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翻訳文献サロン:ルーの物語

 

   

出典:ルーの物語:ハンチントン病発症前後 掲載:JHDN-ML掲載:2000年1月10日(ML347)、11日(ML349)、22日(ML437)

ルーさんの経歴 :1949年11月20日カナダのアルベルタ州、ターナーヴァレイに生まれる。9歳までカルガリーに住んだ後、チュリニダードに移住、3年間を過ごす。カルガリーに一時戻るが、62年にオーストラリアのヴィクトリア州にあるアングレジアに2年間滞在する。その後カルガリーに帰郷。 手記執筆当時は48歳で既婚、19歳と21歳になる息子が二人に、ダフィーというプードルがいた。ピザ職人、カクテルバーのウエイトレス、秘書、セールスウーマン、不動産業者などの職業を経て、美術、英語、マルチメディアの教師を10年間勤めた。「ルーの話」は、詩編2作とともに、カルメン・リール著作の"Faces of Huntington's"に記載されている。

 ハンチントン病の遺伝子診断を受けた時の経験について書いてほしいと頼まれた時、そんなものを読んで興味深く思われるかどうかももちろん、誰かのために役立つものなのだろうかと迷いました。推薦された文献をいろいろ読んでみて、去年一年の自分の心境をただ書き連ねることにしましたが、それには背景にある状況も少し説明しなくてはなりません。とにかく出発点となるものが必要だったので。

 1995年8月・記

 少女時代、私は祖父の運転にびくびくしていました。兄弟と妹も、祖父のぎこちない運転が大嫌いでした。片足はアクセル、もう片方はブレーキにかけて、しょっちゅう両足一緒に踏み付けているみたいだったから。祖父はいつもピリピリして、短気でしたし、じっと座っていることができませんでした。そのうち、祖父の言葉は理解しにくくなってきました。祖父は若い時にアルコール依存症だったので、それが原因で神経を病んだのだろうと家族は思っていました。また、父と叔父もまたアルコール依存症だったので、彼らも、壁にぶつかりながら腕を振り回すようになるんだろうかと、私達は気を揉みました。父は54歳で亡くなってしまったので、もっと長く生きていたらどうなっていたかはわかりませんが、叔父は祖父と同じような症状を見せ始めました。これはアルコールのせいだと誰も信じて疑わず、叔父の主治医も同意見のようでした。私達きょうだい(訳注:兄、ルーさん、妹、弟)は全員、アルコール依存の傾向があるのをわかっていて、それぞれが戦っていたからです。私達が道を踏み外さなかった理由はただひとつ、叔父や祖父のようにはなりたくない、それだけでした。

 1993年、叔父がお酒をやめてから2年後、結核菌が体内の5ヶ所からみつかり、入院することになりました。病院で診察された時、叔父の症状がハンチントン病に似ていることに気がついた医師がいました。この病名は祖父の時にも疑われたものでしたが、遺伝子診断のない時代だったので、何の検査も受けなかったと思います。その時は家族の誰も、ハンチントン病のことを十分には知らなかったので、別に何も気にとめていませんでした。ただアルコールのせいだ、と考えていましたから。

 叔父は検査を受けた結果、ハンチントン病であることが判明しました。みんな叔父のことを気の毒だとは思ったけれど、その時はまだハンチントン病のことをよく知らなかったので誰も深刻に考えませんでした。叔母と話をしましたが、従姉妹がハンチントン病ことを説明する文献を医学記録から見つけて送ってきて、そこで私はやっと、自分にも遺伝している可能性があることをはじめて真剣に考え始めました。

 私は30代の半ばあたりから、なんとなく身体がおかしい、とずっと思ってきました。はっきりどこがどうおかしいとは言えなかったのですが、家族からは「叔父さんにそっくりだよ、不器用で忘れっぽくて」などと言われていました。確かにそのとおりで、それもだんだんひどくなってきていました。いつも眠りが浅く、いつでも動き回っていて、両足がじっとしていることがありませんでした。それに、生徒たちに教えている時、言葉が容易には出てこなくなり、1-2秒間、頭の中が空白になってしまうのに気がつきました。

 どんなに顔馴染みの生徒でも、その子の名前を思い出すのに苦労するようになってきて、こういうことは誰にでもあることとはいえ、余りにも頻繁すぎて気にせずにはいられません。内心気にしていました。

 転んだりつまずいたり、言葉に詰まってしまう時、私は、疲れていること、忙しくて頭が一杯なことなどで弁解する技術を覚え始めました。2度考え直したり、会合や約束を忘れないように何度も心の中で繰返したり、そんなことをいつもしていたような気がします。スケジュール表をチェックするのをしょっちゅう忘れていました。私の学校のスケジュールは一度に沢山、色々なことがあるので、整理するのが難しく、よく混乱していました(今でも混乱するけど、なんとかやっています)。

