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ペーパードライバー


 年以上ペーパードライバーだったことに、たいした理由はない。
 エンジン物とは相性が悪かったとか、昔、排気ガスを吸って気分が悪くなったとかは、事実ではあるが、『たいした』ことではない。
 
動車というものに、あまり魅力を感じなかったのも一因といえるかもしれない。自分の足が使えるのだから、移動にわざわざ車を使うこともあるまい、という前時代的な考えがどこか根っこのほうにあるようだ。

 それにどういうわけか、時間の感覚が壊れていたらしく、車で一時間かかるところを自転車で三時間かかって行っても、徒歩で九時間かかって行っても、あまり気にならなかったのである。
 だから旅行に行くのは自転車か徒歩か、公共の交通機関をもっぱら使っていた。

 射神経に自信がないというのも、また一因かと思う。
 自転車なら事故を起こしても自分一人、多くても相手一人がけがをするぐらいだろう。運が悪ければ、仏さんができるかもしれないが。
 しかし、車で事故をおこすと大変である。死人がでる確率が自転車の比ではない。
 自分のドジであの世に行くのは仕方がないとしても、見ず知らずの他人を道連れにするのは気がすすまない。だから旅行も一人旅が多いのかも知れない。

 にかく自動車とはあまり縁のない生活を送ってきた。そんなに興味がないのなら、何故自動車免許は持っているのだ? と問う人がいるかもしれない。この答えは簡単だ。身分証明書代わりになるからだ。

 「やぁやぁ、我こそは……」と名乗って信用してもらえれば世話はないが、この現代において貸しビデオ屋でビデオを借りようとしても証明書がいる。写真付きの免許証は手軽な証明書として使える。免許の使い道として、こういう使い方しかしていないペーパードライバーは、けっこういるのではないかと思う。

 手軽な証明書ではあるが、これを示されると簡単に信用できてしまう危うさも感じる。もっとも見知らぬ他人を疑い出せばきりがなく、妥協点として、まぁ、妥当なところか。

 れはともかく、運転免許証である。自動車を運転することが出来る証明書である。だが、技術はつかわなければ錆びつく。十年以上、放っておけばもうボロボロだ。

 ものの本によれば、免許をとって一年くらい車に乗っていれば、その後、長い間乗らなくてもすぐに運転の感覚はとりもどせるそうである。だが、一年どころか、車と言えば自動車学校で乗ったきりとなると、とりもどす感覚が身体の中に残っているかどうか非常に不安である。

 運転練習にこころよくハンドルを握らせてくれた身内は、駐車場からでるときにバンパーを壁でこすったら鬼の形相になり、二度とハンドルにさわらせてくれなくなった。

 友人たちは、数時間も乗れば、すぐに感覚をつかめるようになると言うが、乗る車がない。それに、「鈍い」のには不本意ではあるが自信がある。車があったとしても、慣れる前に事故を起こしそうだ。

 ぜ、今になって車を運転しようとしているかと問われれば、「まぁ、いろいろ思うところあって」と答えるだろう。
 実際、いろいろ有るのだが、いざ車が必要になったとき、ペーパードライバー歴が短いほうがいいだろうということだ。

 はり、餅は餅屋。ここは自動車学校に頼るしかない。
 聞くところによれば、自動車学校ではペーパードライバー専用のコースがあるらしい。
 調べてみると、割と近くにそういうコースのある自動車学校があったので申し込む。

 教習車はなんとBMWである。車に疎くともその名前は知っている。有名だ。どこがどうなのかは知らないが、名が通っているのだから高価で性能の良い車なのだろう。けっこうブランドに弱いのだ。

 ブランドに弱いというのは、知識の無さ、自信の無さの証明のようなものだ。何がどうだったら良い物なのか、判断する基準をもたないため、世間一般の評価であるブランド名に頼る。
 自分なりの基準を持てばいいのだが、それなりの知識と情報を得る手間を惜しむのが、ものぐさ者というものなのである。

 て、行ってみると、その自動車学校は最近建て直したとかで、きれいな建物だった。

 どうせ、一回目では様子見だ。一般道に出ないだろうと思っていたのだが、ちょっと学校内の道路を走っただけで、外に出ることになる。
 どうやら、一般道を走っても何とかなる程度の運転技術を認められたようだ。ありがたいのだが、こんなにあっさりと出ることになるとは予想しておらず、いささか胃が痛くなる。

