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とおのものがたり



展開


 どうして、月曜日はこんなに足が重いのだろう。
 いや、考えてみれば、足を軽く感じたことなど、この数年というものないような気がする。
 頭だって重い。自然と顔は下を向く。
 空を見上げたのは、いつのことだったろうか。飛ぶことのできない男が見ても面白いものではない。
 無愛想なアスファルトの面ばかり見ている。雨を知るのも、いつだってアスファルトの表面からだ。
 ときどき、その厚顔無恥な黒い顔の表面をはぎ取ってしまいたくなる。土の地面が懐かしいのではない。ただ、目の前にある物を変えてしまいたい、一種凶暴な気分がこみ上げてくるのだ。だが、その気分は吹き出すことなく、一瞬のうちにおさまる。
 このあたりが、変に小さくまとまってしまう性格の特徴かもしれない。
 目の前のものが劇的に変わることなどなかった。とくに、良い方向に変わることなど、なかった。
 だが、自分の能力が他人より激しく劣っているとは思わない。ほんの少しの差だ。そして、さらに言えば、運がないだけなんだ。
 本当の自分はこんなものじゃない。きっと、どこかが少しだけ狂っているだけなんだ。運とか、巡り合わせとか。
 大きくため息をつく。
 どうせ、このまま昨日と変わらぬ日が続いていくのだろう。退屈というものも、身に染みついてしまえば、意味をもたない。
 
「よぉ、ひさしぶりだなぁ。俺だよ、オレ。吉沢だよ」
 突然叩かれた肩越しに振りむくと、まのびした顔が笑みをたたえていた。
「?」
 年ごろは同じくらいだから、学校で一緒だったのだろうか。記憶にない。
「忘れたのか? 冷たいヤツだな。ほら、よく一緒に悪さをしたじゃないか」
 自慢ではないが、生まれてこのかた、たいした悪さはした覚えがない。せいぜい、小学校の頃、駄菓子屋でチョコレートを万引きしたくらいだ。小、中、高校、ついでに大学と、平凡を形にしたような存在だった。
 こちらの反応が鈍いので、吉沢というその長い顔の男は、訝しげにある名前を口にする。
 この男と対面してから、初めて首を縦に振る。自分の名前は、いくらぼんくらと言われているといっても忘れはしない。
 すると、男は嬉しそうに笑った。
「やっぱり、そうだろ? 俺がお前を見間違えるわけないものな」
 だが、やはり吉沢という男は、記憶の沼をさらっても見つからない。
 
