春の大売り出し。商店街を通れば、耳障りな音楽と拡声器から響きわたる呼び込みの声に、耳をふさぎたくなる。
もう分厚い上着はいらない。そんなことはわかっている。ただ認めたくないだけだ。春が来たなんて。
まだ冬だ。ずっと冬だ。
「春なんて来なかった。桜は咲く前に散った」
歩きながらつぶやいて、上着のポケットに手を入れる。左手に紙の感触。見なくてもわかる。何度も見た紙の文字は目をつぶれば浮かんできて、崖から落ちようとしている心に最後の一突きをくらわせる。
それでも未練たらしく今日まで持っていた。まさかポケットの中で書かれている文字が変わるわけではないだろうが、どこかでそんな奇跡を信じたい気がしていた。
「桜散る、桜ちる。あほらしい。サクラチル」
橋の真ん中に立って、川を見下ろす。幼い頃に遊び友だちになってくれた川はもういない。厚い白塗りの几帳面な顔をした川がよそよそしくそこにいる。
紙吹雪は桜の花びらには似ても似つかない。人をどん底につきおとした紙切れが、こまかなゴミとなって病的に綺麗な川を汚す。
「さくらちる……か」
橋の欄干は金属製で冷たい。あてた手のひらから凍っていきそうだった。
「なんだと。桜は散った? まことか?」
凍えが心の中まで浸透するかと思われた時、しわがれた声が背中を叩いた。
振りむくと、小柄な老人が飛びかかってきた。まるで山歩きでもするような恰好の老人だ。
驚きで身体も口も動かない。しかし、老人はこちらのことを心にかける余裕がないようだ。
「桜が散ってしまったというのは、本当か。では、すでに咲いていたのか」
答える暇もない。老人は痛いほど腕をつかんだまま、うなだれた。
「なんということだ……」
老人の落胆ぶりは気の毒なほどだった。
「いや、『さくらちる』っていうのは、大学入試の合否の電文ですよ。本物の桜が散ったかどうかは、知りません」
考えてみれば、今年は桜を見た記憶がない。近所にも桜を植えている家があるから見たはずだが、それどころではなかったのだ。
「なに? 電報のことばか。まぎらわしい」
老人は安心したらしく、ほっと息を吐いた。老人が腕をはなしたので、立ち去ろうとすると、首がしまった。
「これも何かの縁。いっしょに桜見にまいろう」
気がつくと、老人の持っていた杖のまがった握りの部分が首にひっかかっている。
「このクソ爺! なにしやがる」
杖を振りはらい、喉をさすりながら怒鳴る。
「ほっ! しょぼくれておった小僧にも、まだそれくらいの声は出せるか」
おもしろそうに老人が目を細める。
「爺さんの酔狂につきあってる暇はないんだよ」
背を向けて去ろうとすると、後頭部に衝撃。
くらくらとしゃがみこむ。
「だまれ。つべこべ言わずについてくればよい。桜が待っておるぞ」
あとから考えても、どうして老人の言うとおりしたのかよくわからない。
することがなかったといえば、そのとおりだ。予備校が始まるまでは、まだすこし日があった。
気力のないものは、気力の満ちているものに引きずられるのかもしれない。
老人はまさに溢れるばかりの活力に満ちていた。
「おう。見事!」
嬉しそうな老人の声に顔を上げる。そこにはまだ咲いていない、ふくらんだ蕾をたくさん抱えた桜の木があった。ブロック塀にさえぎられて幹は見えないが、天に向かう枝は道からも見える。
「今年も元気に咲くぞ。けっこうけっこう」
老人は笑いながら、その桜のある家の呼び鈴を鳴らした。
出てきた中年の女性は老人を見て、顔いっぱいの笑みを咲かせた。
「今年もいらしたんですね。よかった。お元気そうで」
「いや。お宅の桜も元気そうでよかった」
女性は老人を、庭のほうへ導く。戸惑いながらも、老人のあとにつづく。
「そろそろと思いましたので、用意しておきました」
桜の下には、茣蓙がひろげてあった。
老人は登山靴をぬいで茣蓙にあがると、桜の枝を天井にくつろいだ風で胡座をかいた。
リュックからとりだしたのは、ラベルのない一升瓶。新聞紙に包んであったのはガラスのコップ。
なみなみとコップに液体を注いで一気にあおる。
喜色満面の老人の顔に液体の効果があらわれはじめ、まさに桜色にそまっていく。それで液体の正体もわかる。
「どうだね、一杯」
どうやらリュックの中身は酒盛りセットらしく、あらたなコップがあらわれた。
酒を飲むのは初めてではない。つがれた酒をゆっくりと飲む。
さっきの女性が酒のつまみを運んできて、酒盛りに加わった。
