長篇ファンタジー。 

 幼 き 反 逆 者

- 序 章 -

作:崎 続(さき つづく)/構成・文:J I N


 …静寂と沈黙のなかで雨がふっていた。

凍てつくような雨は、音もなく僅かに盛り上がった土のうえに染みこんでゆく。冴え冴えとした

大気があたりを包み、雲に霞む月が心もとない光を投げかけるだけの世界。

 かすかに犬の遠吠えが聞こえる。その声はどこか哀しげな響きをもって雨の中に溶け込んでいっ

た。そこは、死をつかさどる闇の世界。人の言うところの墓地であった。

 その一画に真新しい土が盛られただけの墓があった。墓碑名もない。まだ埋葬したばかりなのか

も知しれない。だが、それだけ雨がふっているにも関わらず、そこだけが妙に乾いていた。

 そして、その土は静かに天に向けて舞い上がった。ふいに雷鳴が轟く。舞い上がる土は激しさ

を増し、その一画に渦をまいている。

その中にそれは、いた。かすかな月の光と雷光が空中に浮いたその姿を克明に照らす。

 …女だ。狂気を含んだ黒い双眸。体内の血をすべて抜き去ったかのような青白い肌。そして、肌

より白い髪。生気を失った長い髪は、天に向けて揺らめいている。女の腕には、何かが抱かれてい

た。子供、いや胎児だ。あと三月もすれば世に誕生したはずの胎児である。大事そうに白い布にく

るまれた胎児は眠っているようにも見える。だが、やがて思い切るように顔を上げ、女は胎児を静

かに土中に沈めた。離愁を湛えた端正な横顔が雷鳴に浮かび上がる。

そして女は呪いの言葉を吐きながら立ち上がった。

「…おのれぇぇっ。…よくも、よくも! この屈辱、この恨み、忘れはせぬぞ。…皇妃レイラよ。

大臣たちよ。たとえこの身は業火に焼かれようとも、いつの日にかお前たちに生きたまま地獄を見

せてやるわ。覚えているがいい。わたしは死にはせぬ。うぬらにあらゆる災いをもたらす日まで

は!」

その言葉と共にまた新たに髪が逆立った。しかし、その瞳に狂気の色は…もうなかった。怒りに燃

える双眸だけが雷光に照らされているだけだった。

 その時、生きたまま葬られたはずの女が立てた誓い、それはやがてふたつの国をまきこんでの悲

劇を生み出すことになるのであった。



 翠豊かなアビス。母なる偉大なレーンの河を基点に栄えし国。東の草原フェルシアは、どこまで

も広がり馬や牛、そして羊が大地の恵みをうけて戯れる。西のレーンに沿ったティノーには、穏や

かな気候のもと果実や作物が絶える事なく実り続け、領民は、争いを知らず、安穏な中に身を委ね

ていた。

 そのアビスの中心、石造りの街セーラムの小高い丘の上に位置した王宮は、地方の城には及びも

つかぬ優美な姿をしていた。

王宮の奥庭は、帝王レーヴァス・ライゼ・フォーミッドの后レイラが特に愛でた、城の中で一番美

しいと評判の高い庭である。手入れのゆきとどいた樹木があちこちに植えられ、ゆるやかに滝落と

す池の隅には小さなつるバラが、そのたおやかな両の腕をせいいっぱいに延ばしていた。

 その中庭を一望に臨めるベランダの近くの椅子に少女はいた。年の頃は十四、五というところ

か、いまだ開かぬ蕾のような娘だ。だが、妙齢になったならどれほどの女性になるのかと思わずに

はいられないような底知れない美貌を秘めた娘である。

 つややかなに波打つ亜麻色の髪をゆるやかに結い上げ、頭上でとめたベールに可憐なうなじが透

けて見える。濃い影を落とす睫にふちどられた双眸は、まるで葡萄の実か紫水晶のようであり、肌

は、噂にきいた北のほうの国の霊峰に在るという雪より白く、頬は桜の花弁を混ぜたかのような色

をしている。かすかに開いた唇は朝露を含んだ淡い薔薇を連想させた。

 真珠を縫い込んだ薄紅の絹のドレスは斜めに重ねられ、ふくらみかけた胸が微かに覗き、胸に

は、深紅のルビー石を中央に真珠を繋いで作られた首飾りがかかっている。ゆったりとしたドレス

