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とおのものがたり



旅人


 自転車のタイヤがパンクしたのは、橋の上だった。
 自転車の前後左右には、旅の垢がこびりついた荷物がしがみついている。乗っている旅人すら荷物の一つのように見える。
 旅人は舌打ちひとつして、自転車を橋の欄干に立てかけると、タイヤを調べた。タイヤの溝はほとんどなくなりかけていた。
 手慣れた様子でパンクを修理すると、汗にまみれた顔をタオルで拭った。黒々と日焼けした顔は拭っても色はかわらなかったが、いくらか白かったタオルは真っ黒になった。
 着ているTシャツには、乾いた汗の白い結晶で模様が描かれている。ジーパンは尻と膝の部分がいたんで、白く色落ちしていた。
 欄干にもたれて、ぼんやりと空を見上げている旅人の横を、車が排気ガスとほこりを舞い上げながら通り過ぎていく。
 日が落ちてからしばらく経った空は、のこっていた明るさがしだいにうすくなっていき、じわじわと闇が濃さをましていた。
 橋から見下ろすと川の両岸はわりと広い河原となっている。中央をまっすぐに流れる川は、走り幅跳びではちょっと越せそうもないが、棒を使えば飛び越せそうだ。
「ここにテントを張るか」
 つぶやくと、旅人は橋のたもとの土手から河原におりる坂道を自転車ごとおりていった。
 河原には茶色の土、汚れた緑のタフな草と捨てられたごみがちらほらと見えた。地面をちょっと蹴ってみながら、旅人はすこしうなずいた。
 自転車をとめる。川に近寄って見ると、黒く濁った水が流れている。飲めないことはないだろうが、身体に悪いのは一目瞭然だ。
 旅人はそれほど落胆した様子もなく自転車にもどると、荷物をほどいて小さなテントを張りはじめた。ものの五分ほどで青いテントが出来上がる。長い旅を物語るように、テントの色は薄くなり、かなりくたびれていた。
 旅人は小さなキャンピングストーブを組み立てると、水筒の水を大切そうに使いながら飯盒に入れた米を研ぎ、切り干し大根と何かの粉をいっしょに入れると、ストーブの上におく。
 辺りは薄暗くなっていた。旅人はテントの入り口に腰をおろして、水筒の水を一口含んだ。
 じっとストーブの火を見つめている。
「ほうほう。たいしたもんじゃね。どこから来られた?」
 突然、声がかかった。目を向けると、老婆が立っていた。そのうしろで孫らしい幼い男の子と女の子が、旅人にふしぎそうな視線をそそいでいる。
「北から、です」
「そうかい。ここらではテントなんて、見かけん。めずらしいんで、この子たちに見せてやってもらえんかね」
 旅人は微笑んでうなずいた。立ち上がると、子どもたちに中が見えるようにした。
 物珍しそうに中をのぞきこんでいた男の子は、恐る恐る旅人を見上げた。
「入って、いい?」
「いいよ。あまり綺麗じゃないけど。あぁ、靴は脱いでね」
 男の子が喚声をあげてテントに飛び込むと、妹らしい女の子もあとを追った。
 テントは一人用の小さな物で、荷物がすこし入っているから、子どもといえども二人が入ればかなり窮屈になる。
「ぼく、ここで寝たいなぁ」
「あたしも」
 子たちが寝転びながら旅人を見る。笑いを返した。
「夜はもうちょっと寒いよ。それに、わたしの寝るところがなくなってしまう」
 飯盒がふきだしたので、旅人はストーブの火を小さくした。
「食事かね」
 老婆がたずねた。
「えぇ。米と切り干し大根を一緒に炊いた、ま、粗末なもんですが」
 頭をかきながら、旅人は苦笑いした。
「いや、なんのなんの。たいしたもんじゃて。食事まで自分でつくるとはなぁ」
 と、孫に向かって
「お兄ちゃんは、全部、自分でやってるんだよ。えらいもんじゃないか。おまえたちも大きくなったら、お兄ちゃんみたいになるんだよ」
「いや、お婆さん。それは、ちょっと問題があると思うけど……」
 長い道程と軽い背中、しかし、霧に包まれたままの前方。背負うつらさはないが、背負う喜びもない。
 そんな我が身を振り返ってか、旅人は戸惑った顔をしている。
 子どもたちはテントに寝転がり、入り口からなかよく並んで首を出して、旅人を見つめていた。
 しばらくして夕食の時間となり、老婆と孫たちは帰っていった。
「なにか、必要なものがあったら」
 そんな老婆の言葉に、旅人は水を所望した。
 それなら、家の裏に蛇口があるので好きなだけ使ってくれという返事だった。
 老婆と孫たちの家は、テントから二十メートルと離れていない土手の向こうにあった。
 土手はそれほど高いものではないので、三人が明るい光のもれてくる家に入っていくのが見えた。
 
