村上章一は、財布の中身を確かめた。
定期を持っていないことに気づいたのは、ついさっきだ。会社で落としたのなら、誰かが預かっていてくれるかもしれない。外回りの時に落としたのなら絶望的だ。
久しぶりに切符販売機の列に加わる。村上の前は、小学生くらいの少年だ。少年は切符販売機の前で、身体を不器用によじっている。
見ると、少年は両方の手のひらをあわせている。何かを持っているらしい。
この年頃は、自分の宝物を小さな手の中に持っているものだと、村上は頬をゆるめた。その両手の中に封じ込められているのは、虫だろうか、おもちゃだろうか。
少年は両手をあわせたまま、ズボンのポケットに二本の親指を入れようとしている。どうやら、その指でポケットから小銭を出そうとしているようだ。
「そりゃ、無理だ」
村上はつぶやいた。そのつぶやきが聞こえたらしく、少年が振り向いた。見覚えのない顔だったが、何故か村上の身体に親近感が湧いた。昔、こういう少年を知っていたような気がした。
少年の瞳は潤み、すがりつくような色と幼いプライドが揺れている。必死の思いで引き結ばれている口がいじらしい。
「手伝おうか?」
途端、少年の顔に正直な安堵の表情が浮かんだ。
「ありがとう。おじさん」
思わず背筋が伸びるような響きを持った言葉だった。
少年は真剣な面もちで両手を胸の前であわせたまま、込みあった電車内で足を踏んばっている。
ちょうど帰宅時で電車は満員だった。
村上は少年の前に立って、少年が人波に押しつぶされないように同じく足を踏んばっている。
村上の降りる駅は、とっくに過ぎ去ってしまっていた。馴染みの駅に停車したとき、一瞬迷ったが、結局扉が再び閉まるまでその場を動かなかった。その決断は、不思議なほど簡単なことだった。
扉が何度開いても、電車の中の人数は少しも減った気がしない。
少年の身体が揺れて、村上の腰にぶつかった。うしろにいる若い男が、ふいに少年を押したのだった。
「だいじょうぶか」
村上が声をかけると、少年は汗のにじんだ顔をあげてうなずいた。
少年を押した男は、少年の存在に気づいていないかのように平然と吊り広告をながめている。
そのとき、少年が小さな叫びをあげた。
「いたい!」
右の化粧臭い女が少年の足を踏んでいた。
村上が女性に注意しようとしたときには、次の試練が少年を襲っていた。
電車がカーブにさしかかり、人の波が動くと同時に少年をもみくちゃにする。
「おい! 小さな子どもがいるんだ! みんな、すこしは注意してやってくれ!」
普段なら決して口にしないようなことを、村上は大きな声で叫んだ。
電車内の視線が村上に集まる。そして、冷ややかな視線、嘲笑が渦巻き始めた。
「何を笑っているんだ。子どもが……」
村上は電車内の異様な雰囲気に気づいて、言葉が続かなくなった。
電車がブレーキをかけた。乗客は申し合わせたように同じ方向に押し寄せる。守ろうとした村上は間に合わず、少年はあっけなく人の波に飲み込まれた。その波の中から、少年の悲しげな叫びが上がる。
村上はいそいで人を押し分ける。
「大丈夫かね。ちゃんと掴まっていないからだよ」
床に四つん這いになっている少年は、親切そうな表情を浮かべた中年男に助け起こされていた。
四つん這い……そう、少年の両手は離ればなれになっていた。その中に何があったにしろ、少年の手からこぼれ落ちてしまったのだ。それにしては、あたりにそれらしいものは転がっていない。
村上の中で、何かが怒りの弦を弾いた。
「なにが『大丈夫かね』だ! あんたたちが、この子を転ばしたくせに!」
村上は中年男から少年を奪い取るようにして、少年の肩を握った。ちいさな肩は悔しさと悲しみのために、小刻みに揺れていた。噛みしめた唇からは何も漏れてこない。
中年男は不思議そうに村上のきつい視線をちらりと見て、肩をすくめるとそっぽを向いた。
次の停車駅で、少年と村上は電車を降りた。
二人の背に、男とも女とも思える声がかかる。
「おつかれさん。骨折り損だったね」
少年は肩を落とし、視線で地面をたどりながら向かいのホームに移った。そのホームに入ってくるのは、来た方向にもどっていく電車だ。
手のひらの中のものを目的地まで運べなかった少年は、意気消沈したまま引き返していく。
村上は、それが自分のことのように悲しかった。
戻りの電車は空いていた。並んで腰掛けた二人は、だが言葉一つも交わさなかった。
やがて村上の降りる駅についた。
後ろ髪を引かれるような思いとともに電車から降りた村上を、少年の声が追いかけてきた。
