翻訳文献サロン:ジュリーの経験
出典:「ジュリーの経験」北西ランカシャー・ハンチントン協会 JHDN-ML掲載:2001年1月29日(ML436)
私の名前はジュリー・グリフィスです。18歳になります。レイランドに母のジーン、父のジョン、16歳になる弟のリチャードと住んでいます。母はHDで闘病中で、私が覚えている限りずっとそうです。今45歳です。
はじめてHDのことを知ったのは私が12歳の時だったと思います。父が私を呼んで、母がどうしたのか説明してくれた時、ショックではなかったけれどやはり受け止めるのは難しかったです。誰がみても、何かがおかしいことは明白でした。以前私は、母がどうして変な格好で歩くのか聞きましたが、「足が悪いから」という答えでした。あとで考えてみると、色々と説明がつくことになるのです。母は他の人の様子とは明らかに違っていたし、偶然か叔母も二人の叔父も似たような感じで病気でした。学校の友達は、「多発性硬化症なんじゃないか」といいました。何も聞かされてなかったので、私はそれを信じていました。
父の話を受けて、ある意味では気が楽になりましたが、母とそのことを話すことはできなかったし、弟にも教えてあげられませんでした。
それからほどなく、家の中が色々と難しくなってきました。母の挙動が家族の不安を誘うような、暴力的なものになってきたのです。何の理由もなく一晩中叫んだり悲鳴をあげたりして、私たちは眠れません。物を投げつけて、父に食い掛かっていきます。お金は全部母が欲しいものにつぎ込まれ、真夜中にチョコレートを買いに行くように言いつけられたりしました。母と一緒に住むのは不可能でした。
事態が悪化するにつれて、私と父は弟に告げることに決めました。容易なことではなかったけれど弟も事実を知る方が公平だと思ったのです。私個人は、母は病気なのであって、変な人や悪い人ではないのだとわかったところで、今起きていることを受け入れることができました。それでも余りにも酷い状態のとき、「母は病気なんだから」と何度も自分に言い聞かせて、母を憎まないようにしなくてはなりませんでした。
私たちは苦労しながら暮らしました。私は父やリチャードよりもしっかりしているようでした。リチャードは母から隠れるためによく庭に逃げ出していました。父は、コンピューターでもテレビでも、その時母が投げ捨てようとしている物を止めようと必死でした。
1994年、私と父はランカスターで催された地域のミーティングに始めて参加しました。それは父が心臓発作をおこした2ヶ月後のことです。父が入院した後、家の中はかなり大変な事態になりました。祖父母(母の両親)が一緒に暮らすことになりましたが、母とうまくいかなくて状況が悪化しました。母はうろたえ、ヒステリックになりました。やむなく、ホイッティンガム精神病院に母を入院させるしかありませんでした。この時点になって、父方の家族が手を差し伸べてきました。けれども、これはかなりやっかいな経験でした。父方の親族のひとりは母に向かって、「これは全部お前のせいだ」と言い、私には絶対忘れられない、許せないことをも言ったのです。
外にいる人からはいろいろな意見があるということは理解できますが、この時言われたことは私の心を酷く傷つけ、今だにそれは痛みます。それに加えて、父の手助けを十分にしていなかったと私も責められました。それから一週間ほどして、母はフランクガーダム・ハウスに移されました。弟とふたりで精神病棟に始めて母を訪れた時のことを今でも覚えています。母は私とリチャードに怒鳴り声をあげたのです。リチャードは最初の数分間で病室を泣いて飛び出しましたが、私は母が手に自分の権利が書かれた紙を握っているのに気がつきました。母はどうやったらここを抜け出せるか私に聞き、怒鳴り付け、私を責めました。生まれてこのかた最悪の経験で、決して忘れることはないでしょう。
母は家に戻ってきた時、プロザック(抗うつ薬)をとっていました。そのおかげで、ものすごい違いがありました。まるで小さな奇跡のようでした。一緒に冗談を言ったり、笑ったりすることができました。母は愛され得る人として蘇ったのです。悪くなる時がまだあったにしても、別人のようになりました。
家庭内のことは少し楽になったとはいえ、私はひどく鬱状態になり、95年の6月、自殺未遂で入院しました。精神科医に診てもらいましたが、同じ年の11月には薬剤の取り過ぎで再入院しました。その後、私は小児・青少年棟に移されて、平日はそこで、週末は家で過ごしました。学校をさぼり、昼夜を問わず出歩きました。父には酷い仕打ちをしました。お金を盗み、酔っ払い、たばこを吸い、何から何までやりました。そのうち落ち着いてきて、ケアの助手の仕事に就くようになりました。それ以来、随分大人になったという気がしています。
母の具合が悪化していくのを目の当たりにして苦労が多かったにしろ、私はなんでも乗り越えようといつも頑張ってきています。今は大学の看護学科に所属し、フィアンセと一緒に住もうと引越し作業をしているところです。たくさんのわだかまりはあるし、時々耐え切れなくなるけれど、最後はいつも通り抜けられてきています。そろそろ後を見ることなく前を見ていく時期です。いつも必ずどこかに生きる理由があるのですから。
私たちはいつでも家族として一体となっていろんなことを切り抜けてきましたが、父の支援は大きいものでした。そして今、私は自分自身が将来HDとどう関わっていくかを考える時期に達しています。発症前検査のことも考えはじめましたが今はまだ心の準備ができていないと思います。それに素晴らしい研究が行われている中で、希望が生まれそうです。
母を失わなくてはいけないことは、わかっています。けれども私自身にはまだ希望があります。そしてこれだけの研究や科学的証拠が出てきているのだから、at-riskの人たちがat-riskでない子どもを持つことができるという、もっと明るい未来が待っています。
今の母は、ユーモアがある素晴らしい人で、会う人は誰でも母を好きになってしまいます。できごとのなりゆきが違っていたら、私は全然違う人間になっていたかもしれません。けれども、当事者支援ネットワークのおかげで、私たち家族は人生と向き合い、それを一瞬一瞬楽しめ、笑って暮らせています。
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