忘 却 の 罪 科 

- 翼 有 り し 者 た ち -  第 一 話

原案:崎 続 / 構成&文:J I N

 1

 荒涼とした大地がどこまでもどこまでも続いていた。眼下に広がる殺伐とした光景…。辺りは

不気味な静寂に包まれ、時折吹きおろしてくる肌を突き刺すような冷たい風と、天で身をひるが

えす怪鳥のかん高い鳴き声だけがこの世界に変動の兆しを見せていた。

 これが彼の生まれ育った世界だ。

「王子、ゼル王子、どちらにおられます?」

「カイム様がご帰還なされましたぞ。お出迎えを願いまする」

「王子、どちらにおいででございますか」

かしましい呼び声に彼はいまいましそうに舌打ちをして、彼は城壁に寄りかかっていた半身をゆ

らりと起こした。背を覆わんばかりの雄々しい翼がバサリと揺れる。

濡れた輝きを放つその翼は恐ろしく見事な漆黒の闇の色をしており、この地に差し込む天界のか

すかな光りさえも吸い込んでしまいそうだ。

そしてまた彼は、双翼にひけを取らない見事な体躯をしていた。さもあろう、音に聞こえた王族

一の美丈夫だ。

風になぶられるままにしておいた長い髪は、高貴な出自に相応しく背中でゆるく結ばれ、まるで

大蛇のようにうねうねと床に広がっている。その額の中央には王族のみが身につけるセルクルが

輝いていた。

無造作に散った前髪の下に覗く伏し目がちの瞳は、凍てついた北の死海か、はたまた永久に溶け

ぬと云われる霊山の樹氷か、ひどく冴え冴えとした光を浮かべている。

かの地は今でこそ魍魎共の住まう下賎の地ではあるが、かつては高貴な魂の依りどことして崇め

られたこともあるという。…二万年も前の語りだが。

「ここだ。喚かんでも聞こえる」

胸に響くつややかな声音で彼は応じた。その声音を一時でも我が物とできるならば、恋しい男の

心の臓ですら捧げる女は数多かろうと云ういわくつきの美声だ。

「おお、こちらでしたか」

開け放たれた扉の向こうから姿を見せたのは、彼の幼き頃より養育者としての命を下された侍従

長だった。数多の戦火をくぐり抜けてきたに相応しい逞しい体が、長衣の上からでも容易に見て

取れる。背中で閉じられた翼こそ老いてすさんでいるが、顔は若々しく眼光の力強さは彼がまだ

充分剛の者であると知らしめていた。

「カイム様がお戻りにございまする。お早く広間へおいで下さい。皆様方はもうお集まりにな

っておられますぞ」

侍従長の諌言に彼は秀麗な眉をひそめて、まるで自嘲するように低く笑った。

「は、云うてくれるわ。妾腹の俺を待つ者などおるまいに。…そのほうも少しは賢くなった方が

よいのではないか? ジェガン」

「またそのような戯れ言を」

ジェガンと呼ばれた厳格な侍従長はいかつい顔をしかめて叱責した。猛禽類の如き瞳は眼光鋭く、

髭や濃い眉も翼も黒炭色をしている。

「宜しいですか、貴方は仮にもこの魔界の第三王子なのですぞ。いつまでも子供じみた事を申さ

れますな」

「ああ解った解った。そう耳元でがなるな。今日は気分が悪いんだ。そのほうのダミ声を聞かさ

れるとますます気分が滅入る」

案の定、王子はしゃあしゃあと云い、肩をすくめた。

誰が気分が悪い、だ。そんなやわな神経ではあるまいとばかりに侍従長は尚も続ける。

「お待ちなされ。そのようななりでお出ましはなりませぬぞ。肩布もせず帯剣もせずとは王族に