「おじさん!」
振り向いた村上に、少年が何か言おうとした時、扉が閉まった。あわてて少年は窓を開けた。動き出した電車の窓から顔を突き出して、少年は叫ぶ。
「『ほねおり』だったけど、『ぞん』じゃないよね」
少年の表情は思ったほど暗くはなかった。まだ彼はあきらめていない。
村上は胸に生まれた塊に突き動かされるように、右腕を上げてみせた。
家が見えるところまで帰ってきた村上は、家の明かりがついていないことに気づいた。
いつもならば、美砂絵の帰宅が自分よりも遅いことに腹立たしさと物足りなさを感じるのだが、今日の村上はさっき生まれた胸の塊に気を取られていたためか、家の暗さがあまり気にならなかった。
「まだ帰っていないのか」
つぶやいた途端、玄関の明かりがついた。ほんの一足の違いだったらしい。
美砂絵は着替えもせずに台所に立っていた。エプロンをつけたまま、ぼんやりと立っていた彼女は、村上に気づくと苦笑いをして見せた。
「おかえり。今さっき帰ったの。お食事、すこし待ってね」
「あぁ」
それにしても……。
村上は甚平に着替えながら、ふと手をとめる。自分の胸に手をやる。その奥で熱い塊がゆっくりとさめていく。
「あれは、何だったのだろう」
少年が去っていく時に感じたもの。少年の言葉に反応して胸を突き上げたもの。
それに、電車でのことは何だったのだ。あの人々の行動は? 電車を降りるときに聞こえた声は?
考えても何もわからない。
もっともわからないのは、あの少年の行動のはずだったが、村上には彼の行動が理解できる気がした。
少年が何を持っていたのか、それはわからない。どうして、あれほどまでに必死になっていたのか。どこへ行くつもりだったのかも、切符の値段から推量することはできるが、それすらはっきりしたものではない。もちろん言葉にはできないし、頭の中ではっきりした像も結ばない。だが、確かに理解できる気がしていた。
一番わからないのは、自分の頭の中、自分のこの感覚かもしれない。
夕食は野菜と牛肉を炒めたものと、お吸い物という簡単なものだったが、村上は満足げに平らげ、ビールに気持ちよく酔った。
ゆったりしたスウェットスーツに着替えた美砂絵も、気分良さそうにビールの赤みで頬を染めている。
「機嫌がいいんだな」
「あなたこそ。いいことでもあったの?」
「いいことというわけじゃないが」
村上は説明する言葉をもたなかった。
「君はどうなんだ?」
「……べつに」
秘密めいた微笑みを浮かべると、美砂絵はすこしぼんやりした表情を浮かべた。
村上はそんな美砂絵の顔に、なぜだか少年の顔を重ねあわせていた。
それがまるで約束事のように、村上は昨日と同じ時間に同じ場所に立っていた。そして、やはりあの少年もそこにいた。
昨日と同じ光景が繰り返される。少年が礼を言い、村上の背筋が伸びたところまで同じだった。
電車の中でも、まるで舞台の上の出来事のように同じことが繰り返される。
村上は昨日の客たちの顔を覚えていなかったことを悔やんだ。そして、今日の顔ぶれは金輪際忘れるものかと、辺りに鋭い視線を浴びせる。
だが村上の視線は、水底に沈んだ嘲笑とプカリと浮き上がってくる憎悪に、あっけなく跳ねかえされる。
また、少年のくいしばった歯をすりぬけて、悔しそうな悲鳴が漏れる。
「そんなところにいるから悪いんだ」
だれかがいった。
村上の視線は、相手をとらえることができない。
「大人の足をつかんでいればいいのに」
振りむいて突き刺そうとした村上の視線は空をきる。
「足を踏んばったところで、無理な相談だ」
「波にあわせて揺れていればいいものを」
「そんなもの捨てて、両手でつかまって、安全をつかまえていればいいのに」
冷ややかな視線の風とともに、言葉の波が嘲笑のしぶきをあげて寄せ返す。
声がするたびに、村上は視線を向けるのだが喋っている当人を見つけることはできない。電車内すべての人間の心の声が、空気を震わせているかのようだった。
「どういうことだ! 何を言ってるんだ!」
混乱した村上は、顔を引きつらせながら叫ぶ。
「ばかなことをしてる」
「無意味なことを」
それは、村上に向かってきた言葉だった。
「時間の無駄さ」
「その子の手を引いてやれ」
「大人だろ?」
「ほら、転んでしまうぞ」
村上は四方八方から放たれる言葉の矢に貫かれながら、仁王立ちしていた。
少年が牛若ならば、俺は弁慶か。
村上は心の隅でそう思い、少し笑った。するとその心を読んだかのように、四方の声がささやく。