 痛の原因はいくつもある。

 ず、車が道路のどのあたりを走っているのかがわからない。右によりすぎているのか、中央を走っているのか。こうなると「勘」に頼るしかないのだが、「勘」は経験により形成されるもの。経験がほとんどないとなると、これはもう無茶苦茶である。

 それでも対向車と正面衝突するほど「ずれる」ことなく、時折、教官に「右に寄りすぎとるな」と注意されるくらいで済んだ。

 ぎに、小心者の性か、アクセルの踏み込みが足りないようである。自分ではけっこうアクセルをふかしているつもりなのに、発進でエンストしかかる。
 信号待ちをしていて、いざ発進するときに教官から「四つ角の途中でエンストすると洒落にならんぞ」と注意される。
 なるほど。交差点で立ち往生する車ほど迷惑なものはないなと納得する。

 ご存じだろうか。想定される最悪の事態というものは、起こりうるものなのである。
 しっかり四つ角の曲がり口でエンストし、慌てているうちに信号が変わる。
 
……進むことも戻ることもかなわず、みっともない格好で信号が変わるのを待つこととなった。

 れから、正面からミラーへと視線を移すことが、うまくできない。
 もともと鏡を見る習慣のないブ男である。これが水仙になるくらいの美男子であれば、鏡とも仲がよかったであろうが。

 慣れ親しんだ自転車にもミラーはついていない。後方を確認するのにわざわざ左右が反対になる鏡など見ることなどなく、直接ふりむいていたのだから、鏡越しなどと洒落たことが出来ようはずもない。などと、ふて腐れていてもどうにもならない。慣れるしかない。

 問題はまだある。

 ートマチック車ではなく、マニュアル車での教習を希望したため、ギアの変換があまりうまくない。
 当然ながら、自転車のギアを変えるようなわけにはいかない。

 なぜ、マニュアル車かというと、やはり「運転している」という気分になるからである。 幼い頃より、ロボットアニメを見て育った身には、やはり「ガチャン」とか「グイッ」「ガクガクッ」という感覚に憧れるのだ。あのレバーを操作するのだ、と思うだけでワクワクしてしまう。

 憧れだけで操縦(運転)は出来ないということが身にしみてわかる。どうしてアニメのヒーローはあんなにたやすく操縦できるのか。

 ヒーローの素質がないということを再確認する。

 に乗る前に教官から、特に走りたい道はあるかと聞かれたが、通勤通学などに使う気はさらさらないので、希望はなかった。だから、教官の言われるまま、右に曲がったり左に曲がったりとしているうちに何だか見覚えのある道に出る。気がつくと、自宅への道を走っていた。

 教習料金は時間制で、とりあえず二時間分のチケットを買っていた。いつの間にか、二時間が過ぎていた。それで、教習は自宅にたどり着いて終わりということらしい。近いとは言え、実は電車で数駅離れたところにある教習所にもどらなくていいというのは嬉しい。帰りの電車賃が浮いた。

 教官の評価では、まだ若干の不安がある運転だとのこと。自分自身の評価では、まだかなりの不安がある運転である。よって、一週間後、もう二時間の教習をうけることにする。

 その日はさすがに疲れて、帰ってから昼寝をする。しかし、免許をとった当時ほど腰や肩が痛くならなかったのは、幾分身体の力が抜けていたのだろうか。もしかしたら、ずうずうしくなっているのかもしれない。もちろん、数日後に痛みが出るおそれは十分にある。

 週間後、二回目となる教習では、わりとマシな運転ができるようになっていた。
 「けっこう、上手い」とうぬぼれるほど、マシな運転ではなかったが、これなら後は一人で徐々に慣らしていけば何とかなりそうだと思えるくらいにはなった。

 希望すれば、まだ教習は受けられるが、「まぁ、なんとかなりそうだ」と教官との意見も一致したので、教習はおわりとなる。

 
日後、新車を買う。

 

 のところ、無傷である

                             2001/06/**



 


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