あるまじきお振る舞い。ご身分をわきまえなされ」

「身分、ねぇ。身分、身分、何が身分だというのやら。どうせ不肖の俺なんざが出たところで喜

ぶ者などおるまいにご苦労なことだ。……まぁよいわ。ここはそのほうの顔を立ててやる。先に

参れ」

その言葉に侍従長はようやく満足したらしく、うやうやしく礼を取ると踵を返した。 誰しもあ

らがい難い相手というものがある。王子の場合、それが侍従長だった。

もうとうに妻を娶り、子を育てあげていてもおかしくはないであろう齢でありながら、浮いた噂

のひとつもないままに独り身で通してきた男である。

口さがない侍女達は、それが第三王子の生母であり王の妾であったマヤ姫ゆえだと囁きあってい

るが真実のほどは誰にも解りはしない。マヤ姫は側室にも迎えられなかった豪族の娘だ。姫です

らない。

 そのマヤ姫の面影をそっくり写し取ったような第三王子。その名をゼルと云う。容姿こそは魔

界の王族の血を引くだけにゾッとするほど美しい王子だが、誇り高き戦士の魔界の国の王子にあ

りながら、ひがな一日竪琴をかき鳴らしている変わり者だ。もっとも本人はそんな評判などどこ

吹く風とばかりに聞き流していた。彼は剣が苦手なのでもなければ殺生が嫌いなのでもない。そ

れどころか血の匂いはそれだけで全身の血を高揚させ、精神を充足させる。魔族とはそういうも

のだ。

なのになぜ戦列に加わらないのか……気が向かないだけだ。いや、そうではない。理由は解って

いる。兄達と共に剣など取りたくないだけだ。

 由緒ある血筋の子である兄達は側室にもなれなかったマヤ姫を蔑み、その子でありながら第三

王子の身分を与えられているゼルを疎んじていた。

いや疎んじているなどという生易しいものではない。あれは憎悪にも近しい感情だ。いつだった

か天界との戦の折りに、そなたならどうすると王に問われ、誰をもが考えつかなかった大胆な兵

法を披露したのがその一因だったのか、あるいは様々な妨害の中で武勲を立てたのが原因だった

のか、彼は並み居る王侯貴族の中でただ独り孤立していた。味方などジェガンを除いては一人も

いなかった。

 ことに長兄のカイムは、感情もあらわに激情をぶつける長女ミレディとは違い、慈しみを浮か

べた仮面の裏で、ゼルを亡きものにしようと常にあらゆる手段をこうじている。いくら魔族が不

死に近い肉体を持っているとはいっても無防備な背中から剣を受ける気にはなれない。

もっともゼルは彼らを恐れているのではないが。

彼にとっては王子という立場さえ疎ましいばかりなのだ。ゆえに愚かしい真似をする気になれな

いだけだ。常は竪琴を奏でるだけのゼルだが、剣を持たせればおそらく国一番の使い手と戦って

もひけは取らないだけの腕は持っている。

そういう斜に構えたところがこの王子にはあった。だからこそより憎悪されているのだが。

 そんな中で彼は渇望していた。物心ついた時から何かを待っていた。

何を……なのか、永い刻はそれからも闇の彼方へと追いやってしまったのか、今では彼自身です

ら解らなくなってしまった。

殺戮と蹂躙に彩られた世界で望むものなどあろうはずがないのに、地位と権力、そして類い稀な

才能と美貌の王子に不足しているものなどあろうはずがないのに、それでも飢えは黒い心の臓を

鷲掴みにする。

希求してやまない何かがあるような、そんな気がしていた。

