ライターにのばした手を、妻の金切り声が強く打ちすえる。 「煙草を吸うなら、外で吸って!」 とたんに、ベビーベッドで娘が盛大に泣きはじめた。 妻はあわてて娘を抱きあげた。かるく揺すりながらあやしはじめる。こちらをチラリと見た妻の目はきびしい。 はたして、娘が泣きはじめたのは、煙草をくわえたせいか、金切り声がひびいたせいか。 視線をそらして、口から煙草をとる。 「この寒空に、外へ出ろって言うのか」 はからずも哀れっぽい口調になる。その声の響きに、心の中でため息をつく。 「風邪をひいたら、もどってこなくていいからね。綾ちゃんにうつったら大変だもの」 にべもない。「煙草くさい」と言いながらもほほえみ、身を寄せてきたのは、それほど前の話ではないはずだが自信がなくなった。 「わかったよ。換気扇の下で吸うから。それならいいだろう」 「なるべく換気扇に近寄ってよ」 こちらを見ようともしない。 灰皿を片手に立ち上がる。 ちいさな台所のちいさな換気扇から下がっている紐を引く。身体のわりに大きな音をたてて、換気扇がまわりはじめる。 換気扇の下にあるコンロ台に灰皿を置き、顔を上に向ける。換気扇の羽にむかって煙をはきかける。煙草を吸った気がしない。 すぐ横の大きな窓から、換気扇から吐きだされた煙がかすかに見える。その窓を開けるとベランダに出ることができる。ベランダといっても、幅が一メートルにも満たないせまい空間だ。白ペンキの塗られた鉄の柵が、空とベランダの境界をつくっている。 そのせまくるしい空間が、暖かい季節の煙草喫みの唯一の居場所となる。 五階建ての団地では暖かくなると、階にかならず一つか二つは小さな火が見える。みんな、部屋からしめだされた煙草のみだ。それを蛍族と称するらしい。 窓から隣の棟を見ていると、鏡を見ているような気になる。 今もガラスを透かして、二階の真ん中で凍えそうな小さな火が見える。この寒風吹き荒ぶ中、蛍族がふるえている。見ているうちに、ふるえがうつったらしい。身体がビクリとふるえ、指先から落ちた灰は灰皿をはずれた。 「やめちゃえばいいのよ、煙草なんて。毒なのよ」 妻が言う。娘はおとなしくなっている。換気扇の音だけが、にぎやかにひびく。 「……つきあい長いからな、煙草とは。なかなか縁を切る気にならない。……最初に煙草を吸ったのは、いつだったかな。あぁ、小学五年のあの時か」 「えっ。小学生の時から煙草を吸ってたの」 「いや。そのときは、一度きり。常用しだしたのは二十歳からだ」 「わかった。お父さんのまねをして、煙草をふかしてみたっていう、よくあるやつでしょう」 なんとなく得意そうな妻の言葉に、かるく肩をすくめて答えた。 「父ではなく祖父だったよ、煙草を吸っていたのは。それに真似をして吸ったわけじゃない」 つづく言葉をさがしながら、煙草をふかく吸い、ゆっくりと吐きだした。 いく筋もの線を描きながら換気扇に吸いこまれていく煙を、しばらく眺めていた。 祖父は、母屋を父と母にあけわたして、離れに一人で寝起きしていた。祖母は父が結婚する前に死んでいた。だから、写真でしか祖母の顔は知らない。 田舎の旧家だった。昔は大地主だったらしいが、そのころは山も畑もたんぼもなくしていた。父も会社員だったしね。 ただ、家は古いが大きくて、敷地は広かった。祖父が離れに住まなければならないほど家がせまかったということはまったくない。たぶん、母に気をつかったんだろうと思う。 離れは結構りっぱなもので、今のこの辺りの平屋くらいの大きさはあった。台所も便所もちゃんとあったが、風呂だけは母屋にしかなく、祖父は毎晩のようにやってきては、渋い喉で浪曲をうなりながら風呂につかっていた。 母は、祖父を嫌っていたわけではないだろうが、あまり親しくならんでいるところを見た記憶がない。それというのも、祖父は無類の煙草のみで、母は煙草が大嫌いだったからだ。 母方の祖父は、やはり煙草のみで、かなり前に肺を病んで死んでいた。母は、煙草が自分の父を殺したと、いつも言っていた。 父は煙草のみの祖父の息子だったが、煙草は吸わなかった。 僕は祖父が好きだった。煙草の匂いも嫌いではなかった。 祖父は朝おそくまで寝ていた。その布団にもぐりこむと、煙草と膏薬の匂いがした。その匂いにくるまれながら、祖父に絵本を読んでもらったり、昔話を聞いたものだった。 母はよく、僕をつかまえて抱きかかえながら、髪の毛に顔を近づけて、 「煙草くさい! ちょっと来なさい。洗ってあげる」 そう言ったものだ。 さすがに、僕に祖父と遊ぶなとは言わなかったが、父には祖父に関する苦情を毎日のように叩きつけていた。 