 旅人はテントの入り口に座り、蚊取線香の匂いと虫の音色に包まれながら星を眺めていた。テントの横に立っている自転車のハンドルには、小さな蝋燭ランプがぶらさがって揺れている。
 足音が近づいてきた。
「お兄ちゃん、はい」
 あらわれた男の子がさし出したのは、缶ビールだった。
「どうしたんだ、これ」
「どうしても、もう一度、テントのお兄ちゃんのところに行くんだって言ってね。その子が、母親に頼んでもらってきたんだよ」
 すこし遅れてあらわれた老婆が言った。女の子は老婆の手をしっかり握っていたが、もう片方の手には白いビニール袋を重そうにさげていた。
「花火しようよ」
 女の子がビニール袋を示しながら笑う。
 まず旅人は男の子に礼を言って缶を受取り、旨そうに喉を鳴らしてビールを飲んだ。
「うまい!」
 旅人が言うと、男の子は嬉しそうに笑った。
 女の子は花火を持って、老婆に火をつけてもらっていた。
 ささやかな光の饗宴。
 男の子もほとばしる火を振り回しはじめた。
 幸せな孫とその祖母。むこうには、彼らを暖かく迎える灯がある。
 旅人が持ち得ぬものだった。
 誰に褒められる旅でもなく、また褒められることを望む旅でもなかった。
 待つ人もなく、見送る人もいなかった。
 自らが望んだ道ではあったが、目の前の光景は、やはり羨ましいものだった。
「はい。お兄ちゃんは、これ」
 女の子が差し出した花火を受けとり、火をつける。
 華やかな光が舞う。
 老婆が、男の子が、女の子が、そして旅人が同じように花火を持ち、光に照らされて笑っている。
 だが、やはり旅人は彼らとは違うところにいると感じていた。それが誇らしくもあり、哀しくもあった。
 やがて、花火もなくなった。
 光に怯えて口をつぐんでいた虫たちが、ふたたび鳴きはじめていた。
「さてと、ビールや水、そして花火と。そのお礼と言っては、あまりにもささやかですが、オカリナで一曲」
 旅人はそう言って、テントの入り口に腰をおろすと、奇妙な形の笛を取り出した。フットボールのような形のものに口でくわえるように突き出した歌口があった。大きさは、両手で包めるほどで、陶器らしかった。
 高く澄んだ音が流れはじめる。不思議なことに、まわりの虫の鳴き声がだんだん曲にあってくるようだった。
 オカリナの音色と虫の合唱が風に乗る。
 男の子と女の子は目を輝かせている。老婆は曲にひたるかのように目を閉じていた。
 曲が終わると、万雷の拍手がうまれた。
 思わぬ遠くからも拍手が聞こえた。橋の上から、川岸の家々から、闇にしずんだ川の向こうからも。
「いいものを聞かせてもらったねぇ」
 老婆は孫たちの頭をなでて、にこにこしている。
 旅人は立ち上がると、音楽家がコンサートでするようなお辞儀をしてみせた。そして、遠くの拍手には大袈裟な動作で投げキッス。
 拍手はなりやまず、アンコールの声がわきおこる。
 旅人がそれにこたえて、オカリナを口元に持っていくと、辺りはしんと静まり返った。
 虫たちも、楽器をなり響かせんとする演奏家になったつもりなのだろか。リンとも音をたてない。
 低く小さな音から、曲ははじまった。だんだんと音は高く、大きくなっていく。
 力強い鳥がはばたき、空をかけのぼっていくような曲。そのまわりを、虫たちの風を思わせるような音色が追いかけていく。星の輝き、濁った川の音さえ、曲の一部となっていた。
 それは、旅人自身をあらわしたものだったのかもしれない。遙か遠く、遙かに高く、たどり着くことさえおぼつかない所をひたすらめざしてつきすすんでいく。いつ果てるともしれない旅路……。
 聴衆はその場で、曲の最後を聴こうとはしなかった。ゆっくりと歩きはじめ、曲が小さく聞こえなくなっていくのを惜しみつつ、家路をたどっていく。
 この曲が終わったあとの寂しさに耐えるには、親しい人のぬくもりが必要なことを誰もが無意識のうちに感じとっていた。
 