は足まで覆っているが、露出した手が華奢で可憐な肢体を容易に想像させる。頭の先から足の先ま

でもが創造した者の確固たる意志を感じずにはいられない。

 そして、その白い額には、彼女によく似合う細い銀細工のセルクルがあった。高貴な生まれなの

だろう。この国でセルクルを身につけるのを許されているのは貴族か、あるいは王族に準ずる者の

みであるのだから。

 だが、少女の瞳はなぜか物憂げで、砂風にけむる果てをみていた。やがて思い出したかのよう

に、手にしていたたて琴を奏ではじめた。

 美しい音色が辺りを漂う。風にそよぎ、花とたわむれるような、なんとも美しい透き通るような

音色である。ただ、どこか物哀しげで聞く者に涙をさそうような、そんな楽でもあった。

 少女は、小さくため息を洩らした。

「…どうなさいました? 姫さま。」

ふいに声をかけられ、少女はハッとしたように振り返った。

そこにいたのは彼女の侍女、ヘレナ・ヴォードであった。少女よりは四、五歳年長のようだ。少女

を咲きかけた華とたとえるならば、彼女は陽光を吸って木陰を造る樹木にも似た穏やかさがある。

が、それも外見だけだろう。濃い眉、きりっと結んだ口元が意志の強さを物語っていた。

 「さきほどから心ここにあらずとお見受けいたしましたが、なにかご心配事でも?」

ヘレナは、静かにひざまづきながら続けて云った。夜の闇にも似た漆黒の髪の下の黒曜石の瞳が心

配そうに曇る。

 少女は、気持ちを見透かされたような気まずさに僅かに頬を染めてうつむいたが、そこは、自分

の侍女に対してである。云うともなく消え入りそうな声で呟いた。

「…ヘレナ、わたくしは、あなたが羨ましい…わたくしには、あの方の御心が判らない。あなたに

は判っているのでしょうね…あなたには、何でも相談されるもの。」

「な、なにを仰せになります! 姫さま、わたくしごときを羨むなどとお戯れ言にも程がございま

しょう。皇子は、常に姫さまのことをお心にかけておいでではありませぬか。なにゆえにそのよう

なことを申されるのでございます?」ヘレナは驚き、また驚きゆえの怒りに頬を染めながらそう云

った。

 「心にかけて…そう、ね。でもそれは、わたくしがあの方の幼なじみで、また許婚だから…。わ

たくし個人を好いておられるのではないのよ。判らない? ヘレナのように剣が扱えるのならば、

もっとお側にいれるのに…」

少女はそう云いながら、すっと立ち上がった。足が悪いのか、僅かに曵いてベランダに寄り掛か

る。

 少女の名は、アストリア・デュマ・レーンといった。アビスの内務大臣グラティスの一人娘であ

る。その可憐な容貌は、遠い隣国に響き、また、彼女の奏でる琴の音は、病める者の心さえも癒し

てしまうとさえ噂されていた。にもかかわらず、少女はそのほとんどを城の奥深くでひっそりと過

ごしていた。

 「姫さま、そのようなことをおっしゃるものではありませんわ。皇子さまだけでなく、この国中

どこを探したとて姫さまに心を奪われない者などいるわけがありませぬものを。皇子さまがわたく

しごときにお声を掛けられるのは、姫さまの侍女だからでございましょう。それをお気にとめるな

どと。」

ヘレナは、諭すような声音で云った。不審が心底から沸き上がる。侍女ヘレナには、この多感な少

女のいうところの意味がよく判ってはいなかったのだ。

 自分よりも幾分年若の美しい姫。王族から外れているとはいえ、由緒あるデュマ家の一人娘で、

名だたる王女やその従兄弟たちと並んでも少しもひけをとらない物腰や器量を持つ、まさに生まれ

ながらの姫君で、そして皇子セプティオの許婚でもある。

常に控えめに皇子に寄り添い、琴を奏で、透きとおるような声で唄う姫がこともあろうにこの自分

を羨むというのだ。主に従うさだめのヘレナには、わかろうはずもない。