 ハンチントン病のことを知らされた時、自分がなることを心のどこかでわかっていたように思います。誰もが(夫と子どもを別として)それは私の取り越し苦労のせいで、もっと事態を悪くしているんだ、と言っていました。でも、夫は当時、ずっと私のことを心配して、この忘れっぽさとぎこちなさは「普通」じゃない、と思っていたようです。

 診断を受けようと決めるまでには、数ヶ月かかりました。私はなんでも徹底的に知らないと気がすまないタイプなのかもしれません。色々と拘りすぎて、気が狂いそうになる、思いつめるタイプです。夫と何時間も話し合い、叔母とも、叔父との生活はどんなものだったか話し合いました。叔父がハンチントン病で、アルコールのせいだけではなかったともし知っていたなら、叔母はあれほど苛立ったり、叔父に対して批判的になったりはしなかった、という話になりました。

 叔父は気分の起伏がとても激しく、殆どいつも暗くて険悪でした。誰に対しても寛容力ゼロで、そう指摘されたところで、耳を傾けることはありませんでした。怒りっぽく、すぐにフラストレーションがたまっていました。けれど、これは私も自分自身についても言えることでした。私は30代後半から抗鬱剤を服用し、感情の爆発を抑えるセラピーまで受けていました。叔母によると、叔父は30代から既に症状をみせていたのだそうです。

 私が診断を受けようと決心した理由は、叔父が退職した時には病気が進行しすぎていて、叔父夫婦の退職後のプランが実現できなかったのを見ていたからです。ゴルフも、もうそんなにできなくなってしまっていたし、恒例のアリゾナ旅行もかなり困難になりました。運転は、叔母ひとりで殆ど全部やっています。叔父はまだ67歳だというのに、じっと座っていられず、食べ物がつかえてしまうので、レストランで食事をするのは難しいのです。四六時中転んだりものにぶつかったりして、去年1年で肋骨と手首を骨折し、他にも体中アオアザだらけにしています。私も同じような感じですが、叔父よりは気をつけているので、骨折などはしていません。レストランに行くと叔父は酔っているのではないかと疑われますが、小さい町だから、今はもう皆、叔父に馴れてきたようです。

 私と夫は、もし私がハンチントン病だったとしたら早めに退職することにして、雪や氷のない、もっと気候がいいところに引っ越すことに決めました。さらに、叔父が周りの人たちから沢山の支援を受けているのを見て、移るとしたら小さい町のほうがいい、とも思いました。

 そのような経緯を経て、小児科病院の遺伝子部門に連絡をとり、面接を受けに行きました。ハンチントン病についてのビデオを見せられましたが、その後の面接内容のほとんどは、カウンセラー、精神科医、神経内科医から構成される私の担当チームについての紹介に終始し、診断の受け止め方などはあまり説明してくれませんでした。病気の内容についても大して情報が得られなかった感がありますが、単に私の理解力が当時はあまり無かっただけかもしれません。それで、私は自分で色々調べました。カウンセラーと精神科医には2度診てもらったが、神経内科医には、一度きりでした。彼らの関心は、検査結果をどう私が受け取るだろうか、ということに絞られているようでした。待機期間がとても苛立たしく感じられ、早いところ済ませてしまいたかったです。心の中では結果はもう分かっていて、ただその証明が欲しいだけだったから。私が自分の症状を説明している時、「そういった症状はハンチントン病に限らず、誰にでもあるんですよ」と言われて、とても腹立たしい思いがしました。その後もこの言葉は何度も聞かされて、私は怒りました。「この人達は、私がバカだとでも思ってるんだろうか。そりゃあ、こういっ たことは誰にだってある。でもだからこそ、ハンチントン病と判明していない人が沢山いるんじゃないか。こういった症状はいくらでも説明がみつけられるんだから。だけど自分のことは自分でわかる。45年間、この身体をもって生きてきて、しかも親族も2人、見てきたわけだ。私にはわかる」と。友達や家族がこの病気に立ち入ろうとしないのは理解できますが、「専門家」までがこんな態度だなんて思いもよりませんでした。精神科医だけは、「自分の身体のことは、自分自身が一番よく知っているものだよ」と言ってくれました。それはどうも、ありがたいことで、と私は思いました。他の人がどう考えるかは、どうでもいいんです。私がハンチントン病かどうかを他人がどう思うか、そんなことは重要じゃないのです。気のせいであったとしても、この気持ちと一緒に生きなくてはいけないのは私自身なのだから、なんとかしなくてはいけないという思いを強くしました。

