約束の時間を十五分すぎた。コップの中の氷山が、かすかな音をたてて身動ぎする。
まわりを見渡す。店内に知った顔は一つもない。
ききすぎた冷房。聞き取りにくいかすかな音楽が流れている。
大きな窓ガラスの向こうには、汗を拭きながら行き来する人々が見える。ときおり、こちらをうらめしそうに睨む視線に出会う。
なんだか、自分が水槽の中にいて、外から見られているようだ。
どうせ行くのなら深海だ。冷え冷えとした音も光もとどかぬ海の底へ、真実を探しに行くのだ。
波よ、来い。はげしくうち寄せ、海の底へさらっていってくれ。どうして、静まり返っているのだ。
……だいぶ、まいってるな。
嫌な匂いのする冷えたおしぼりを、両目に押しあてた。
妹の乗っていた飛行機が海の上で爆発した。原因は不明。そのうち、どこかのテロリストの声明でもでるのかもしれない。もしかしたら、もうでたのかもしれない。すべてのことに現実味がなく、興味ももてない。
卒業旅行と称して、短大の友人三人と出かけた生まれて初めての海外旅行。その帰路でのことだった。
まだ実感がわかない。あいつの死顔を見ていないせいかもしれない。
なんの切れ端ともわからない布切れ、バッグ、不思議と無傷だった靴、手帳……そんなものを見せられても、死は実感できない。乗客名簿だってそうだ。
乗客の遺体は、ほとんどが回収できなかった。生存者ゼロ。見事なお手並みだ。
ごみのような回収物の中を、遺品を求めて彷徨う遺族たちとともに、妹のカケラを探し回った。あるはずがない。あって欲しくないはずなのに、目がかすみ、吐き気がするほど、ガラクタを見て回る。
異国の小さな島だった。
目が痛くなるような海の色。
海岸に出てみても、漂流物はない。海流の関係で、たどりつくものはないと説明を受けた。
それでも足元に視線をさまよわせながら、歩き回った。
波が白い砂を洗いつづけている。
皮膚を焼く陽射し。汗が身体をなめる。
いつの間にか空を染めていた夕焼けが、本当の炎に見えた。
あいつを焼いた炎が、まだ燃えているのか。
涙は、でない。
大きく深呼吸しておしぼりをはずすと、腕時計に目を落とした。
「またせたな」
顔をあげると、赤井悟はもうむかいの席に座っていた。
ぼさぼさの髪に不精髭。あちこちに黄色と藍色の染みのついた白衣姿だった。だが、大学前にあるこの喫茶店では珍しいかっこうではないらしい。空色のエプロンをつけた少女は、平然と赤井の注文を聞いている。
「大丈夫か、お前。つかれてるんじゃないか。昨日、帰ってきたばかりだろ……式は?」
「明日。今夜七時から通夜」
心配そうにのぞきこんでいる赤井の目は、真っ赤に充血していた。論文のための実験がうまくいかないと言っていたから、ここのところ徹夜で実験しているのだろう。
赤井と違って、高校を出てすぐに運送会社に就職したので、大学のことはよくわからない。だが、外から見るほど楽でもないらしい。
山盛りの焼きそばと丼一杯の飯をたいらげると、赤井は二杯目のコーヒーを注文した。
「よく食うな」
「ここまでくれば、知力よりも体力がたよりさ。お前だってそうだろ? もう少し食ったほうがいいぞ」
サンドイッチを一つしかつままず、のこりを皿ごと脇によけるのを見ていた赤井は、頭をかきながらそう言った。
「食欲がない、というか、身体の中が一杯という感じなんだ。胃袋だけじゃなく、この身体全体に何かがつまって、身動き一つとれない気分だよ」
胸のあたりをさすって見せる。赤井は小さく舌打ちしたが、何も言わずにコップの水を飲んだ。
しばらくして運ばれてきたコーヒーに何も入れず、赤井は目を細めながらすすると、やっと満足したというように笑みを浮べる。
「それで、用事はなんだ。どうせ、通夜には行くつもりだったし、そのときでもよかったんじゃないか」