 アストリアは、微かにほほ笑んだ。しかし、それは彼女の云った言葉に納得しての笑みではなか

ったろう。云っても理解らない、といいたげな諦めの表情である。

そして、また遥かに眼を馳せた。

 ヘレナに何と云われても少女の気持ちは晴れなかった。どんな賛辞もアストリアの胸には響いて

はこない。

 原因はむろん皇子セプティオだ。

許婚だというに愛の言葉ひとつアストリアにかけたことがない。照れ臭さだけではないような気が

する。セプティオ自身がまだ子供なのだ。彼はすでに十八歳の誕生日を迎えようとしていたが、お

となしいアストリアと過ごすより剣に興じ、狩りを楽しんでいる方が性に合っているらしい。

もっともアストリアが訝しんでいるのはそういうことではなかったが。

 「アストリア、アストリアはおらぬか!」と、ふいに涼やかなテノールの声がふたりを背後から

捕らえた。

 扉の奥から凛々しい青年が現れた。

輝くばかりの豪奢な金色の髪。理知的な額にかかる金のセルクル。どこか傲慢な色を映す、しかし

眼も覚めるような蒼い瞳。襟の高いシャツに肩から葵い絹を掛けている。剣を帯びていないのが好

ましくもあり、またあまりにも不用心にも思われた。

 彼こそがこのアビスの次期帝王セプティオ・ライゼ・フォーミッドその人である。

蒼い双眸は、自信に満ちて一点の曇りもなく真っすぐに人を見据える。

それは、人を魅きつけずにはおかない不思議な色を湛えていた。

 「何だ、ここにおったのか。」

皇子セプティオは、笑いながらアストリアの手を取り続けた。さわやかな笑顔…何不自由なく育っ

た者だけが持てる邪気の陰りひとつない暖かな微笑み。また苦労知らずのそれでもあったが。

「街まで出てみないか。城に閉じこもりきりでは、気もふさごう。」

「でも、セプティオさま、今日の午後は会議があったのでは?」とまどいながら、少女は尋ねた。

「かまわぬ! どうせ私がおらぬからといって困るほどのことでもあるまい? 有能なる大臣グラ

ティスがいるではないか! そなたの父がな。」

セプティオは、おおらかに笑いながら云った。

 金の皇子とはよくも云ったものだと、侍女ヘレナは思った。

人の心を見透かす術を心得ているのか、アストリアのふさぎがちな気持ちを察して街へ連れ出そう

というのだ。

皇子らしい我儘も多いが、人の上に立つ人物に必要な才覚をもっているようにヘレナには見えてな

らない。多少、奔放すぎるきらいもあるが、その笑顔の前には誰も何も云えなくなってしまう。

まぁ、それも自分の主人、支えてやらねば独りでは歩けぬようなアストリアの婚約者とあっては無

理からぬことといえよう。

 「それに、先日の狩りの帰りにセーラムの町で見事な貝細工の店をみつけてな。そなたに似合う

ようにしつらえておくよう命じてきた。もう出来ている頃だ。どうだ?」

セプティオは、愛らしい少女の顔をのぞきこむようにしてそう云った。上目使いにふざけるセプテ

ィオに少女は思わずほほ笑んだ。

 「ま、セプティオさまったら…ええ、お供しますわ。」

アストリアは、クスクス笑いながら答えた。そして自分のたて琴をヘレナに預けた。

 その琴を受け取りながらヘレナは、少し眉を寄せ、皇子セプティオの後についてきたらしい従者

のセダという名の若者に目配せを送った。

セダは、咎めるようなヘレナの目配せに慌てて、セプティオの後ろに控え膝を折った。

 どうにもヘレナの視線が苦手らしい。勿論、セダにすれば自分の主人を案ずる気持ちは彼女以上

にあるつもりだ。何より名指しで側近に選んでくれた皇子に付くのは彼の誇りでもあり、彼の為な

らなんでも出来る。年齢的には、セプティオより下だが、苦労知らずの主人は危なかしくて目が離

せない。皇子に城を抜け出される度に側近としての技量を問われていた。