 3ヶ月後、遺伝カウンセラーと神経内科医から診断結果をもらうために、またでかけていきました。夫と一緒だったけれど、やはり緊張してしまいました。結果を手にして、陽性だと分かった時、いろいろな思いがしました。神経内科医は、「ハンチントン病の遺伝子はあるが、発症しているとは限らない」と言い続けました。それはまるで、「少しだけ妊娠している」と言われたような、まったく判然としない状態です。彼女は、神経学的にみる限り、私はまだ症状をみせていないと言い続けました。私の足にチクリと刺したり、歩くところを観察したところから考えるに、症状が出ていない、と。私は彼女に何度も症状の説明をしたのに、それでも症状はないといいます。その時私が思い出したのは、陣痛が始まって18時間もたって、看護婦から「痛みと子宮の収縮はじきになくなるから家に帰りなさい、まだ子宮口が広がっていないから」といわれた時のこと。あれはこの世で最も酷い思いをした時です。あのねえ、この赤ん坊は私がどう思おうが出てこようとしてるんですよ!・・・今回も同じ思いがして、ただひたすら、この診察室から出て行きたいと感じました。感情過反応とはこのことでしょうか。でも少なくとも、私は 診断結果から確証を与えられて、自分の気が狂っているのではないことがはっきりしました。私が病気のどの段階にいるのか、医者がなんといってもそれは関係ないのです。何年もの間、自分の心に何が起こっているのか悩んだ末、今やっとその理由がわかったのです。


 それから数週間は、何もかも理性で解決しようとしました。この新事実を現実的に受け入れようとして、これからの生活をどうするかを考えました。家族と何人かの友達にこの事実を伝えました。そのほとんどの人たちは、私達が最初にしたのと同じ反応をみせました。「ハンチントン病って何?  どんな風になるの? 感染するの? 気にしなくてもいいじゃない、私もそういうことがある、誰にでもあることよ」。

 さらに半年間、私は言うこと為すことのすべてを、病気に結び付けました。叔父の姿を見ては落ち込み、手に入るものを片端から読んで徹底的に拘りました。最初のうちは同僚に話すのも怖かったのですが、一人一人となりゆきに任せて話していくうち、自然に殆ど全員に話したことになります。時には自分の過失を弁解するのに、この病気を言い訳にさえしました。精神科医を何度か訪れましたが、彼は「私の反応はごく自然なものだ」と安心を与えつづけました。考えてみると私が一番恐ろしかったのは、痴呆になって全く無力になることだったと思います。私は創作活動をするので、筋肉のコントロールを失うことがとても怖いのです。

 兄は当初、完全な拒否反応を起こしました。ハンチントン病については考えることさえしたくなかったようです。あまり親しくしてもいなかったこともあり、私も強制はしなかったので、彼は数ヶ月間放っておくことができました。妹は心配していましたが、再婚をひかえ、子どもがなく、経済的にも安定していることから、検査は受けたくないと言いました。検査をしたところで、今の状態にそれほど影響はないし、大体自分には症状がないと感じているからです。

 ある日、兄から電話がかかってきて、何故私が検査を受けたのかと聞いてきました。私は「夫と子どもたちのためよ。叔母が通らなくてはならなかった体験を彼らもしなくてはいけないから、受けたまでのこと」と答えました。夫には、未来に向けての心構えをする権利がある、と思ったからです。最初のうちは言うつもりがありませんでしたが、「検査を受けるかどうかはお兄ちゃんの自由だけれど、義姉さんと5人の子どもたちは人生を計画する権利があるんじゃないか」と言いました。それから2ヶ月とたたず、兄は検査を受けることにしたようです。今は検査受診前のカウンセリングの最中で、それ以来このことを話し合ってはいません。

 一番下の弟は検査を受けたいのだが、大きな町からとても離れたところに住んでいて、今のところ受けるのはあまり考えられないと言います。一番近い遺伝子研究センターはバンクーバーにありますが、そこまで19時間もかかるのです。

 私の友人はそれぞれいくつか違う反応をみせてくれました。親しい友達の何人かが、お母さんグマが赤ちゃんグマを抱っこしているぬいぐるみを持ってきてくれました。私の気持ちを慰めてくれるぬいぐるみで、それ以来私をとても応援してくれています。ハンチントン病について冗談を言い合って、お互いにとても自然にしていられる友人たちです。他には、完全に疎遠になってしまった人もいれば、ただの知り合いでごく普通に変わりなく私に接する人もいます。最初のうち、私を病人のように扱った人もいました。

 仕事のことが絡んでくると、私はかなり考え込んでしまいました。美術教育委員会の執行部にいて、それなりに野心もあったから、とても大きな喪失感に苛まれました。他にもいくつかの組織に所属して、今後やっていきたいことも計画されていました。当初私は、気持ちが散漫になっているし、どうせどうしようもないのだからと委員会の仕事を全部辞めるつもりでした。高校教師の地位を追い求めることをやめ、もっと安全な環境にいる方を選び、長期の障害が始まるまでそこにいる計画を立てました。怖かったのです。