 会社の始まる時間まで、あまり間がない。しかし、立ち去ることはできない。吉沢という男の喋ることはなんとも魅力的だった。
「仕事は何をやってるんだ? まぁ、お前なら何をやってもうまくいってるんだろうけどな」
 にやりと笑いながら吉沢が言う。その笑いに皮肉は感じられない。
 しかし、今まで仕事でうまくやったことなど、数えるほどしかない。運のない人生だ。
 あいまいにうなずいていると、吉沢は納得したかのようにうなずきかえす。
「そうだろうな。大学時代から、抜きんでてたものなぁ。ほら、いつか、お前にレポートを書いて貰ったことがあったろう。俺、あの授業苦手でさ。でも、単位数の関係で落とせなくて……覚えてるか? そうか、わすれちゃったか。あれは失敗だったんだ。教授に呼び出されてさ、『君、これは他の人が書いた物だろう。君にこれほどのレポートが書けるはずはない。私の目は節穴じゃない』って怒鳴られたんだ。レポートが出来過ぎてたんだよな。さんざんしぼられたよ。いや、お前のせいじゃないさ。俺が悪いんだけど」
 大学時代の成績は『不可』と『可』で占められていたはずだが……。大学には向かない人間だったんだ。
「それにさ、あの娘、覚えてるかな。ユミちゃん……テニス部のエースだった。あの娘、お前のことが好きだったんだってさ。この前、たまたま大学時代の友だちにあったときに、そう教えられた。お前、気づかなかっただろう。当然だよな。あの頃、お前、女に不自由はしていないどころか、相手が多すぎてかえって苦労してたくらいだからな。そういえば、あのころ俺がつきあってた彼女は、お前のガールフレンドの友だちだったな……あぁ、彼女とは、就職してすぐに別れたんだ」
 女性にもてたためしなどない……はずだ。巡り合わせが悪いんだ。
 なんだか、頭の中にもやがかかっているかのように感じる。さっきまで、確実に見通せた自分の過去が、霧の向こうにかすんで見える。ゆらゆらとたよりなく漂い、時折点滅するように現れるのは、吉沢が描いてみせる過去だ。
 それは現実と願望のせめぎ合いだ。こうありたい、こうであるはずだという願望を、吉沢は見事に語ってくれる。
 それが、現実の自分であったなら……。
 吉沢が、なにか思いだしたという表情を浮かべ、その口がはげしく開いたり閉じたり舌を出したり、歯をむいたりする。
 吉沢の縦に長い顔の中の、その口ばかりを見つづけている。そこから紡ぎだされる、夢のような過去を待っている。
「そうだ。この間、佐藤に会った。お前と一緒に、ちょっとした商売をはじめたヤツ。あれは大したアイデアだったよな。大学生ならではの特色を生かしてさ。『コロンブスの卵』ってヤツかな。あれも、お前のアイデアだって? あの商売、まだちゃんと母校の後輩に受けつがれてるって、知ってたか? 苦学生なんて、今は死語だけど、今は今なりに、学生には金が必要なんだ。ま、贅沢といえば、そうかも知れないがな。後輩の間じゃ、お前は伝説の人物だぜ。一度、母校に行ってみたらいいぞ。……あぁ、佐藤だったな。それが、今じゃいっぱしの青年実業家だぜ。まいったよ。でも、佐藤が言ってたぜ、今こうして居られるのも、お前のお陰だって。アイデアの出し方、それの練り方、その方法論なんて、みんなお前から教えてもらったって、感謝してた。……そんな困ったような顔をするなよ。まったく、お前は奥ゆかしいんだから」
 会社に出す企画ですら採用された試しなどない……はずだ。
 もちろん困った顔をしていたのは、奥ゆかしさからではない。
 