どのくらい経ったころだろうか。
女性が頭上を指し、うれしそうに言った。
「ほら。咲きましたよ」
見上げると、恥じらっているような気負っているような表情をした桜の花が、一つ開いていた。
妙な一日だった。
老人に引き回されるようにして、町中の桜を訪問して歩いたのだ。そしてひとたび桜の木に行き着けば、始まる酒宴。
この町はこんなに狭かっただろうか。それに、一日とはこんなに時間があっただろうか。徒歩だというのに、日が暮れるまでに町中の桜を訪問しおえたようだった。
桜と一口にいっても、いろいろなものがあるようだ。枝垂れたのもある。咲いた一輪の花の形の中には、桜とは思えないものもあった。あとにしてみれば、どう考えても開花時期のあわない桜もあったようだ。
だが、すべてのこと、すべてのものはかすみのかかった朝の光景にも似て、不安とともにつかみ所がなくなっていた。酒のせいだろう。酒精がすべてのものをかすませる。
「さくらはな、古来、神の降りる場所とされていた。また、死者の眠る場所を示すものとしたところもある」
風が吹いて霧が晴れ、ふいに視界がひらけるように、酒精がかすみの扉をときおりあけて老人の言葉をこちらによこすことがあった。
それを聞きながら、桜の下にすわって酒を飲んでいたのか、それとも次の桜へと歩いていたのか、まるで思い出せない。
「じいさん、神さまにあったことがあるのか」
自分の言葉すら、他人のもののように聞こえた。しかし、老人の返事は扉の向こうだ。
「満開の桜よりも、一番最初に咲く花が好きだな。蕾にとっては外界は未知の世界だ。そこにただ一輪、勇気をふりしぼるように、まだ冷たい風も吹くこともある日に、ぽつんと咲く花を見るのは」
扉が閉まる。しばらくして開く。
老人が驚いたような顔をしてこちらを見ている。どうやら、こちらから何か質問したようだ。その質問も霧のむこうにある。
「わしの名か? うむ。わしは」
扉がしまる。だが、扉の向こうからその名は届いた。しかし、声ではない。その証拠に、いまだに何という名なのかはっきりしない。ただ、文字だけが記憶に残っている。
『春日桜人』
人の名だとすれば、「かすが おうと」か「はるひ さくらびと」だろうか。
一番気になる質問はしたようだ。
「わしが妖精か、物の怪かだと? ばかな。空も飛べず、そのうち塵にかえる人間だ。そうだな。死んだら桜の下に埋めてもらうか」
その日、家は大騒ぎだったらしい。
受験に失敗したショックからなかなか立ち直らない息子が行く先もつげずに暗い顔のまま出かけ、日がくれてからベロンベロンに酔って帰ってきたからだ。
父母はこれから息子が転落していくさまでも想像したにちがいない。
酒浸りの日々。酔っては暴れる息子。
残念ながら、それは想像の中だけで終わった。次の日、夕方まで二日酔いに苦しみ、しばらく酒は口にすまいと思った。
今日まで、一年近く酒は口にしていない。
いつの間にか、再び文字の「さくら」があちこちにとどく頃がおとずれており、気がつけばそれもうしろのほうに過ぎさっていた。今年も散ったの咲いたのと、小さな紙切れに書かれた文字が若者の心をもてあそんだのだろう。
ポケットに紙切れはない。用件を伝えおわった紙切れは、くず入れに消えた。
去年のあの不思議な日から、なんとはなしに花を気にかけるようになっていた。桜の花だけではない。あれから漠然と歩いていた道は、今や確実に植物の、いや花のある道へと変わっている。
今年は、とくべつ冬の気配が残っているというわけでもないのに、桜の花は見ない。
「梅は咲いたかァ、桜はまだかいな」
彌蔵をきめ込んで小唄でもうなりたいところだが、この服ではそうもいかない。ぶらぶらと辺りを見回しながら歩いていく。
散歩は一週間に一二度でかける。かなり歩くことにもなれたが、一日で町を歩き尽くすことはできない。あの老人と歩いた道は別のところにある気がする。
「さくらばかりが花じゃなしィ」
どこかで見たような中年の女性とすれ違った。どこで見たのか思い出せなかったが、彼女のほうはすぐに思い出したようだ。
「さくらびとさんのお弟子さん」
呼びかけられてすぐに振り返ったのは、我ながら不思議だった。
「さくらびとさんは? いいえ、あなたでもいいのよ。うちの桜ったら、まだ咲かないの」
彼女は老人の名を「さくらびと」と呼ぶことにしているらしい。
それにしても誰が弟子だって?