何も彼の心を揺さぶらない。ゼルの関心を買う為にその美しい肉体を惜しげもなく差し出す令嬢

達も、妾腹でありながら王に一番気に入られている王子に追従する貴族達も、美しい宝剣や見事

な手織りの絹も、彼にとっては何の意味もなかった。

むしろ煩わしいだけだ。だからすべてに背を向けたのだ。傲慢に冷酷に振る舞う王子に周りがど

う思おうが意味などないのだ。

それが更に己を孤立させると判っていても構わなかった。


 2

 広間には出仕を許されている貴族はもちろん、王族さえもが顔を揃えていた。

中央の玉座に座っているのは父王、その隣には正室の妃、そして居並ぶ王侯貴族の顔触れはいつ

もと変わりはしない。

そんな中でゼルが姿を見せると、たった今まで勝利の凱歌に酔いしれていた彼らのさざめきにひ

やりとしたものが降り落ちて、瞬間辺りを凍てつかせた。そのくせ彼らの視線はゼルの容姿に熱

っぽくまとわりついてくる。

ぶしつけな好奇に満ちた視線だ。むろん彼らとて第三王子であり、いずれは己が主人にさえなり

かねない美貌の王子をじろじろと眺めたりしている自覚はないだろう。

ただ視線が吸い付いてしまうのだ。

「随分、遅かったのだな」

重々しく口を開いたのは父王だった。

「これはこれは父上。不肖の息子でも覚えていて下さいましたか」

不遜としか云いようのない言葉に周囲の気がキリリと震える。うやうやしく膝を折り、礼を取っ

ているものの、彼の態度は父王を前にしても傲慢ですらあった。

王はいかめしく眉を寄せたが、諦めたように苦笑を洩らした。

「………まぁよい。こたびはそなたもご苦労であった」

「何を申されるのかと思えば。私は何もしておりませぬ。して我が兄上はいずこに? 戦勝のお

祝いを申し上げねばなりますまい…」

「戦勝の祝いとは殊勝な心掛けだな、ゼルよ」

ふいに響いた声に王侯貴族達がはっと顔を上げた。ゼルとよく似た、だが全身から穏やかな気を

発する美貌の青年が広間の入り口に佇んでいる。長兄であり第一王子のカイムだ。

「あいかわらず昼行灯を決め込んでいたの? は、いい気なものね」

後ろに続く長女であり将軍であるミレディの陰湿な声が宮廷に響く。

美麗な容姿だが、殺気に似た厳しさしか彼女からは伝わってはこない。会見の場でもドレスでは

なく、緋色の装飾の甲冑を着用し、漆黒の髪さえ短く切り込んでいる。長兄の為の剣、長兄の為

の盾、そして毒。それが彼女なのだ。それから選りすぐりの側近達が控えている。

(相変わらず腰ぎんちゃくを引き連れてのご登場か)

長兄の優美な姿に感嘆のため息がそこかしこに広がってゆく中でゼルは顔を伏せた。口元に浮か

んでしまう嘲りの笑みを隠すためだ。

「これは兄上。こたびの戦もご戦勝の運びとか…。心よりお祝い申し上げまする」

「いや相手に歯ごたえがなかっただけのことだ。それよりそなたもたまには戦場にでてはみぬ

か? そなたほどの腕前の持ち主が城の護りではさぞや退屈であろう?」

「滅相もない。私は竪琴をかき鳴らすくらいが精々の脆弱者ですので、兄上の輝かしい経歴を穢

れさせては一大事。留守居くらいが妥当かと…」

勇猛果敢、鬼神の如しと称される王族の直系とも思えないゼルの返答にカイムは苦笑を禁じ得な

かった。

(腑抜けの真似をするなら翼くらいそれらしく染めればよいものを…。)