だが、しっかりと目付しなければと思いつつ、生来の気の弱さがつい頭を擡げてしまうのだ。セプ

ティオと同じ金の髪をもっていながら、時折それすらが疎ましくてならなくなる。むろんそれが自

分の情けない性分とは判っていたが。

 「おそれながら皇子、しばらくお待ちを。ただいま、肩布を取って参ります。それに誰か供の者

を…。」義務半分、権利半分といった風に進言する。

「要らぬ。たかが町にでるのに肩布など大袈裟だ。それに供など要らぬ。いつも云っているではな

いか。いずれこの国を継ぐ身なれば、町を視察するに何の不思議がある?。お前、この私に意見す

るつもりなどなかろう?」セプティオは、己が従者に視線を釘付けにして、彼が返答に困るように

真っすぐ見据えてそう云った。

 気の弱いセダは思わず黙り込んでしまった。いつものことだ。皇子の蒼い眼に覗き込まれるとつ

い我儘を許してしまいたくなる。皇子に声をかけられるというだけで気まぐれさえも許してしまい

たくなるのだ。皇子の側近としての贔屓目と云われればそうかも知れない。だがそんな何かが彼に

は備わっている。

もっともそれはセダに限らずヘレナ以外の人間は皆そうであった。セダは思わず口をつぐんで哀し

げな視線を床に落とした。

 と、すかさずヘレナが云い返した。彼女にはセプティオのそんな魔力も通用しないらしい。彼女

の母はセプティオの乳母でもあり、乳姉弟という気安さがつい主従の関係を崩させて過ぎた口を利

かせるのだ。もっとも今はその母も亡く、かつて王宮警護隊きっての戦士と呼ばれた父も他界して

いたが。

 「なりませぬ。先日もセーラムのはずれで盗賊に襲われかけたではありませぬか! まして姫さ

まをお連れになるのでしたら…。」

「ヘレナ! その話はよせと云っておいたはずだ。あの時とて供はならぬと申しつけたに勝手につ

いて来たのではないか! あの程度でいちいち騒ぐな。どうもお前はやかましすぎる。嫁の貰い手

がなくなるぞ。」

「皇子、わたしは女なれどこれでも戦士のはしくれ、からかうのはおやめ下さい。それに会議はと

もかくも、その後は歴史学のお時間でございましょう。姫さまはわたしがお連れいたします。皇子

が城を抜け出されてはセダが教育係のシーヴァどのに叱られまする。少しはご自重なされませ。」

 「そうなのか、セダ。…よし判った。」

済まなそうな視線が従者に注がれる。それなら、と云いたそうに唇が動きかける。

セダの顔がパッと輝いた。

しかし、ヘレナは彼の次の言葉を見越していたらしく渋い顔をしていた。

彼はにっこり微笑んで云った。

「シーヴァは私が叱ってやる。セダを叱るなとな。…そんな顔するな。今日だけだ。大目に見てく

れ。なんならお前が私の代わりに歴史学の講義を受けてもよいぞ。」

「皇子。セダを困らせて楽しゅうございますか? 今日だけなどと、今まで何度そのお言葉を申さ

れました?」ヘレナの言葉は容赦ない。

「ヘレナ、そう責めるな。遠乗りに絶好の日和だ。シーヴァにはお前から旨く云っておいてくれ。

お前なら奴も諦めるだろう。あ、とお前の供もならぬ。アストリアには私がついている。間違いな

ど起こさぬから案ずるな。この国で私の剣にかなう者がいるわけがなかろう? ま、お前ほどの使

い手がいるというのなら話は別だがな。お前は、アストリアの身の回りの世話と私の剣の相手だけ

をしていればよいのだ。私に意見は無用。私はもう子供ではないぞ。」

 セプティオは、それだけを言い残すと踵をかえし、おのおのの言い分を呆れたように眺めていた

アストリアの手を引いて出て行ってしまった。

「ったく、充分子供だわ。セダ、あなたも皇子の言いなりになっててどうするの。」

皇子に逆らえるヘレナの方がおかしい、とセダは思ったがそれを口にはしなかった。

「…仕方ない。セダ、すぐに警護長ダタールどのに伝えて。皇子がまたお忍びで城を抜け出された