「自己満足さ」
「その子がどうなろうといいのさ」
「自分の気が済めばね」
嘲笑が渦を巻く。
村上の心のどこかで、その声に同意する手を挙げてい村上がいる。それは身にひそんだ魔なのか。
少年を理解しながらも、回りの声に同意している。
「わかってるんだろう? 我を張ったって、どうしようもないこと」
「波に乗れない者は、失望の碇とともに沈んでいく」
「みじめだね」
「自己満足さ」
「こっけいだね」
村上の足の力が徐々に抜けていく。身体の揺れが人々の揺れに同化していく。
ゆっくりと鈍化していく村上の身体が、大きく揺れた瞬間、少年の身体に激しくぶつかった。少年がつんのめる。小さな驚きの声が聞こえた。
村上の感覚が急に目覚めた。
「やめろ! やめろ、やめろぉ!」
村上は自分の心の弱さにおののき、その弱さを隠すために怒りを込めた言葉の矢を四方に放つ。
矢は何も射ずに消えていった。射るべきは、村上自身だったのかもしれない。
しばらくすると、嘲笑の渦は突然消えた。
少年が昨日と同じように床に這っていた。
村上は少年に手を差し伸べようとして、一瞬ためらった。後ろめたさが身体を凍らせる。
村上の冷え切った身体を暖めたのは、少年の手のぬくもりだった。とっくに一人で起きあがっていた少年は、凍りついた村上を導くために、手を引っ張っていた。
降りたそこは、昨日の駅よりも二駅先の駅だった。
「二つも、ちかづいたよ」
少年は昨日とは違い、村上にそう話しかけた。失望と期待が入り交じった言葉だった。
それが自分を気遣っての言葉でもあると感じながらも、村上は言葉を返せないでいた。
家の近くの居酒屋で痛飲した村上は、自己嫌悪の闇とつれだって帰宅した。
出迎えた美砂絵は、そんな村上の姿に驚いたようだったが、めずらしく小言一つ言わずに村上を迎え入れた。その目はつい先ほどまで泣いていたかのように赤く、息は夫と同じ酒のにおいがした。
「飲んでいたのか」
居間のテーブルにワインのボトルとグラスが一つづつあるのを見て、村上は言った。
「ちょっとだけね」
美砂絵は水の入ったグラスを村上にさしだしながら、つぶやくように答えた。
村上は、自分一人が不甲斐なく酔っているのではないという、免罪符を手に入れたような気になった。
その夜、村上はベッドの上で、汗ばんだ美砂絵の乳房に顔をうずめて泣いていた。より強い感覚で闇を忘れようとしたが、無駄だった。闇は深く浸透している。自分の一部である闇を振り払うことは不可能だった。
「俺は弱い。もろい」
呪文のように繰り返す。すがりつけば、相手の勇気が自分に宿るとでもいうように、美砂絵の身体を強く抱く。闇はなくならないが、対抗する光を生み出すこともできるはずだった。その光が欲しい……。
夜は更けていき、いつの間にか、今度は村上の薄い胸を美砂絵が涙で濡らしていた。
休日ならば、乗客の顔ぶれは違う。だから、昨日、一昨日のようなことはあるまい。
そんな村上の予想は、見事にはずれた。
たしかに乗客の顔ぶれは村上の記憶とは一致しなかった。しかし、その反応は同じだった。
少年を取り囲む嘲笑と悪意の渦。
どこからともなく飛来し、突き刺さる言葉の矢。
むなしく空を斬る視線の刀と言葉の矢を放ちながら、村上は少年を守るように足を踏んばっていた。
弁慶が立ち往生した時、どんな気持ちだったのだろうか。自分の行動に迷う気持ちはなかったのだろうか。
少年を守っているつもりになっているが、ほんとうにこれでいいのだろうか。
村上の心の中で賛成と反対がたがいにせめぎ合う。
やがて、村上は昨日よりも強く波に引き寄せられるのを感じた。意識が闇に飲み込まれる。視線の刃がみるみる錆び、言葉の矢はつがえる度に折れた。
いつの間にか、村上は少年と同じ格好で両手をあわせている。村上はそのことに気がついていなかった。何かを封じ込めたような両手のドームから、かすかな光がもれている。
火に放り込まれた栗の実が爆ぜるような音が、両手から響いた。その途端、村上の視線に刃が輝きをとりもどし、言葉の矢が復活した。
ふと気づくと、村上は誰もいない空間に罵声を浴びせかけていた。とまどいながら視線を下に向けると、少年がしゃがみ込んでいる。
また昨日の繰り返しかと思った瞬間、扉が開いた。
少年が顔を上げた。真剣な顔が輝いていた。
その両手は大事そうな何かを持ったままだった。
星明かりに照らされた道を、村上と少年は並んで歩いていた。