『魔界広しといえど他に比類なき翼』とまで云われた見事な双翼の持ち主の言葉とも思えぬ返答

だ。

 いかに翼が闇の色を有しているか…それが魔界での基準になる。つまり足下でしおらしく膝を

折っているこの第三王子はそれだけとぼけているというわけだ。

「……食えない奴だ。まぁ戯れ言はともかく、こたびの戦ではそなたに土産を用意した。後で部

屋に届けさせるゆえ好きにするがいい」

「……土産…?」

カイムの言葉にさすがにゼルも二の句が継げずに考えてしまった。

今度はどんな嫌がらせなのだろう。物心ついた頃から毒蛇やこの付近では見かけない獰猛な獣を

けしかけられ、食事に毒を盛られたのも一度や二度ではない。懐疑的にならない方がどうかして

いる。

「そう不審な顔をするでないわ。ほれ皆が怯えておるではないか」

「いえ…しかし、私は何の働きもしておりませなんだ。兄上のお心遣いは嬉しいのですがそのよ

うなご配慮には及びません」

「なにを云う。戦の折りに城を護るも王族の務めだ。……それとも私からの土産など受け取れぬ

か?」

薄く笑みをたたえたカイムの言葉にゼルは内心舌打ちをした。周囲の貴族達は興味深そうに兄王

子と第三王子のやり取りに耳をそばだてている。口が裂けても受け取れぬとは云えない。

「…お心遣い、感謝に耐えません。有り難く頂戴いたしまする」

そう云うしかなかった。たとえそれが彼を陥れるための策略であろうとも、居並ぶ王侯貴族達の

前で無下に断るわけにはゆかないのだ。


 3

 捕らえられてからどれほどの時が流れたのだろう。醜悪な姿態で詰め寄る下級妖魔の拷問に、

「囚われの戦士」は堅く唇を噛み締めていた。

四肢に絡み付く蔓は一見柔らかそうに見えるが、その実ひどくザラついていて伸びきった両手足

に深々と食い込み、その先端からじわじわと痺れが伝わってくる。全身に荊の毒素が回っている

のだ。

 滑らかな胸を覆う白銀の鎧。槍と斧を組み合わせた紋章がある。彼は戦士の称号を持つ天使だ

った。終わりなき天魔の大戦。その天界側の先鋒が彼等だ。黄金の髪も澄み切った蒼の瞳も持っ

てはいなかったが、太陽の加護を受けた者のように見事に灼けたブロンズの肌が魅惑的な少年天

使だった。

そしてその背にはシルクのような肌触りの双翼があった。発光する純白の、見事な翼だ。まさに

上級天使のそれと同じである。

短かめの髪は枯れ葉のような淡い木立色をしている。それでも陽の光を受けるとかろうじて金色

に透けている。その不安定さがどこか他の天使とは異なって見えた。

 だがその瞳は。蒼にはあまりにも程遠く、不幸なことに魔族と同じ闇の色をしていた。上級天

使の翼と魔族の瞳……完全な亜種である。或いは、何者かの意志を顕す突然変異だったのかもし

れないが。

 しかしその見事な翼も今や汚泥に塗れ、荊の蔓に戒められていた。翼と同じ純白だった長衣は

無残に引き裂かれ、なめらかな褐色の肌は痛ましいばかりに傷つき、生々しく血が滲んでいる。

漆黒の瞳には何が映っているのか、異形の下級妖魔の拷問にただ眉を寄せて、苦痛を耐え忍んで

いた。どんなに苦しくても、この程度の拷問では彼の望む死は訪れてはくれないのだ。

 天使も魔族と同様に限りなく不死に近い生を持つ。もっとも『死』が存在しないわけではな

い。生ある者は必ず終焉を迎えるものだ。そして天界と魔界、そのふたつの世界に共通した

『死』とは『無に還る』ことだ。

髪の一筋すら残らない完全な『無』…それは生ある者なら誰しもが感じる惧れだろう。だが中に

は変わった天使や妖魔もいないではない。

『ある方法』で自ら魔界に入り、魔族となった天使や妖魔達がそうだ。同胞を裏切り、己が世界

を捨ててゆく彼らに待ち受ける運命は、恐ろしく苛酷だ。かつての仲間からは憎悪され、これま

での仇敵からは蔑まれ、そして得るものと云えば青白い肌と黒い翼。それも真性の魔族や天使達

のように美しい容姿ではない。

四つ足で荒野を駆る獣のような姿になるか、或いは腕を触手にして血を啜る吸血植物のような姿

になるか、いずれにしても醜怪な者の多い魔界でも眼を背けずにはいられないほど浅ましく醜悪

な容姿を持つ異形の者へと変化してゆく。

それでも堕ちてゆく者は後を断たない。どちらの種族にとっても苦々しい事実だ。

 荊の洗礼を受けた少年は薄れゆく意識の傍で、自分が何者かに引きずられているのを感じてい

た。噎せ返るような獣の臭い。

「ゴアァアア…」「ギギィッ」

その妖魔共が口々に騒いでいる。鳥のクチバシに似た口蓋の魔物は発音がはっきりとしないので

聞き取りづらいが、どうやら彼を誰かに献上するようなことを云いあっていた。

喰われるのだろうか、と思う。階級の低い人間をも喰らう妖魔にとって、天使の血肉はそれ以上

に美味だという話だ。

(いや、それもいいかもしれない。)