と。私は、お二人の後を追うわ。門番などでは、おの方をとどめるなどかなわぬこと。姫さまがご

一緒の旨も申し上げるのよ!」ヘレナはそれだけを云い、すばやく自分のベールを取った。バサッ

と豊かな黒髪が腰を覆う。ゆるやかに編んであるものの結い上げてはいない。まるで戦士のなり

だ。そして彼女は唖然としているセダを残し、二人の後を追いかけて行った。

 暑い風がアストリアの頬を過ぎてゆく。城外へ出るというので慌ててまとった顔を覆うベールも

手で押さえなければ飛ばされてしまいそうだ。路の端に立ち並ぶ樹木が後方へと流れ、きらめくよ

うな翠が眼に染みる。

むろんセプティオも皇子の徴のセルクルを外し、いかにも貴族の子弟といったなりに変えてはい

る。だがセプティオには、やはり判っていないのだ。輝くばかりの豪奢な金髪と蒼眸を見れば、多

少目端の利く者ならば彼の身分も見当もつくということが。

 アストリアは、セプティオの広い胸に顔をうずめながら問いかけた。

「セプティオさま、何ゆえこのように馬をとばしますの?」

「ヘレナを巻くためだ。おそらく、またついてきていよう。あいつは、私が供を連れずに城を抜け

出すたびに後をついてまわる。ダタールの指示らしいが、侍女に守られねば外出もままならぬ皇子

など、民に笑われるだけではないか。あいつらには、それが分かっておらぬのだ。…ま、さりとて

ヘレナ以上に口うるさいダタールでは、ますます窮屈だしな。これでは何のためにセダを側近を選

んだか判らぬ。」

蒼い眼がいたずらっぽく笑っている。

 「まぁ、ひどい方。…ヘレナは、わたくしの侍女ですけれども警備の者の中ではダタールに継ぐ

剣の使い手。彼も心配なのですわ。セプティオさまの奔放なご気性が。」

アストリアは、呆れたように云い、また小さく笑い返した。

「うん、奔放とは云いようだな。ヘレナ流に言えば勉強嫌いの馬鹿皇子と云うがな。」

「ま、そのような。セダだって心配してましたのよ。自分の仕え方が足りないゆえにセプティオさ

まがヘレナに責められると。」

「そうか? そんなつもりはないのだがな。セダも気に病みすぎるのだ。ヘレナと私は乳姉弟の

仲、あの程度じゃ責められたとも思わんのに。」

「あの…程度ですの? ヘレナが聞いたら怒りますわ。」

 さすがにアストリアも呆れて彼の顔を見直した。精悍で、そのくせ優しい眼が行く手を見据えて

いる。皇子に意見など出来ない、と云ったセダの言い分も判る気がした。



 しばらく走ると、ふたりを乗せた馬は、ゆるやかな足並みになった。さすがに首都セーラムだけ

に街の賑わいは大層なものだ。むっとするような、人いきれが二人を乗せた馬の足を阻む。幾重に

も重なる人の波。人の吐き出す生暖かい風が熱気を孕んで、嬌声が喧噪の中に溶け込んでいる。

 セプティオは馬上から御するのを諦めてアストリアを乗せたまま雑踏の中に身を降ろして、その

覊を取った。

 甘やかな匂いの果実は、アビスの地方から届けられた物だろう。いや、果実だけではない。獣の

肉や野菜もある。腐敗を防ぐために塩漬けになっているようだ。もっともセプティオたちのような

身分の高い者が塩漬けの物など口にすることはないが。刀剣は、北の友好国ドグルの特産だろう。

黒衣に身を包み、青銅の肩当と足輪という、アビスではあまり見かけぬ奇異な身なりの商人がい

る。壷や貝製品、それに魚などは、隣の海の国ソルフィードよりの輸入品に違いない。

 むせ返るような活気があり、ところ狭しと声を上げている。

ベールを通してさえも美貌の程が窺える少女と凛々しい青年の二人連れに周りの視線が集中してい

た。中には露骨な、値踏みするような視線もあったが、そんな視線など意にも介さず、鞁を曳きな

がら歩いてゆく。彼らの存在自体がまるで一枚の絵のように人々の眼には映っているのかも知れな

