むかいあって座っている友人を、私はそれとなく観察していた。
すこし髪の生え際が後退していた。私よりたしか一つか二つ年上のはずだから、禿げ上がるには早すぎるような気がする。しかし、人それぞれだから仕方がないだろう。
すこし肌の張りがないように見えた。黒ずんでいるようにも見える。これは彼の現在置かれている状況にすれば、不思議はないのかもしれない。
「三年ぶりかな」
私が言うと、彼はちょっと考えるように首を傾げた。
「そうかな。そうだな」
笑った顔は以前と変わりない。
夜のファミリーレストランは盛況だった。家族連れ、カップルが多い。
男二人でテーブルをかこんでいるのは、私たちだけのようだ。
「しかし、驚いたよ。会社に電話したら、お前は病気で会社を辞めたって言うんだから」
「うん。ちょっと入院しててな。それで、退院してからもちょくちょく病院に行かなきゃならないんで、普通の通勤はちょっとな……。今はアルバイトとして週に三回行ってる。バイトなのに責任重いポジションでさ」
肩をすくめてみせる。
彼の病気のことは会ってすぐに聞いた。週三回会社に行っているというが、それと同じ回数病院に通っている。血の洗濯などをしているそうだ。
「しかし、あんまり病人らしくないな。顔色は悪いけど。不治の難病っていったら、もっと悲惨なものを想像するけどな」
冗談めかして言う。避けて通るよりも、一度口にしておいたほうが気が楽だ。実際、見た目は重病人に見えない。
ちょうど料理を運んできたウェイトレスが私の言葉を聞いて、一瞬だったが手を止めた。「不治の難病」という言葉に驚いたのかもしれない。
「そうだろ? 俺もそう思うんだ」
前に並べられたフォークとナイフを手に取りながら、彼はほめられた子どものように笑った。
「塩と水分のとりすぎには気をつけないといけないのが、めんどうだけどな」
彼の前にはハンバーグステーキセットがある。
「それは、ちょっと味が濃いんじゃないか? 大丈夫かよ」
「たまにはいいよ。久しぶりに会ったんだしな。ここは俺がおごる」
「ばか。学生の時といっしょにするな。お前のような稼ぎの少ない病人にたかるほど、困ってないわい」
私がわざとらしく胸をはってみせると、彼は楽しそうに笑いながら、ハンバーグステーキを一切れ口に放り込んだ。
彼の住まいは、六畳二間のアパートだった。
「寝具がそろってないけど、まぁ、みんな掛ければ寝られるだろう」
「上等だよ」
私は押し入れから不揃いの寝具を引っ張り出した。
なるほど、敷き布団がない。
「夜中にゴソゴソするかもしれんから、あいだの襖は閉めておくぞ」
「へぇへぇ。どうぞご自由に」
彼は奥の六畳にパイプベッドをもっていた。
私は玄関寄りの六畳に、冬用の掛け布団を敷き布団代わりにし、夏用の掛け布団や毛布やらを上に掛けて丸まった。
夜の冷え込みはかなりのものだったが、重く感じるほど身体に重ね被せた布団のおかげで、ほどなく私は眠りに引きこまれていった。
目が覚めたのは、たぶん隣りの部屋の気配のせいだろう。
深呼吸のような溜め息が二つ聞こえた。襖の隙間から明かりがもれている。
「……起きているのか」
襖越しに問いかけると、しばらくの間をおいて
「おう」
という返事が聞こえた。
寒さに布団をひきずりながら、身を起こした。
襖をすこし開ける。明かりのまぶしさに目を細める。
彼はパイプベッドに腰かけて、太腿やふくらはぎをさすっていた。その前で電気ストーブが赤く光っている。部屋のほろぬくさからすると、すこし前からそうしているらしいと察せられた。
「どうした」
彼はこちらを向かずに、何気ない口調で答えた。
「いや。足がだるくなってな。こうしてると、すこしは楽なんだ。いつものことだ」
空色のパジャマのズボンの裾をすこしまくり上げて見せる。皮膚が黒ずんでいるのがはっきりとわかる。目はそらさなかった。
「病気のせいか」
「まぁな」
「夕食が悪かったんじゃないのか」
「さぁな」
答えるのが鬱陶しいのか、彼の返事は短い。
「足をさするの、手伝おうか」
「いや」
彼は足をさすりながら、初めてこちらを向いた。照れくさそうな、苦笑まじりの表情を浮かべている。