少年はひとりごちた。

天界一の剣客などと云われ、すっかりのぼせ上がった揚げ句がこの様だ。おめおめと生き恥を晒

すくらいならいっそ形も残らぬよう喰われてしまった方がマシかもしれない。そう思い、だが彼

は慌ててその考えを打ち消した。

脱出の機会がないわけではない。事実、古い記録には残されていたはずた。魔界に捕らわれなが

ら自力で脱し、天界に舞い戻った天使の存在を。

いつか…いつか戻れる日がこないとも限らない。それまで生き抜いて……。

そんな天界の戦士の心を見透かすように妖魔共は笑い続けていた。

 その部屋は宮殿の一番西に位置していた。長い回廊を渡ったその向こう岸。立ち込める邪気は

生半可なそれではない。相当な身分の者の部屋に違いない。

妖魔が何事かを伝えると、重々しい扉がゆっくりと開き、中からいかつい顔の男が姿を現した。

少年を一瞥して、憎々しげにギロリと睨む。

「これがカイム王子どのの云われた土産か…。あの方は、どこまで我が王子を…っ」

あとは言葉にならなかったようだ。下級妖魔の手から荊の手錠を受け取ると、荒々しく少年を引

っ立てた。引きずり上げられ、乱暴にあごを掬われる。

「ようこそおいでなされた。聖天使どの。魔界のもてなしは麗しき御身にはちときつうございま

したかな?」

「………」

言葉に煮えたぎるような憎悪が込められていた。むろん人間界…突き詰めれば施政権なのだが…

を巡って数世紀の戦いの相手である。好意なぞ寄せられるはずもないのは承知していたが、彼の

言葉からは単なる仇敵に対してではない怒りのような波動を覚えたのだ。

「貴公の身柄は我が王子、ゼル・アスラム・グランディア様の預かりとなり申した。先にご忠告

申し上げるが、ゆめゆめ逃亡を企てたりはなさらぬ方が御身のためですぞ。我が王子は大層気性

の激しい方ですからな」

云うなり、男は片腕で少年の背を突き飛ばした。体力を奪われた彼はそれだけでも立つことすら

できない。情けなくも床に崩れ落ちてしまった。

「……っ…」

傷ついた身体を床に打ち付け、全身に凄まじい激痛が走る。だが悲鳴を上げることだけは何とか

こらえた。

魔界の王族ともなれば天使で云うところの天使長にも値する。だからといって卑屈になる必要な

どどこにもない。しょせん魔族は魔族だ。その仇敵相手に無様な真似など見せはしない。少年は

誇り高き聖天使だった。

「ジェガン、兄上の土産とやらは何だった…」

ふいに声が降ってきた。見上げた先に、男がいた。一瞬、少年を捕らえた、かの王子かとも思っ

たが、その考えはすぐに消えた。印象があまりにも違う。

まだ若い男だ。彼と同じくらいか、或いはもう少し年長か。

背を覆う漆黒の、水辺からあがったばかりのように濡れた色合いの、見事な双翼。

その翼に映える銀褐色の長い髪は、まるで女神のそれのようにうねうねと床に広がっている。そ

して切れ長の、まさに闇の魔王の名に相応しい冷ややかな双眸。

肩布こそしていないが正体はすぐに解った。魔の国グランディア家の第三王子だ。額には王族の

みが身につけるセルクルが輝いている。

 世事に疎い聖戦士でさえも何度か噂に聞いたことがある。神をも恐れぬ美貌を持つその王子の

噂を。彼の甘言によって堕ちた天使がどれほどいたことか。そのくせ戦には参列せずに竪琴で心

をかき乱す変わり種の王子…。

だがどの言葉も真実を語ってはいなかった。

凄絶なまでに美しい……その表現も今ならうなずける。確かに冴え冴えとした美貌と凍てついた

ような眼差しは、誰をも魅了し、虜にしたことだろう。天魔戦役に出兵以来、どんな相手にも臆

したことのない彼ですら一瞬それが生きている者とは思えなかったくらいだ。

だが、なんと…なんと哀しい瞳をしているのだろうか…。

囚われの立場も忘れて彼はそう思った。それがゼルに対する印象だった。

もっともそれは思い違いだったのかも知れない。バサリと翼を鳴らしただけで彼は冷ややかな仮

面をその端正な顔に張り付けたのだから。

「……聖…天使…? 名は…?」

かすれたような声音でゼルはつぶやいた。誰に尋ねたわけでもない。ただ口をついてしまっただ

けの言葉だ。不思議そうな表情で手を伸ばしてくる。

「……我は天界聖騎士隊が戦士、…ティア。…汚れた手で私に…触るなっ……くっ… 」

細い声が響く。膝を折って伸ばされた手を払いのけ、キッと睨み叫んだ途端、少年は息も止まる

ような激痛を背に受けた。後ろにいた男が荊の鞭を締め上げたのだ。

ティアと名乗った少年兵は苦悶の表情を浮かべたまま、すでに意識を失っていた。ゼルが青白く

長い指で肩を抱き、胸の鎧を外した。ゆるやかな膨らみが服の上からも見て取れた。

「! ……女か。」

 傷付いた「少女」の顔を、闇色の瞳は静かに見下ろした。


 悠久の時。渾沌とした地の果て。はたして光と闇は出逢い、悲劇の幕は開こうとしていた。

「忘却の罪科」という名の。

                                     第ニ話に続く


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