い。かき分ける必要も無いほど人波はあっさりと分かれ、背後ではかすかな溜息すらあがってい

た。

 目指す店を見つけると馬をとめ、アストリアの手を取り、降ろした。少女は、不自由な足を庇い

ながら彼のあとに続いていく。

店の奥には、石づくりの入り口があり、その向こうにソルフィードの高価な品々が並べられてい

た。セプティオは、勝手を知った様子でその向こうに声をかけた。

「主、主はおらぬか? 私だ。頼んでおいた物はできているか?」

 その声に店の主人が慌てて飛び出してきた。

「これは、これは、セプティオ皇子さま。わざわざおでましにならずとも私共がお城にお伺いしま

したものを…ええ、ご注文の腕輪でございますね。できてますとも。」

 主人は、すぐさま奥にとって返しヴィロードの台に一対のサンゴの腕輪を乗せて、セプティオの

前にうやうやしく差しだした。折っている膝が震えている。さもあろう。いくら奔放な皇子とはい

え、まさか忍びでくるとは思わなかったのだ。先日注文に寄られた時など卒倒しそうになったくら

いだ。おそれおおい、と店主は思いながら反面、その頭では明日には王家御用達の看板を掲げよう

かと計算を巡らせていた。

 薄笑いの追従の裏に隠されたものなどに気づきもせずにセプティオは其れを受け取りアストリア

に差し出した。

薄朱の細い輪に銀でアストリアの家紋、水鳥の透かし彫りが施されている。華奢な造りにして見事

な細工、その可憐な出来は、まさにアストリアの為にしつらわれた物に違いなかった。

思わずアストリアは、ため息を洩らした。

「なんて、なんて見事な…これをわたくしに?」

「気に入ったか? そなたに似合うとおもうぞ。ああ、そうだ。主、それも貰おう。その緋色の指

輪だ。」

セプティオは、眼下でひたすら金の計算をしている男に、ふと目に付いた高価そうな指輪を指して

云った。店の主人は、満面ほくほくといった顔で緋色の指輪を差し出しながら世辞を並べたてた。

「さすがは、セプティオ皇子、これはまたお目が高うございます。これも姫さまの腕輪ほどではあ

りませぬが、この店ではなかなかの逸品でございます。これは、海の彼方の異国より仕入れた石よ

り造りました物。緋色は戦龍の瞳と申しますれば、剣技に誉れ高い皇子の御手ににさぞや映えるか

と思いまする。ただ、これは、女性用にございますので今暫しのご猶予を戴けましたなら…。」

「かまわぬ。私が使うわけではない。金は後で城に取りに参れ。」

セプティオは、男の大仰な手振りに呆れた様子で失笑を洩らし、そう云い残してアストリアの手を

ひいて踵を返した。

 セプティオに手を取られながらアストリアは、彼を見上げ思わず尋ねた。

その緋色の指輪の贈られ先を。

「ん? これか。ヘレナにだ。あいつは、化粧もせずに私の剣にばかり付き合ってくれるからな。

たまには指輪くらいよかろう。…なんだ。アストリア、妬いているのか?」

「いいえ、そのような…。でも、そう…羨ましゅうございますわ。」アストリアは微かに笑い、し

かし声を落とした。

 彼の答えは、聞くまでもなく判っていたような気がする。どうしてそんな気になったのかも解ら

ないが、どれほどに慕ってみても決して望むものは手に入らない…彼と同じものを見つめ、共有す

る事はないような気がしてならない。それは予感にも似た奇妙な感情であった。セプティオとの間

には何も阻むものなどありはしないのに。

「何をバカな、どうもそなたは、自信というものがないらしいな。」

アストリアを馬の背に乗せ、自分はその鞁を引きながら彼は、そんな彼女の不安など夢にも考えぬ

様子で楽しげに笑った。

そして、ふいに真剣な貌をして少女を見上げ、続けた。

「私がそなたと、ゆく末を誓ったのは、父王の命だからでも、そなたの父が我がアビスきっての切