「悪かったな。起こしちまって。俺はもうすこしこうしてるから、お前、先に寝ろよ。明日は病院に行くし、こんなことには慣れているから大丈夫、心配することないさ」
「そうか」
今度は私の返事が短くなる番だった。
襖を閉めた後、彼の気配が眠りにつくのを待っていたが、先に寝入ってしまっていた。
翌朝の冷え込みは格別だった。
彼はやはりなかなか寝つけなかったのか、起き出してきたのはおそかった。
「病院に行くんだろ?」
手洗いからもどってきた彼にたずねる。
彼は眠気の拭いきれていない表情を私に向けた。次に、壁にかかっている薄い丸形の時計に目を向ける。
「十時ころに行けばいいんだ。病院は歩いてすぐだから、身支度する時間は充分にあるさ。お前は何時の電車だ?」
「十二時五分の新幹線。バスは十五分ごとにあったよな」
電気ストーブの電源を入れながら、彼はうなずいた。
「駅まで二十分くらいかな。……それにしても、今朝は冷えるな」
「風邪引くなよ。今のお前が風邪引いたら、えらいことになる。抵抗力なくなってるから」
「あはは。まったくだ」
私のコートは暗い色のフロックコート。彼の土色の防寒着はフード付き。フードと袖の端は白い毛で縁取られている。
私が吸血鬼だとしたら、彼はイヌイットといったところだ。
アパートを出て、冷たい大気に頬を凍らせながら歩き出した。
しばらくして、ふいに彼は足をとめ、天を見上げた。
「どうした?」
私も同じように天を見上げる。
明るいのか暗いのかわからない色の雲が空に詰まっていた。その雲のかけらが多数、ゆっくりと近づいてくる。
天はイヌイット風の彼に軍配をあげたようだ。
「雪だ」
ぽつりと彼が言った。
「ほんとだ」
私と彼が知り合った街は、よく雪の降り積もるところだった。
あの街から、私たちはどれほど遠くに来てしまったのだろう。どれほどの時が流れたのだろう。
ゆるゆると降りてくる雪を見上げていると、雪が下に降りてくるのではなく自分が上へと昇っていくように感じる。もちろん錯覚だが、心地よい感覚だ。
しばらくして、首筋を伸ばすように下に顔を向ける。長い間、空を見上げていたので、軽く痛む。
アスファルトの道路に落ちた雪は、呆気なく水にかわっていた。このあたりでは、雪が積もることはあまりないだろう。
見るとはなしに、彼の足元に目がいった。そのとたん、表情が凍ってしまうのが自分でわかる。降る雪を見上げていたときの錯覚が、幻覚をつれてきたのか。
彼の足は地面についていなかった。飛び上がっているのではない。浮かんでいるのだ。
ちょうど掌が入るくらいの隙間が彼の足と地面との間にあり、すこしずつ隙間は広くなっていくように思えた。
「おい!」
あわてて顔を上げると、私は彼の肩に手をやった。その手に力を込める。彼の足を地におしつけようとした。
「なんだよ」
驚いたような彼の顔が、空からもどってきた。
「あ、お前……」
言いかけて、私は彼の足元に目をもどした。
彼の足はちゃんと地に着いていた。
やはり幻覚だったのだろうか。
「い、いや。その、あまり立ち止まっていると風邪をひくから、もう行こう」
彼は肩をすくめると、歩き出した。
停留所で待つこともなく、バスは来た。
「じゃあな」
彼はちょっと片手を上げて微笑んだ。彼の通っている病院はこの近くらしい。地理に暗い私には、どこに病院があるのかわからない。
乗る新幹線の時間までは、まだだいぶあるが、彼の治療はほとんど一日がかりだから、待っていてももう今日はあえない。駅近くの古本屋で時間をつぶそう。
「あぁ、またな」
私も片手を上げて、バスに乗り込んだ。乗車券をとると同時に扉が閉まり、バスは動き始めた。一番後ろの席が空いていたので、そこに落ち着くと身体をひねってガラス越しに彼を見た。
彼はまだそこに立っていた。しかし、バスの方はもう見ていなかった。
彼は空を見上げていた。
雪は降り続いている。
私は彼に駆け寄って、その肩をもう一度おさえたい衝動にかられた。
彼の姿が小さくなっていく。
歩いてくれ。大地を踏みしめて、歩き出してくれ。
私は祈るように、彼の姿を見続けていた。
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