彼女のあとに黙ってついていくのは間抜けな気もしたが、桜が咲かないことは気にかかった。
案内されて思い出した。彼女は昨年、あの老人につれられて初めに訪問した桜の家人だ。
桜の下には茣蓙が敷かれている。
「ほんとうにどうしたのかしら、さくらびとさんは。こんなことなかったわ」
ビール瓶とコップ、つまみの煮物を運んできた女性はそう言って桜の木を見上げた。蕾たちが見下ろしている。
「あのお爺さんはいつから来るようになったんですか」
コップを受け取りながら尋ねると、女性はちょっと考えてから答えた。
「わたしが物心ついたころにはもう来てらしたわね。そのころは、まだお若くて」
当時を思い出すように、女性は宙をみつめた。
あの老人に若い頃があったとは信じられなかった。まだ心の中に、老人を妖精か何かのように思いたがっている自分がいる。
女性は老人の住んでいるところも知らないと言う。だから連絡のつけようがないのだとも。
老人が来る日は桜の咲き始める日といっしょだった。老人が来ないから今年の桜は咲かないのだと、女性はきっぱりと言った。
「あなたはお弟子さんだから……」
また桜を見上げる。
あの老人の身に何かがあったのだろうか。まさか、桜の下に眠っているようなことはないだろうな。いや、老人が人間であるなら、そうした可能性もないとは言えない。
去年、老人が「死んだら桜の木の下に」などと口にしたのは虫が知らせたからか。
桜は咲かない。
本当にあの老人が桜を咲かせていたのだろうか。だとしたら、どうやって咲かせたのだろう。健気にたった一輪で、孤独に負けずに開く花。
応援でもしていたのだろうか。
女性に聞きとがめられないように口の中でその言葉をつぶやき、ビールを含む。一年ぶりに再会した酒精とともに桜を見上げる。
「見て!」
女性の叫びを聞くまでもなかった。小さな花が枝の先に開いていた。いつ咲いたのだろう。
「さすが、さくらびとさんのお弟子さんね」
弟子ではないと何度も言っているのだが、女性の耳には届かないらしい。
「さぁ、あんまり引き留めても悪いわ。みんな、待ってるもの」
「みんな?」
「町の桜が咲いていないのは知っているでしょ。みんな、さくらびとさんを待ってるのよ」
冗談ではない。あの老人しか知らない道でなければ、一日で町中の桜を訪問することなどできはしない。普通の人間では何日かかることか。
その時、車のとまる音がした。
「いや、ありがとう。助かった」
一年ぶりに聞く声がブロック塀の向こうから聞こえてきた。
あらわれた老人の姿を見て、遅れた理由がわかった。老人の杖は去年と違い、松葉杖になっていた。右足の膝から下は包帯がぐるぐると巻かれ、左足のそれの倍の太さになっている。
「おぉ。若い衆が花を迎えてくれたのか。うむ。わしの目に狂いはなかった」
「爺さんの弟子になった覚えはないぞ」
うれしさは口を出ると無愛想な言葉になってしまう。自分のあまのじゃくにすこしあきれる。
老人はこちらの思惑など関係なしだ。
「ぐずぐずしてはおれん。親切なお嬢さんが車に乗せてくれたおかげで、すこしは距離がかせげた。そらそら、行くぞ。桜が待っておる」
「その足で行くつもりか」
「ばかもの。お前の背に荷物はなかろう。この身一つくらい背負えなくてどうする」
背負うのか? どうしてそこまでしなければいけない?
そんな思いがちらりと頭をかすめたが、自分でも驚くほど素直に膝をおり、老人に背を向けていた。
老人は羽のように軽くもなく、冷たくもなかった。がっかりした気持ちと、ほっとした気分がいりまじる。
「それでは、参ろうか」
なんとなく馬になったような気分だ。
「まずは、あそこの角を左だ」
老人の声を耳のすぐ横に聞きながら、いつか自分もこの道を、一人で歩く日が来るのだろうかと考えていた。
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