「あなたから、お義父に言ってくださいよ。せめて、この子と一緒にいる時だけは煙草を吸わないでくださいって。今日もこの子ったら、身体中から煙草の匂いをさせて。よっぽど長い間、煙の中にいたってことだわ。たくさん、煙を吸いこんでいたのよ。他人の吐きだした煙草の煙だって、たくさん吸ったら健康に悪いの。この子が私の父さんみたいに、胸を悪くしたらどうするの」 「親父のたった一つの道楽だからな、煙草は」 「わかってる。だから、やめてくれなんて言ってないでしょ。せめて、この子の前では吸わないでって言ってるだけじゃない。可愛い孫のためよ。かんたんなことじゃない」 「そうは言ってもなぁ」 父はいつも煮えきらなかった。母はそんな父をしばらく睨みつけて、やがて大きなため息をつくと、夕食をちゃぶ台にならべはじめるのだった。 母の祖父への苦情がいつも夕食の準備をしながらだったのは、祖父とちゃぶ台をかこむ唯一の機会が、夕食だったからだろう。 祖父が母屋に来て僕たちと一緒に食事するのは、夕食だけだった。朝食と昼食は自分でつくっていた。母の食事が気に入らないというわけではなかったと思うが、もしかしたら味つけがあわなかったのかも知れない。 父が母の言葉を、祖父に伝えたかどうかは知らない。すくなくとも、一緒に食事をしているときに、そんな話をしている父を見たことはない。何度か、目配せや表情で父をうながしている母を見たことはあったが、それに対する父は、なるべく祖父も母も見ないようにしていた。 結局、祖父が煙草をひかえるようなそぶりをしたという記憶はない。 夕食の前後も祖父は煙草を吸っていたから、食事をすませて祖父が離れにもどると、母は障子や窓を開け放して、煙草の匂いが消えるまでそのままにしておくのだった。冬でも同じだ。寒かったよ。 「どうして爺ちゃんは、いっつも煙草をすってるの」 祖父と一緒に風呂へ入ったときに、たずねたことがある。 呆れたことに、風呂に入るときも祖父は煙草をくわえていた。だが、脱衣所からくわえていた煙草の火が消えると、あらためて煙草を取りに行くことまではしなかった。だから、煙草をくわえていない祖父を見たのは、この時と食事をしているとき、そして寝ているときくらいのものだった。 「お前の母さんは、煙草が嫌いだものな」 祖父は笑って、僕の頭をなでた。 「爺ちゃんはな、昔、さむーいところで働いていたことがあるんだ。それはそれは寒いところでな。夜、寝床にもぐりこんでも、ちっとも暖かくない。こう、身を丸めてな、ふるえながら一生懸命ねむろうとするんだ。次の日に、またつらい仕事があるからな」 「そんな仕事、やめちゃえばよかったのに」 祖父はさびしそうに笑った。 「いろいろわけがあってね。やめるわけにはいかなかったんだ。それで、そんな寒いところだと、ほら、この風呂の湯気みたいに、吐く息が白くなるんだ」 「知ってるよ。冬になると、息が白くなるもん。そこはずっと冬なの」 「そうだな。あたたかい季節はほんとに短く、あとはずっと冬みたいだった。そうだ……寒さと絶望で、仲間たちがつぎつぎに倒れていく。作業しながら空を見上げると、決まってどんよりと曇っている。俺たちの吐くため息が、悲しみと恨みにどす黒く染まって、空一面に漂っているような気がした」 祖父はしばらく黙りこんで、過去を彷徨っているようだった。 「朝が来ると、身体の節々が痛んだ。白い息を吐きながら、上の段の寝床の仲間を起こそうとして気がついた。その男の口は白く凍りついていて、白い息を吐いていない。男は俺より三歳若かったが、病んでいた。しかし俺だって、健康だとはいえなかった。次の朝は俺の番かも知れない。白い息をいつまで吐いていられるのだろう」 祖父の目は、僕を見ていなかった。祖父が語りかけているのは、自分の過去。 僕はなんだか恐ろしくなって、湯につかっているのにふるえがとまらなくなった。祖父の皺だらけの身体にしがみついて、ゆすった。呼びかけた。 祖父は僕を初めて見るような、びっくりしたような顔をした。それから、苦笑を浮かべた。 「おぉ、悪い。ちょっと難しくなっちゃったたな。とにかく、爺ちゃんは長いこと白い息を見てきたんで、ここに帰ってきたとき、白くない見えない息は本当のことと思えなかったんだ。なんだか、息をしていないみたいでね。煙草の煙を吐いていると、あぁ、息をしているんだって安心するのさ」 「へんなの」 「変か。そうだな。自分が生きていることを確認するために煙草を吸っている奴なんぞ、どこにもいないだろうな」 祖父は嗄れた笑い声をひびかせ、僕をうながして風呂をでた。 