ここはどこなのか。読んだはずの駅名は記憶されることを拒んでいる。だが、きっと路線図には載っていないだろうと、村上は何故か確信していた。
地面むき出しの道に、ススキの揺れる原。たどる道は山の頂に通じる。頭や肩をときおり触れては離れていくのは、森の枝葉だ。虫が鳴いている。蛙が歌っている。
星と月のほかは、照らすものなど何もない。
闇がこれほど不安なものだとは、そして月や星の明かりがこれほど明るいものだとは、知らなかった。いや、村上の子どもの頃はこうだった気もする。
運動不足の村上の身体は、山道に痛めつけられた。少年はそんな村上をいたわるように、ときおり足をとめては、村上を元気づける。
村上は汗まみれの顔に無理矢理笑顔を浮かべると足に力をこめた。
山の頂は、広い草原になっていた。
そこには村上たちと同じような、子どもと大人の組がいくつも見いだされた。大人と二人連れの子もいれば、四人も大人がついている子もいる。
よく見ればぼんやりとした姿の大人もいた。その身体の向こうの景色が透けて見えた。どうやら、黄泉の国の住人らしかった。傍らの子どもは、その大人の存在を知っているのだろうか。この世に味方など一人もいないと、悲しく立っていないだろうかと、少々気になった。
自分はどうだったのだろうかと、村上は記憶をさぐったがわからない。波に飲み込まれ、辿り着けなかったのだろうか。
見渡していると、美砂絵の姿があるのに気づいた。少女と二人連れだった。目が合うと、穏やかに微笑んだ。
なんとなく、美砂絵とここで会うことを予期していたような気がする。
かたわらの少年に目をもどした村上は、ずっと聞きたかったことを少年に尋ねた。
「ところで、その手の中に持っているのは何だい」
少年はにこりと微笑んだ。
「たからものだよ」
言うと、少年はゆっくりと両手をはなした。
小さな光がさまよい出た。
「蛍?」
村上がつぶやいた瞬間、その小さな光は空に向かって飛んでいく。それは蛍のさまようような飛び方ではない。まるで流れ星が逆さまに空に昇っていくようだ。
あちこちから、小さな光が空へとかけのぼっていく。子どもたちの両手から飛び出した光だった。
空に新しい星が加わった。
「たからものを、あんなところに置いてもいいのか」
不思議を不思議と思わず、村上は少年に尋ねた。
「もちろん、とりに行くよ」
当たり前じゃないかというように、少年は答えた。
「とりに行くときまで、わすれないようにあそこにおいたんだ。見あげれば、いつもあそこにたからものがある」
「でも、高すぎないかい」
「だいじょうぶ。大きくなったら、手がとどくよ」
自信満々で少年は言った。
それなら、ほかの星は誰も取りに来なかった『たからもの』なのだろうか。星空を見上げることを忘れた者たちは、自分たちの『たからもの』をも忘れたのか。
どれだけの人たちが、あの高みに輝く自分の宝物にたどり着けるのだろう。
何年かぶりに星空を見上げた村上は、消え入りそうな光を放つ星に目を吸い寄せられていた。
「もしかしたら、あれが俺の『たからもの』なのかな」
そのつぶやきに呼応するかのように、その星の光が少し増したような気がした。
自分も子どもの頃、この場に立ったことがあったのだろうか。だとしたら、少年を初めて見たときの懐かしい感覚は、その姿にかつての自分を見いだしたためだったのかもしれない。
「昔は俺もたからもののために、両足で踏ん張って立っていたのかな」
いつの間にか、かたわらに美砂絵がよりそっている。
子どもたちは、ひとかたまりになって、星空を指さし、声高に自分の『たからもの』を自慢している。
「思い出したことがあるんだ」
「思い出したことがあるの」
村上と美砂絵は同時にそう言って顔を見合わせた。次の瞬間、二人一緒に吹き出した。
どちらからともなく手を握りあった。
「帰ろうか」
「でも、子どもたちが」
「あの子たちなら大丈夫だよ」
「……そうね。たよりないのは、私たちの方ね」
二人のつないだ手と手の間から小さな光が生まれると、一目散に空へとかけのぼっていく。
その光が二つの星の間に居を定めるのを見て、村上と美砂絵は笑いあった。
「取りに行けるかな」
「行けるわ、きっと」
「あまりほっとくと、流されてしまうかもな」
「流れ星は質流れと一緒? 風情がないわね」
笑いながら二人は山を下っていく。
空の星は静かに瞬きながら、暖かい手が迎えに来るのを待っていた。
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