱり、お前イジワルだ! この悪魔っ!!」
6
そして…。瞬く間に過ぎ去った四日間。自分の側にいて欲しい、一緒に日本へゆこう…とゼルは何度もそう囁い
た。もう離れることなどできない。愛しているのだ。口の悪い、そのくせ優しい心と真っすぐな気性のこの少女を。
彼女の存在がひとときの夢だなどとどうして思えようか。
だが、その執拗なまでの誘いにティアはどうしても頷こうとはしなかった。出逢ってから一度もティアはゼルにそ
の言葉を云わない。
ゼルの口から語られる言葉は照れ臭そうに、けれど微笑んで受け取るくせに、ティアからは云ってくれないのだ。
時折、口する言葉といえばいつだって逆のそればかりだ。もちろん本当に嫌いなのではないとゼルにも判っている。
もしも本当に嫌だったら黙って言いなりになるような人間ではないのだ。
「どうして…なんです?」
「またその話ぃ…」
案の定ティアは眉をひそめて嫌そうな表情になった。
「別に私、今の暮らしに不満なんかないって云ったでしょ。知らない国になんかいきたくないし…あ、あんただっ
てあっちじゃ有名人なんでしょう。えっと、サカキっていったっけ? あの変態。あいつが云ってたけど…」
「榊の云うことなんて気にしなくていいって云ったでしょう。そんなに…そんなにここが好きなの?」
「うん…」
ティアは言葉少なに答えた。それ以上口にしたら云わなくてもよいことまで口にしてしまいそうだったからだ。
「……この島が好き。この熱い大地も空も海も…全部、好き。あんたから見たらつまんないとこかも知れないけど、
ね。だから私、ここを離れたくない」
(でも……いつか…)
ティアはゆっくりと顔を上げるとゼルの髪を引き寄せて、自分の唇をゼルのそれに重ね合わせた。
羽が触れたほどのかすかな感触にゼルははっとする。
ティアは微笑んでいた。
「……私…あんたのこと、…好きよ。好きだと思う。そりゃ時々は意地悪だけど親切だし、ね。でも…私のいる場
所はここ。ここで生きてく…。」
「ティ…ア…」
茫然とゼルはティアを見つめていた。漆黒の瞳に自分の顔が映っていた。
「………………」
最後の言葉を、聖天使は告げた。
7
「だからってねー、ふつーじゃないわよっ。外国人の恋人ってだけでも充分問題だってのに永住するですって?
ちょっとゼルちゃん聞いてんのっ! なーにがサヨナラコンサートよっ。あんたはねっ、ウチの看板なのよっ。そ
りゃ確かに飛行機使いや、たかが七時間の距離だわよ。それにしたって…ああもう信じらんないっ、よくもまぁそ
んな金のかかること考えつくわよねっ」
妙にオネエ言葉が似合うゴツイ巨漢が大声を張り上げる。ゼルはどこ吹く風だ。
「だから、交通費くらい稼ぐっつってるだろ榊ちゃん」
「ったりまえよっ! 島から出たらあんたに自由なんかないからねっ。目一杯スケジュール詰めてやるから覚悟し
ておくんだねっ」
ぎゃんぎゃん耳元で喚くマネージャー兼、悪友の言葉を聞きながらゼルは窓の外を見ていた。眼下には紺碧の美し
い海が広がっている。その中央にある小さな島に彼の恋人はいるのだ。
半月も片時も離れず側にいたのに、自分からはたった一度しかキスしてくれなかった頑固で潔い恋人。泣き腫らし
たような真っ赤な眼であっさりと別れを告げ背を向けてしまった冷たい恋人。
そのくせ、その背が震えていた誇り高い寂しがりやの恋人…。だからゼルは何も云わなかった。手続きを済ますの
にどれだけかかるだろうか。一週間? それとも一カ月? そう考えてゼルは思わず口元を綻ばせた。
大丈夫だ。あの人はどこへもゆかない。今度こそ俺を待っていてくれる。島で見た夜空の星のような輝きを瞳に
浮かべて、やっぱりお前は莫迦だと笑うだろうか? それとも怒るのだろうか。できるならあの時のように笑って
欲しい。あの国の太陽にも負けない明るい笑顔で。
ふたたびまみえる日を想像してゼルは微笑んだ。
「なにへらへら笑ってんのよっ、この万年発情男がっ」
怒鳴りつける友人にゼルはすましてこう答えた。
「カユン?…って云われたんだ」
「へ…?」
「一度きりだけどな…。だから俺は戻ってくる。あの人のもとへ…そう、俺たちには、翼が有るから…」
一体幾人の男が望むのだろう。その言葉を。大らかな国の優しい女達はゆきずりの男達にもそう云って、熟れた
体を開く。けれど、聖天使からその言葉を口にした者はおそらくひとりもいないだろう。神々の庭で巡り会った恋
人はそう云ったのだ。
カユン? 私が欲しいの?…と。
終わり。
2003.10.12(日) UP
●top ●index ●novels ●gallery1 ●gallery2 ●notes ●otehrs ●link ●BBS