れ者だからでもないぞ。アストリア、私はそなたが好きだ。そなたが笑っていてくれればこそ勝手

もできる。それでは足りないのか? 何を思い悩む? そなたは未来のアビス皇后になる身ぞ。」

「ま……そんなお上手。」

アストリアは、いつにない皇子の真面目なようすに言葉を失い、頬を染め、うつむいてつぶやい

た。周りには人目もあるというのにセプティオは気にもとめずに面と向かって愛の言葉を捧げてい

るのだ。

「私は、世辞なぞ云わぬ。さて、そろそろ戻るか。ヘレナが気を揉んでいよう。」

セプティオはアストリアの羞恥の理由にやっと気付いたらしく、ちょっと照れた様子で云い、さっ

と彼女の後ろに飛び乗った。

 その頃、城では大変な事件が持ち上がっていた。

「なんと、…なんと申したのだ。」

 謁見を申し出てきた国境警備の兵士に帝王レーヴァスは、蒼白になって問い返した。

早馬で駆けつけたらしい兵士は、息を切らせながら同じ言葉を繰り返した。

「はっ、隣国ドグルにて新しい帝王が名乗りをあげた様子にございます。先年よりの内乱が終結を

見ました上は、我が国にも戦争をしかけかねない勢いにございます。」

隣国ドグルは、昼夜休まず早馬で走ろうとも東のフェルシアからゆうに二十日はかかる国であっ

た。先年より内乱が起きているという噂は聞いていたが、ドグルの近衛隊や軍隊と言えば近隣諸国

に名だたる驚天動地の強兵揃い、帝王が代わるなど夢にもないだろうと思われていた。そしてま

た、かの国はアビスのように緑豊かではなかったが、広大な土地に金脈や鉱山を持ち、それを絶大

なる産業として栄えている国であった。他国に戦さを仕掛け、強大な領地を有してはいたが、アビ

スとは国交も長く友好を保っていた国である。数年前、病に侵され亡くなりはしたが、かの国には

レーヴァスの実姉セルシアが嫁いでいた。

 「して、王家の方々は、如何いたした! 一族の方々は?」王が問う。

「詳しくは聞き及びませぬが、帝王様と皇子さま方、姫さま方は、惨殺された由にございます。た

だ第三皇子の行方は不明なれど、おそらくご存命はなかろうかと…。」

 兵士の言葉を聞き終わらないうちにレーヴァスは、がっくりと肩を落とした。しかし、彼は、す

ぐに気を取り直し続けて尋ねた。

 「では、内乱はいったい誰が起こしたと云うのだ。あの強大にして平安な国に誰が争いの種を撒

いたと云うのだ?。」

 「はっ。ダーラム帝王様のお従兄弟にあたられるギルバ様とか申される方だそうでございます。

ご子息のレザーム様が先陣をきってこの儀をなされたようす。なにゆえかドグルの大臣方も賛同さ

れ、王族の方々に刃を向けたそうでございます。」

 「…よい。わかった。…大儀であったの。退ってよいぞ。」

レーヴァスは、苦悩に眉を寄せ、重々しく云った。

 彼は、その時、痺れるような恐怖を覚えていた。

 もしやこれが、かの予言の始まりではなかろうか。宮廷予言者ドーラの神託はこのことだったの

だろうか。かつて水晶を操る老婆は若き日の王に云ったのだ。


…此れより十数年の後の世に邪まなる魔物がこの地に降り立つ。

それは、闇夜を映す瞳と黄金の髪を持つ者。

それは、戦神ディーラと破壊神ギルディックの申し子。

魔物はアビスを業火のもとに焼き尽くす…!

                                  第一話「戦火」へ。


 あとがき

少し骨太で、少し叙情的なファンタジー。これも今までと違うジャンルです。もう一人の作者で

ある崎氏と一緒にゆっくり進めていくつもりです。感想など頂けると幸いです。乱文失礼致しま

した。

                               2002/03/04(月)序章 UP


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