 さんざん思い出話を聞かされた。人違いだとは言うことはできなかった。口をはさむ間もない。
 人間の口とは、これほどよく動くものなのかと、つくづく感心してしまう。
 吉沢の口からは、言葉がとめどもなく流れ出る。まるで、筏の急流下りだ。言葉の波に翻弄され、きりきりと振りまわされる。ときおり顔にかかるのは、波しぶきならぬ唾しぶきだ。
 それにしてもこの世の中には、自分とよく似た顔かたちをした同姓同名の男がいるらしい。それも、吉沢によると、同性からも異性からも好かれるすばらしい男らしい。しかも、運も能力も申し分ない。
 まるで、自分とは正反対だ。うらやましくもあるが、だんだん憎らしい気分の方が強くなってくる。
 こちらに少しぐらい幸運をわけてくれと思う。
 同じ名前でよく似た容姿なら、それくらいの分け前があってもいいじゃないか。
 よく似た他人への嫉妬が顔に出ていたらしい、吉沢がちょっと眉を寄せてのぞき込んできた。
「どうした? 暗い顔をして?」
 答えに窮する。
 しかし、次の瞬間、吉沢は何かに思いあたったように顔を輝かせた。
「わかった。いわゆるマリッジブルーってやつだろ? 男にも多いらしいからな」
 意味がわからない。
「待てよ……今日じゃないか、お前の結婚式!」
 何のことだろう。
「俺、これから出張で欠席するから、気がつかなかったけど、たしか今日だろう」
 吉沢はあわただしく懐ろをさぐって、黒い手帳をとりだし、中を確認している。
「今日だよ! 時間まではメモしてないけど、もうすぐじゃないのか?」
 吉沢の声は悲鳴に近い。なんだか慌てている様子がおかしかった。
「何をニヤニヤしてるんだ。自分の結婚式だろう!」
 よく似た他人の結婚式さ。
 そう言おうとしたが、吉沢は急いで車道に向かって手を振っている。
「ちょうどタクシーが来た。早く行け。式を目前に不安になるのはわかる。結婚する直前の人間は、精神的に不安定になって『これで本当にいいんだろうか』と思うらしいからな。しかし、ここまで来てやめるわけにはいかないだろう。とにかく、式場に行くんだ!」
 反論する間もなく、緑色のタクシーに押し込められる。吉沢は早口で運転手に行き先を告げた。名前は知っているが、式の予約などした覚えのない式場だ。
「いいか。ちゃんと式場に行くんだぞ。へんな気を起こすんじゃないぞ」
 吉沢は最後にそう言って、タクシーの外に出た。
 走り出したタクシーを見つめる吉沢は、見えなくなるまで歩道に立っていた。
 ここまで間違われると、吉沢の思いを無にするのは気の毒に思えてくる。
 まさか、新郎に間違えられることもないだろう。一度、その男を見てみるのも悪くはない。
 だが、ふと不安になる。
 本当に自分によく似た同姓同名の人間など、この世の中に存在するのだろうか。
 よく似た人間はいるかもしれない。同姓同名の人間もいるかもしれない。しかし、その両方を兼ね備えた人間が、しかも同年代の人間が存在する確率は、とてつもなく小さいのではないだろうか。
 記憶喪失? そういえば、あまりに衝撃が大きく、耐えられない出来事に出会った時、人間は精神のバランスをとるために、記憶を消したり、別の過去を作り上げたりすることがあると聞いたことがある。
 もしかして、それなのだろうか。そんなに衝撃的な事件が自分の身に起こったとは信じられないが。
 いや、昔に読んだSF小説にパラレルワールドというのが出てきたじゃないか。次元の違う世界がいくつも隣り合っているという話だ。次元の違う世界はみんな同じようだが、細かいところで各々、すこしずつ違うのだ。
 違う次元の世界では主人公は成功者だったり、落伍者だったり、また主人公だけが存在しない世界だってあった。主人公はその次元の違う世界に迷い込んだのだった。
 そんな事が、自分の身に起こったとしたら、ここは自分の世界じゃない。この世界の自分は成功者で……。
 いくらなんでも、まさかそんなことはないだろう。
 現実的に考えられるのは、あの吉沢という男が誰にでもウソをついて、相手が振り回されるのを喜んでいるという性癖の持ち主だとか。あるいは親しげに他人に近づいて、油断している相手から……。
「掏摸か!」
 思わず叫んで、ポケットに手をやる。
「お客さん、どうしたんです?」
 ちょうど信号が赤になり、タクシーがとまったところだったので、運転手が振り向いてたずねてきた。
 財布はポケットにあった。
「いや、なんでもないんだ」
 運転手はちょっと肩をすくめて、前に向きなおった。
 何だか、わけがわからない。
 もうすぐ式場だ。そんなわけないのに、結婚式前の新郎のように鼓動が早くなる。
 吉沢は病的な嘘つきならば、あそこではっきりする。それとも、鏡を見ているような男と対面できるのだろうか。あはは……まさかとは思うが、自分が新郎にさせられてしまうのだろうか。
 招待客らしい着飾った男女がロビーでたむろしているのが、ガラス越しに見える。
 それにしても、こんな突拍子もないことが自分の身に起こるとは、今朝起きた時には考えもしなかった。待っていたのは、いつもと同じ日だったはずだ。
 だが、待ち望んでいたのは、昨日と違う日だった。
 単なる人違いであっても、吉沢に感謝しなければならない。
 運も不運も、昨日とは違う状況をまた楽しめば、アスファルトとにらめっこをせずに歩いていけるのかもしれない。
 よく見ていれば、昨日と完全に同じ今日などないだろう。それでも、今日に期待できないならば、自分ですこし変えてやればいいのだろう。
 そう。たとえば、見知らぬ人に旧友をよそおって声をかけてみるとか。
 思わず笑いがもれる。
 ルームミラー越しに、運転手がこちらをうかがっているのがわかる。笑いをおしこめた。
 タクシーが玄関先にとまった。
 タクシーのドアが開き、運転手は運賃を告げる。
 考えてみれば、タクシーに乗るのも久しぶりだった。
 料金を払ってタクシーを降りる。背中でドアの閉まる音がした。
 ガラスの向こうの客たちが、こちらを向いた。湧き起こったどよめきは、はたして何のためか。
 結末をそう急ぐこともない。
 客たちから視線をそらして上を向く。
 空は晴れ渡っていた。
 



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