 1996年7月

 あれからもう一年たち、現在高校教師の地位に就いていますが、委員会の仕事にも戻ろうと考えているところです。ある劇団に入団して、今度ディナーシアターをやることになっています。恐怖心は落ち着いたとはいえ、これはいつまでも心のどこかに残りつづけるだろうと確信してきました。それゆえに、精いっぱい生きなくてはならないこともわかっています。私と夫は、以前のようにのんびりとはしていません。人生をあるがままに楽しもうと努力しながら、物事を後回しにしないように意識して気をつけています。借りていた家を買い、生命保険にもっと加入し、将来に向けて具体的な目標を計画するようになりました。ゴルフを頻繁にやるようになり、この頃はガーデニングに凝り始めています。裏庭に金魚を入れた噴水付の池を掘ったのですが、二人とも気が滅入っている時にリラックスするのにとてもいい場所になりました。

 ハンチントン病が心のなかから離れていかないことは認めなくてはいけないけれど、今年に入ってからは、私を支配するものではなくなり、かなり落ち着きました。人生は続いています。

 遺伝子診断は助けになると思うけれども、3ヶ月の待ち時間は、殆どの人が悩んだ挙句に診断を受ける決心に至っていることを考えると、長すぎるように思います。もっと情報が入手し易くなるべきだし、患者の疑惑や不安を軽視してはいけないと思います。患者にとっての不安や恐れは、厳然としてそこにあるのですから。また、検査を受けた後だと保険に加入するのが難しくなったり不可能になったりするので、将来の見通しを立ててから検査を受けるべきだと思います。私にとって嬉しいのは、検査の前にもう子ども達がいたことです。検査後では、子どもをつくるかどうか、決心がつかなかったかもしれないし、子どもたちが大きくなってからでないと発病しないこと(少なくとも私の場合は)を考えると、息子達を持たなかったとしたらそれはとて残念なことだから。息子達は、私の立場をよく受け入れて、とても支えになってくれています。

 それに、もしハンチントン病のことを前から知っていたら、大学に戻って37歳にして学位を取ったりはしなかったかもしれません。そうしたら教師にならず、教えることが私にとって楽しいことだとは知らず、沢山の生徒に影響を与えることもせずにいたことでしょう。

 検査の前に考慮しなければならないことが沢山あるのだと考えると、診断前のカウンセリングは曖昧なところがない、徹底したものでなくてはならないと思います。最悪の事態は何か、検査の前に考えなくてはいけないことは何か、これは検査を受けようとする人が知らなくてはいけない事柄でしょう。

 追伸 これを書きながら少し泣いてしまいました。当時の不安や恐怖心を思い出して。たまには自分のことを可哀相に思っても、それは悪いことじゃないと思う。あのクマのぬいぐるみを抱きしめてきます。


 1997年5月

 この学期が終わるのもあと数週間後だなんて、信じられません。

 今年は私にとって、大きな一年でした。新しい仕事を始め、住み慣れた居心地のいい環境から離れたこともあって、病気のことについてことさら神経質になっていたようです。とはいえ、演劇に関わるようになり、ストレスが多いとはいえ楽しい毎日で、まるで人生の全部を短い時間の中に押し込めようとしているみたいです。

 症状は確かに進行しています。今年の始めと今を比べてみると、大きな違いがあることに気がつきます。今年はミオクローヌス(訳注:規則性のない不随意運動)の発作が多くて大変でした。薬をとらないと、一日100回以上になることもあります。薬をとっていても、弛緩しているときには、ギクリギクリときます。

 仕事場である美術教育委員会の執行部に、言うなれば「告白」をしました。私の雇用が安定していることはとても幸運だと思いますし、そういう保証がない人がどれほど不安で恐ろしい思いをしているかもよくわかります。今は病気のことを自由に話せますが、最初の一年は校長と教頭に隠し、私の実力を普通の教師として見てもらえるように努力しました。これは成功し、彼らは私から伝えられるまで病気のことには気づかず、「できるうちはここに教師としていつでも仕事がある、心配しなくてもいい、応援するから」と言われました。彼らは本当によくしてくれて、私はすごくラッキーだったと思います。

 インターネットのメーリングリストはとても助けになりました。沢山の人達と知り合い、その何人かとはとても親しくなりました。一人はハンチントン病の夫を介護している妻、もう一人はハンチントン病とは関係ありませんが、私のようにミオクローヌス発作がある人です。メーリングリストは、素晴らしい通気孔(息抜きの場)となっています。

 日記は続きます。神様に感謝します。


    

 

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