 翌朝はやく、荷物を自転車に積んでいる旅人のところに、エプロン姿の女性がやってきた。
「もう出発ですか。……これ、よかったらどうぞ」
 さし出された盆の上には、コーヒーとクッキーがのっていた。
「いいんですか? すいません。いただきます」
 荷台にくくりつけた荷物の上に盆を置き、コーヒーカップを手にとった。
「子どもたちは、まだ寝ているんです」
 その言葉で、女性があの男の子と女の子の母親であることがわかった。
「よろしく言っておいてください。……ごちそうさま」
 かるく頭を下げると、自転車のスタンドをはずした。
 土手の坂道を自転車をおしてのぼる。のぼりきったところで、幼い声が追いかけてきた。振り返ると、パジャマ姿の男の子がかけてくるのが見えた。
 足をとめた旅人においつくと、男の子は息をきらしながら小さな紙袋をさしだした。
「これ、オカリナの、お礼です」
 一瞬、おどろいたような顔をした旅人だったが、すぐに微笑みを浮かべて受けとった。
 男の子の頭をなでようとして、急に思い直したように手をとめ、男の子の前にさしだした。
 男の子はにこりと笑うと、その手を握った。
「ほんとうに、ありがとう。……さよなら」
 
 町外れの小さな食料品店。そこで弁当を買った旅人は、自動販売機の影に座り込み、昼食をとっていた。そんな旅人を店の中から見ていた中年の女店主が、ゆっくりと店から出てきて、自動販売機に硬貨をいれた。
 旅人は店主をちらりと見てから、ふと思い出して、ウエストポーチに入れていた小さな紙袋を引っ張り出した。
 中身は、千代紙を折ってつくった鶴や舟、兜……これはあの女の子の作品だろう。そして、漫画のキャラクターのキーホルダーに、二つ折りの紙が一枚。その紙を開いた旅人は、一瞬沈黙したのち、爆笑した。
 販売機から缶を取りだしていた中年の女店主が、びっくりしたように旅人を見た。
「何がそんなに、おかしいんだね」
 たずねられて、旅人はなおも笑いながら、紙を示した。
 そこには、たどたどしく幼い文字が並んでいた。
『おにいさん がんばってください』
 そう書いてあるのだが、「さ」の字が左右逆になっていた。
「逆だよ、逆……」
 笑い過ぎて涙がでたのか、旅人は目をこすった。
 そんな旅人をしばらく黙ってみていた女店主は、もともとそのつもりだったのか、取りだしたばかりの冷えた麦茶の缶を旅人の横に置いた。
「馬鹿だね。生きてりゃ、嬉しくて顔がほころびるようなことは何度かあるもんさ。だけどね、嬉しくて本当に涙がでるようなことは、そう何度もあるもんじゃない。そんな涙は恥ずかしいもんじゃないよ。ごまかすことはないんだ」
 怒ったような口調で背を向けて店にもどっていく女店主に、笑いをおさめた旅人は頭をさげた。
 
 ふたたび走りはじめた旅人に、風が行き先を問う。
 思いがけなく「見送る人」を得た。どこかに「待つ人」もいるのかも知れない。
 その思いをふり払うように旅人は頭を降った。水滴が飛び散り、きらきらと輝きながら自転車が走り去った路上に落ちる。
 きつい陽射しにあぶられたアスファルトの上では、ちいさな水滴は一瞬のうちに蒸発してしまっていた。
 



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