「渡したいものがあって」
ズボンのポケットから小さなガラス瓶を取り出して、テーブルの中央に置く。直径一センチ、高さ二センチほどのガラス瓶の栓はコルクだ。中には白い粒がはいっている。
「受け取ってくれ」
「なんだ?」
「毬子の……遺骨だ」
赤井は小さな瓶をつまみ上げて、しげしげと見つめた。
「毬子ちゃんは、星が好きだったが……遺骨まで星形をしているのか。星砂にしか見えないが」
「正真正銘の星砂だよ。遺体は見つからなかったんだ。それは毬子の机の上にあった。なんだか、それがあいつの遺骨のように思えてならないんだ」
「ロマンチストだね、お前は」
冗談めかした言葉を吐きながら、赤井が星砂にむけた表情は沈痛だった。
赤井とは中学高校と同じ学校に通った仲だ。昔はよく二人してバカをやった。
互いの家にもしょっちゅう行き来していたので、妹の毬子もよく知っている。毬子は星や植物が好きで、やはり植物好きの赤井とは話があったようだ。ちなみに、今、赤井がいるのは植物関係の研究室だが、何度聞いても正式な名称を忘れてしまう。
赤井と毬子は、傍目からは兄妹のようにうつった。実際、赤井はそんな感覚でいるようだった。
恋愛感情というものを隠すのは、赤井の最も苦手とするところだった。横から見ているとありありとわかる。片思いの相手を当てては、よくからかったものだ。
だから、赤井が毬子を妹のように思っていたことは、自信を持って言える。
しかし、毬子がどう思っているのか。それは知らなかった。昨夜、毬子の日記を読むまでは。
だが、赤井にそのことを伝える気はなかった。伝えたところでどうなるものでもない。毬子はいなくなってしまったのだ。それに毬子の思いを口にできるのは、毬子自身のほかにはいない。
気がつくと、赤井は伝票を手に立ち上がっていた。
「悪いが時間がない。実験の最中なんだ。後輩に頼んではいるが、こいつがどうにも使いものにならん奴でな」
「おい。こっちが呼び出したんだ、勘定は俺が……」
赤井は伝票といっしょに首を横に振った。
「毬子ちゃんの形見ももらったし、お前の懐ろまで寂しくしたくはないからな」
そんなに寂しそうな顔をしているのだろうか。
足速に去っていく白衣の背中を見送っているうちに、急に疲れを感じて顔を両手で覆った。
遺影のまわりを花が囲っている。白々しい眺めだ。
嗅ぎ慣れない線香の匂いが立ちこめている。
黒い人々がつぎつぎに頭をさげ、焼香していく。身体を蝕んで行くような香り。
何度も頭をさげているうちに、発作のような笑いの衝動が込み上げる。舞台にあがった役者の気分。
同時に『薄情者』との声が耳の奥で響き、心臓を締めつける。
隣りで頭を下げつづける父母。ときおり、鼻をすする音がひびく。
赤井は髭を剃り、髪をとかしたこざっぱりした風で、やはり黒い姿であらわれ、焼香をすましていく。小さな声でおきまりの悔やみの言葉をおとし、部屋を出ていく。
その後を追って、部屋を出た。
外は闇。月も星もない。蒸し暑い夜だ。
赤井は闇を払うかのように、煙草をくわえて火をつけていた。ライターの火に照らされた横顔が、昼間より疲れているように見えた。
実験の疲れか、毬子の死の打撃か。
「あれほど星が好きだった毬子ちゃんの通夜に、挨拶にはあらわれないのか。星も月も」
空を見上げた赤井はつぶやく。つられて顔を上に向ける。
「毬子はここにはいない。ずっと遠くの海にいるんだ。あそこじゃ、星はつかめそうなほど近くに輝いていた」
煙草の煙を吹き上げながら、ぽつりと赤井がつぶやいた。
「……ここにはいない、か」
次の朝早く、家の呼び鈴が鳴った。
式まではまだかなり時間がある。よほど気の早い客か、と思いながら玄関に出ると、赤井が立っていた。鉢植えの薔薇を抱えている。