祖父が身体をふく前にしたことは、やはり煙草をくわえて火をつけることだった。 「そのお爺さんの影響で、煙草を吸ったのね」 妻は眠った娘をベビーベッドに寝かすと、立ち上がってこちらに近寄ってきた。 「正確には、そうじゃない。ある朝、学校に行く前に離れに寄った。祖父に朝の挨拶をしてから行くのが、日課だった」 「お爺ちゃん子だったんだ」 「あぁ。ところが、その日に限って返事がない。部屋に上がり込んで見ると、祖父は寝床の中で冷たくなっていた」 「……」 持っていた煙草は短くなって消えていた。それを灰皿に捨てる。 「もう死んでいるのがわかった。でも、祖父を呼びつづけた。ゆすりつづけた。その時、枕元の煙草とライターに気がついた。祖父は寝煙草を滅多にやらなかったけど、目が覚めると、すぐに布団の上に胡座をかいて一服やっていたんだ。いそいで箱から煙草を一本抜きとって、火をつけようとした。あの話が頭にあったんだろうな、きっと。息をしていることを、煙草の煙で知るっていう話を。もしかすると煙草をすわせれば、祖父が生き返ると思ったのかもしれない」 「その時に、煙草を?」 「まぁ、そうなんだが。最初は、煙草を吸おうなんて考えもしなかった。だけど、煙草というものは、普通に火をつけようとしてもなかなかつかないものなんだ。長い間、火をつけようとしてみたけれど、うまくつかない。そのうち、ライターの方が熱くなってきて、放り出してしまったくらいだ」 「煙草をくわえて、吸いながら火をつけないと駄目なのね。いつもあなたがするように」 「そう。君が気づいたように、いつも見ていた祖父の仕種を思い出して、煙草に火をつける方法を思いついた。……初めての煙草はひどい味だった。苦くてね。咳がひどく出て、涙がぽろぽろこぼれた。しかし、どうにか火はついた。今度は祖父にくわえさせようとしたが、もう死んでしまっているのだからうまくいくはずもない。ちょっと手を放すと、唇から煙草が落ちてしまう……悲しかったよ」 「そう……」 「どうしようもなくなって、父を呼びに行こうとした。立ち上がろうとしたとき、目が回ってコテンとひっくり返ってしまった。煙草のせいだと思うんだが。起き上がろうとして、祖父の身体を見ると、その身体がだんだん輝いてくるように思えた」 「幻覚ね。煙草は麻薬よ」 妻の言葉にはかまわず、つづける。 「ふらふらした頭で見つづけていると、祖父の口から煙が出はじめた。煙草は灰皿の上でまだ煙を上げていたけれど、それとはまったく別の煙だった。しかし祖父は死んでしまっていて、くわえさせた煙草を吸ったはずはなかった。その煙は天井にしばらく漂っていた。それはだんだんと、ある形に見えはじめた」 煙草を一本くわえる。火はつけない。唇のふるえが、煙草を大きくゆらす。 「煙は、祖父の姿になっていた。見なれた笑い顔をこちらに向け、長い煙の腕をのばした。僕の頭をするりとなでると、枕元の煙草を取ってくわえた。そして、ゆっくりと天井に消えて行った……」 妻は話を聞きながら、窓の方に顔をむけていた。物干しに引っかけられた雑巾代わりの古タオルは、だらりと垂れ下がっている。 風はやんでいるようだ。 「ね。ベランダに出ない?」 めずらしい誘いだった。 妻は返事も聞かず、さっさと窓を開けてベランダに出ていた。 「綺麗な星」 ベランダ用におかれているサンダルを履いて、妻の横に立つ。柵にもたれかかる。寒さは我慢できないほどではではない。 星が近い。 吐く息が白い。 「あなたも、この息のため、煙草を吸うの? それとも?」 妻はそう言って黙りこんだ。意味ありげにこちらを見つめ、ほほえんでいる。 すこし考えて、煙草に火をつける。 「べつに。まぁ、習慣かな。吸わないと落ちつかなくってね。祖父のことは、煙草を意識させてくれた最初の出来事だというだけだ」 妻はちいさく笑っている。信じてはいないという表情だ。 目をあわせていられなくなって、星空に顔を向けた。つい煙の行方に目がいってしまう。 その視線を追ったのだろうか。 「ほんとうに、お爺ちゃん子なんだから」 くすくす笑いながら、妻は身を寄せてくる。煙草の火を気にしながら抱きしめ、唇をあわせる。 はなれた妻は部屋にもどりながら、笑顔で告げる。 「煙草くさいわ。部屋にもどってきたら、うがいをして手を洗ってよ。でないと、綾ちゃんにさわらせないから」 肩をすくめて、煙を吐きだす。 紫煙はゆるゆると漂い、星空へ上って行く。 それは何の形にもならず、ふいに吹いた風にあっけなく散らされてしまった。 |
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