「これを見ろよ。まったく見事に咲いたもんだ。信じられんよ。蕾はまだまだ堅かったんだ。まさか、今朝咲くなんて。それに……」
何の前置きもなくしゃべりだした赤井の眼前を遮るように手を上げ、苛々しながら言葉を吐き出した。
「どういうつもりだ。葬式の朝に花自慢か。いい気なもんだ。いったい毬子がどんな気持ちで……」
棘を隠さずに叩きつけた言葉に、赤井は一瞬呆然といた表情を浮べた。
「毬子ちゃんが、何だって?」
その問いに、すこし頭の血が冷えた。
「いや、なんでもない……」
口ごもる。
赤井はすこし間をおいて、今度は落ち着いた口調で話しはじめた。
「昨日もらった星砂な。この鉢植えの根元にまいたんだ。肥料にはならないし、そのつもりもなかった。毬子ちゃんは花が好きだったろう。机の中にしまい込んでおくよりも、花の根元にまいたほうが、喜ぶと思ってさ」
ロマンチストだと馬鹿にしたような言葉を口にした赤井が、星砂をいつの間にか毬子の遺骨と同一視していた。
「すると、どうだ。今朝になってみると、かたかったはずの蕾が見事に開いているじゃないか。色も素晴らしい。これが驚かずにいられるかよ。しかも、この花びらを見ろよ。端の方だ」
見えるかぎりの花びらすべてに白い小さな斑点があった。その斑点は星形をしていた。
「信じられないだろうが、まいたはずの星砂がなくなっているんだ。なんだか、特別な不思議な力でも働いたような……それで、お前に見せようと思って……できれば、霊前に式の間だけでも置いてもらえないかと……」
だんだん赤井の声は小さくなった。こちらが返事をしないので、不安になったのだろう。
花は確かに美しかった。
艶やかな真紅の花びらが重なり合い、細い茎には似つかわしくないほど大きな花をつくりあげている。水に溶けてしまいそうな緑の葉が、よけいにその色を引き立てている。そして、花びらに浮き出た不思議な斑点は、涙まじりの瞳で夜空を見上げたときに見える星を思わせる。
もしかしたら、赤井ならば普通の薔薇の花に星形の細工くらいできるのかもしれない。しかし、赤井が嘘をついていないことはわかっていた。嘘であったとしても、だまされていいと思った。
もしも、毬子の心を取り出して形にしたら、この花のようになるのだろうか。いや、人の心はそんなに綺麗なばかりではないだろう。
そう思いたくなるのは、昨日、赤井に言われたようにロマンチストだからだろうか。
それでも、この花は毬子に通じていると信じたい。
そうか。そんなにお前は、赤井のそばで咲きたかったのか。
話を聞いた父母は、喜んで赤井の提案を受け入れた。
遺影の右横に鉢植えを置く。昨夜から置かれたままの疲れた表情の花たちがみすぼらしく見えた。
薔薇の花は土に根をおろしているためか、生き生きとして力強かった。その横に、はにかむように笑っている毬子の写真がある。こんな表情は滅多にしなかった。いつもびっくりするほどの大口をあけて、しかし下品ではなく朗らかに笑う娘だった。
写真よりも薔薇のほうが、毬子の人となりをあらわしているように思えた。薔薇に毬子が宿っていると言われれば、今ならたやすく信じられる。
いつの間にか、赤井の姿が消えていた。さがして外に出てみると、玄関前の受付にあるパイプ椅子に腰かけて煙草をふかしていた。
「ありがとう」
そう言うと、赤井は照れたように頭をかいた。
「あの花を見ていると、毬子ちゃんが帰ってきたような気がしないか」
漂ってくるはずのない薔薇の香りが、かすかな笑い声とともに波のように打ち寄せる。
突然、胸の奥から大きな波がおしよせてきた。
妹の死を知ってから初めて、視界が海に沈んでいった。
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